今日は、中秋の名月とか、、、。
どうやら、今夜はその月が見られそうだということなので、昼間の内に、月見団子を買い、山栗を拾い、ススキを切ってきました。
夕刻、ススキを活け、そこに、月見団子と山栗、それに、台所に転がっていたサツマイモを供え、お月様が出てくるのを待ちました(^_^)
幸い、天気予報どおり、今夜は、綺麗な月を見ることができました(^-^*)
今日は、中秋の名月とか、、、。
どうやら、今夜はその月が見られそうだということなので、昼間の内に、月見団子を買い、山栗を拾い、ススキを切ってきました。
夕刻、ススキを活け、そこに、月見団子と山栗、それに、台所に転がっていたサツマイモを供え、お月様が出てくるのを待ちました(^_^)
幸い、天気予報どおり、今夜は、綺麗な月を見ることができました(^-^*)
今日は、墓参に行ってきました。
例によって、ぐるっと一回りしてきたわけですが、今日は、趣向を変えて、逆回りで行ってきました。
何時もは、「妻の実家の墓→妻の実家→常磐共有墓地→私の実家の墓」のコースで行っているのですが、今日は、ほぼその逆回りのコースの「私の実家の墓→常磐共有墓地→妻の実家の墓→妻の実家」の順で行って来たわけです。それに、今日は、マンネリを避けるため、私の実家の墓参りの後、正宗寺にある水戸黄門で有名な「助さん」の墓にも行ってきました。
先ずは、朝、私の実家のあるお寺に向かいます。
変わり映えしませんが、下の写真は、私の実家の墓のあるお寺の写真です。
本堂に向かう石段
本堂に向かう石段の右側の光景(その1)
今年の彼岸花は、まだ満開ではありませんでした。
本堂に向かう石段の右側の光景(その2)
今年の彼岸花は、まだ満開ではありませんでした。
本堂に向かう石段の頂上付近
このお寺にある私の実家の墓参を済ませ、次いで、同じ市内にある正宗寺に向かいます。
そのお寺には、水戸黄門で有名な「助さん」のお墓がありますので、そこをお参りしようと思ったからです。
私の実家の墓のあるお寺からはかなり離れていますし、ここのところ正宗寺には暫く行ってなかったものですから、道順不案内となりましたが、カーナビを使ってなんとか到着しました。しかも、正宗寺に行く直前の橋が老朽化し、現在付け替え工事中のため、その橋を渡って正宗寺に行くことが出来ず、ぐるっと遠回りをしなければならなかったものですから、ちょっと苦戦しました。
下の写真は、少々苦戦の末に辿り着いた正宗寺の写真です。
正宗寺の山門
山門の右側にある説明板
山門の右側にある説明板の拡大
最後の方に、「テレビ番組・水戸黄門の「助さん」のモデルとされる
佐々宗淳の墓がある。」と書かれています。
山門を潜って真っ直ぐ進みますと本堂に至ります。
本堂
本堂の扁額
本堂の左側の道を裏山の方に辿って登って行くと墓地があるようです。
100mほど進んで行きますと、小さな案内表示板がありました。
「佐佐介三郎(助さん)墓」の案内表示板
随分とお粗末です(~_~;)
この右側の手入れの悪い荒れた道を上って30mほど行った左側に佐佐介三郎さん、こと「助さん」のお墓がありました。
佐佐介三郎さん、こと「助さん」のお墓
佐佐介三郎さん、こと「助さん」のお墓の左手前に建てられていた案内表示板
佐佐介三郎さん、こと「助さん」のお墓の一番奥に建てられた墓碑
佐佐介三郎さん、こと「助さん」の墓石(その1)
佐佐介三郎さん、こと「助さん」の墓石(その2)
佐佐介三郎さん、こと「助さん」の墓をお参りした後、一路20kmほど南下し、水戸市内にある常磐共有墓地へと向かいます。
そこには、妻の母方のご先祖様のお墓と妻の叔父叔母のお墓がありますので、そこをお参りしました。
なお、そこには、水戸黄門で有名な「格さん」のお墓もありますので、ついでに、お参りしてきました。
格さんの墓の案内表示板
格さんの墓の全景
格さんの墓の全景の左手前の金属製の柱の拡大写真
案内説明板(その1)
案内説明板(その2)
格さんの墓石
その後、妻の実家のお墓に行ってお参りをし、次いで、妻の実家に寄り、仏前にもお参りをしたのち、しばし雑談を交わして帰宅しました。
今回は、「色絵 唐獅子・牡丹文 輪花形小皿」の紹介です。
この小皿も、一昨日の古美術品交換会で落札したものです。
色絵 唐獅子・牡丹文 輪花形小皿
表面
全面甘手ですが、比較的に薄作りです。
