Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

白鳥の飛来(その4)

2021年12月28日 16時47分17秒 | 近くの池の白鳥

 1ヶ月ぶりに家の近くの池の白鳥の写真を撮ってきました。

 先月29日に報告したときの飛来数は21羽でしたが、今日は65羽になっていました。

 今年はもうこれ以上増えないでしょうから、今シーズンの飛来数の最大数かもしれません。もっとも、近隣の池との間を行ったり来たりしている白鳥もいますので、厳密には、この数字を増減するようです。

 

全体は幾つかの集団に別れています。その内の一つの集団です。

 

 

これも、全体の内の一つの集団です。

 

 

近くに寄ってきた白鳥です。

 

 

これも、近くに寄ってきた白鳥です。

 

 

私から餌をもらえないことを知り、水草を食べています(笑)


柚子の収穫

2021年12月21日 13時53分00秒 | その他の日記

 明日は冬至ですね。

 そこで、明日は柚子湯にでも入ろうと思いたち、柚子の収穫をすることにしました。

 ところで、我が家の庭には柚子の木が1本あるんです。今年は、柚子の当たり年なのか、沢山生っています。

 毎年全部採ってみかん箱に入れておきますが、これまた、毎年、その殆どを腐らせて捨てていました(~_~;)

 そこで、今年は、当面、必要なだけを採り、あとはそのまま木に生らせたままにして、放置することにしました。わざわざ、棘に刺されながら痛い思いをして採っても、その殆どを腐らせていたのでは、痛い思いをしただけ損ですからね、、、(^_^)

 ただ、採るのは、木のてっぺん部分に生っているものだけを採ることにしました。と、言いますのは、木のてっぺん部分は、日当たりが良く、生育には条件が良いのですが、これから寒くなると、寒さを直に受けるんですね。早く寒さにやられて駄目になる可能性が高くなるわけです。その点、木の下の方にあるものは、葉っぱの陰に隠れ、いくらか寒さをしのげるようで、すこしは長持ちするからなんです。

 ということで、木のてっぺん部分の柚子を優先的に採ることにしました。

 

採取した柚子

 

 

 木のてっぺん部分の柚子を採っただけでも結構な数になりました。

 これで、明日は、柚子湯に入れます(^-^*)

 この全部を我が家での柚子湯に使うわけではありません。この内の一部は妻の知人にあげる予定ですが、その知人が無事受け取ってくれるかどうかは未定です?

 と言いますのも、この辺では、皆さん、庭に柚子の木を植えている場合が多いですから、その知人は、既に、他から頂いていて間に合っているかもしれないからです(~_~;)

 なお、柚子の木には、まだまだ残りが生っています。これらは、殆どが、寒さにやられ、自然に腐り、落下することでしょう、、、。

 

てっぺんの方には無くなりましたが、下の方にはまだまだ生っています。


骨董市と古美術品交換会

2021年12月19日 18時44分12秒 | 骨董市など

 今日は、私にとって、定例の、月に一度の「骨董市と古美術品交換会」の日でした。

 今日は、朝から良いお天気でしたが、寒い一日でした(><)

 でも、好きなこととなると寒さもなんのその、、、。早起きをして元気にスタートです(^_^)

 先ずは、近くで開催されている骨董市へ!

 骨董市は、コロナ感染者も少なくなってきて、皆さん、安心してきたこともあるのでしょうか、出店数もこれまでより多くなり、来客も多いようで、今までよりも活気が感じられました(^_^)

 しかし、出店数が多くなったといっても、それは、古着の店が多くなっただけで、古伊万里などを扱う業者の出店数は少なく、従って古伊万里などの展示数は相変わらず少なく、私が買いたいと思うような古伊万里はありませんでした(~_~;)

 それで、骨董市のほうは早々に切り上げることにして、次なる古美術品交換会会場へと向かいました。

 古美術品交換会も、先月よりは参加者が多くなり、先月よりは若干活気を呈しましたが、それでも、やはり、競りに掛けられる品数も少なく、また、古伊万里についてはレベルが低く、私の買いたいような古伊万里は登場しませんでした。そして、早く終わってしまいました(~_~;)

 先月も早く終わったわけですが、先月は、そのまま自宅に戻るのではなく、一言主(ひとことぬし)神社に参拝し、一言主神社境内で行われている骨董市に行ってきましたので、今日もそれに倣うことにして、一言主神社へと向かいました。

 まずは、お賽銭をあげて参拝し、神社境内で行われている骨董市での大いなる戦果を祈願いたしました(^-^*)

 しかし、お賽銭の額が少なかったために御利益がなかったのか、ここでも戦果なしに終りました(~_~;)

 ということで、今日は、全行程で約5時間も運転(一般道のみの運転)したことになります。骨董市巡りというよりは一日中ドライブという様相になりました(^-^*)


染付 芙蓉手 兜形大皿

2021年12月15日 15時28分21秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 芙蓉手 兜形大皿」の紹介です。

 ところで、ここのところ、連続して古伊万里を紹介していましたが、ここにきて、所蔵品の殆どを紹介してしまい、紹介すべき在庫が枯渇してしまいました(><)

 また、最近、骨董市や古美術品交換会で古伊万里を手に入れることも困難になってきてしまいましたので、紹介する古伊万里の補充も出来なくなってしまいました。そこで、やむを得ず、インターネットを利用して手に入れることを思いたち、この「染付 芙蓉手 兜形大皿」を手に入れたという次第です。

 そんなことで、この大皿は、先日の12月3日に、徳島県のほうから、はるばるとやってきたものです(^_^)

 そのような事情ですので、これからは、古伊万里の紹介は 入手してからとなりますので、たまにの紹介となってしまいますことをご承知ください(~_~;)

 前置きが長くなりました。それでは、さっそく、この「染付 芙蓉手 兜形大皿」の紹介に