唐獅子と牡丹が描かれていますが、色絵部分の各所にかなりの釉剥げが見られます。
釉剥げの目立つ部分の拡大
唐獅子の右前足、左後ろ足、尾の部分の色釉薬がかなり剥げ落ちています。
特に尾の部分の釉剥げが大きく、一見、何が描かれているのかと迷うほどです(><)
また、牡丹の上方の茎部分の色絵も剥落してしまい、牡丹の蕾部分が空中に浮いて
いるように見えてしまいます(><)
唐獅子部分の拡大
特に、唐獅子の左後ろ足部と尾の部分の色釉薬が大きく剥げ落ちていることが分かります。
ところで、このような状態がどうして生じてしまったのかと、その原因を考察してみました。
皿の角度をあちこちと変え、いろんな角度から日にかざして見てみますと、色釉薬の部分が、ちょうど鏡が割れたような状態になっていました。その状態は、上の写真のようになっていました(なかなか上手く写せないのですが、だいたいの状況は分かるかと思います)。
薄く小さな色ガラス片を多数張り合わせて唐獅子の文様を作り出したかのような状態になっていたわけです。
経年劣化で、色釉薬の部分がピリピリと、無数のガラス片に割れてしまったわけですね(~_~;) そして、そのガラス片の幾つかが剥がれ落ちてしまい、釉剥げになってしまったのですね。
側面
比較的に薄作りなものですから、小皿なのに、かなりの歪みが見られます。
裏面
高台内銘:二重角福
やや斜め上方から見た裏面
なお、この裏面を見て、「あれっ?」と思いました。
あまりにも状態が良すぎますし、綺麗過ぎるんですよね。
それで、「この小皿、もしかして、後絵物!」と思ったわけです。
でも、生地の状態、色絵の状態やタッチなどの状態、それに、造形的に比較的に薄作りで厳しい作りであることから、江戸時代前期の作であることに間違いはないように思えるわけです。
そこで、もう一度、ジックリと再点検してみました。
表面には大きな釉剥げが見られますが、それは、使用によって生じたものではなく、どうやら、経年劣化で、自然に生じたように思われました。表面に、ほとんど使用擦れが見られないからです。
結局、この小皿は、ほとんど使用されることなく、いわば、デッドストックされてしまったのではないかと考えたわけです。そうであれば、ましてや、裏面など日光に当たることもなく経過したわけで、裏面の色絵も綺麗な状態で残ったのではないかと、、、。
ということで、この小皿の製作年代は、江戸時代前期として紹介いたします。
生 産 地 : 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期
サ イ ズ : 口径14.8cm 高さ2.2~2.4cm(歪みがあるため) 底径9.0cm
今回は、「色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿」の紹介です。
この瓢簞形小皿は、昨日の古美術品交換会で競り落としてきたものです。
5客揃いならよかったのですが、残念ながら、これ1客のみです(~_~;)
色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿
表面
瓢簞形に成形され、白い生地には全面的に草花と思われる文様が陽刻されています。
そこに、「花」と「釣り人物」と「梅に鶯」を丸で囲んだ文様が三つ散らされ、
口縁には口紅が施されて、全体をギュッと引き締めています。
上半分の拡大
陽刻文は何を陽刻したのか、よくは分かりません(~_~;)
下半分の拡大
陽刻文は何を陽刻したのか、よくは分かりません(~_~;)
「花」と「釣り人物」を丸で囲んだ文様部分の拡大
「梅に鶯」を丸で囲んだ文様部分の拡大
側面
裏面
高台内銘:二重角福
瓢簞の尻側から見た裏面
瓢簞の首側から見た裏面
生 産 地 : 肥前・有田 → 加賀・大聖寺 → 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期 → 江戸後期~明治初頭 → 江戸時代前期
サ イ ズ : 口径13.2×12.5cm 高さ2.8cm 底径8.0×7.5cm
追 記(令和5年11月12日)
ごく最近の11月10日のことですが、ネットショップを眺めていましたら、或る古美術店で、これによく似た手のものが、江戸後期~明治初頭に作られた大聖寺伊万里として売られていることを発見しました。しかも、大量の17点も販売されていたのです!
私としても、これを買うに際しては、「江戸前期のいわゆる古九谷様式の伊万里と断定するには、ちょっと腑に落ちないところがあるな~」と思ったところではあります。
しかし、最近作られたものではなさそうだし、伊万里には多くの窯があったことでもあるので、典型的な古九谷様式のものからはちょっと外れたような、このような物も作られた可能性があるのかもしれないと判断し、購入に及んだものです。
でも、こうして、プロの方が、この手のものは「江戸後期~明治初頭に作られた大聖寺伊万里」だとして売っておられるのを拝見しますと、「なるほど~~」と納得するものがあります。
したがいまして、この小皿の「生産地」を「加賀・大聖寺」に、「製作年代」を「江戸後期~明治初頭」に変更いたします。
追 記(その2)(令和5年11月13日)
ネットショップの或る古美術店(以下「古美術店A」とします)が、つい最近の11月10日に、この瓢簞形小皿によく似た手のものを江戸後期~明治初頭に作られた大聖寺伊万里として、しかも、大量の17点も販売したことを知り、ショックを受け、かなり動揺し、ついつい、昨日、「追記」してしまったところです。
しかし、その後、一日が経過し、気持ちも落ち着いてきますと、「やはり、この瓢簞形小皿は、江戸後期~明治初頭に作られた大聖寺伊万里ではないのではないのかな~。やっぱり、有田で江戸前期に作られたものなのではないのかな~」との思いが強くなってきました。そのように思うようになってきた気持ちの経過は、次のようなものです。
この瓢簞形小皿は、9月20日に交換会で競り落としたわけですが、その際、私は、少々違和感を覚えました。と言いますのは、私がいわゆる典型的な南京手古九谷瓢簞形端皿に抱いていたイメージとはちょっと違っていたからです。私がいわゆる典型的な南京手古九谷瓢簞形端皿に抱いていたイメージというものは、造形的にはもっと力強く、このように上品にこじんまりとまとまっていませんし、色絵の色調ももっと淡く温和なものだったからです。図録等に登場する典型的な南京手古九谷瓢簞形端皿というものは、有田の楠木谷窯で作られたといわれる、そのようなものでしたから、、、。
でも、有田には多くの窯があることだし、私の抱いていたイメージとは若干異なっても、江戸前期の有田ではこのようなものが作られたのだろうと考え、9月21日には、この瓢簞形小皿を江戸前期の有田製として紹介したところです。若干の不安を抱きながら、、、。
ところが、それから間もなくの10月1日のこと、古美術店Aとは異なるネットショップの或る古美術店(以下「古美術店B」とします)が、よく図録に登場してくるような楠木谷窯作と思われる、私が典型的な南京手古九谷瓢簞形端皿に抱いているイメージ通りの瓢簞形小皿を売りに出したのです。その小皿は、江戸前期作(正保~承応)(1640~1650年代)として売りに出されました。あたかも、私の紹介した瓢簞形小皿が偽物だよと言わんばかりのタイミングで、、、。もっとも、たまたま、そのようなタイミングになったのでしょうけれども、、、(笑)。だって、私のブログはそんなに注目されるほど有名ではないですものね(><)
しかも、その3日後の10月4日には、今度は、古美術店Bとは異なるネットショップの或る古美術店(以下「古美術店C」とします)が、またまた、典型的な南京手古九谷瓢簞形端皿を売りに出したのです。
そんなことがあって、私としても、この瓢簞形小皿を有田の江戸前期の作とすることにだんだんと自信を無くしてきていたところでした。
そういうところに、今回の11月10日の古美術店Aの大量販売が登場したものですから、私としては、完全にパニックに陥ってしまったわけです(~_~;)
しかし、冷静さを取り戻して考えますと、やはり、この瓢簞形小皿は、有田で江戸前期に作られたものだろうと思うようになりました。ただ、古美術店B及び古美術店Cが売りに出した物は江戸前期の中頃に作られたもので、この瓢簞形小皿は江戸前期の終り頃に作られたものなのだろうと、、、。
したがいまして、この瓢簞形小皿の生産地及び製作年代につきましては、元通りの、「生産地:肥前・有田」に、「製作年代:江戸時代前期」にいたします。
この手の瓢簞形小皿というのは、何時までも人気があったのですね。古美術店Aが売りに出した大聖寺伊万里にまで続くのですから、、、(^_^)
今日は、私にとって、月に一度の古美術品交換会の日でした。
最近は、私が行っている骨董市が開催される日とこの古美術品交換会が開催される日とが重ならなくなったため、朝はゆっくり出発すればよくなりましたので助かります。
しかも、ゆっくり出発しても、途中、寄り道をしないので、早く到着します。
今日も、古美術品交換会は定刻よりも5分程早く始まりましたが、十分に間に合いました(^-^*)
古美術品交換会も、だいぶ、コロナの影響を脱したように思います。まだマスクをしている者が多いですが、参加者も多く、活況を呈しています。また、この古美術品交換会の運営主体がアマチュアからプロの業者に替ったこともあり、以前よりも活況を呈しているようです。
そんなこともあり、今日は、「伊万里 色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿(江戸時代前期)」と「伊万里 色絵 唐獅子・牡丹文 輪花形小皿(江戸時代前期)」の2点を競り落とすことができました(^_^)
この古美術品交換会での久々の満足出来る収穫でした(^-^*)
なお、この「伊万里 色絵 丸散文 草花陽刻 瓢簞形小皿(江戸時代前期)」と「伊万里 色絵 唐獅子・牡丹文 輪花形小皿(江戸時代前期)」の2点につきましたは、明日以降に紹介いたします。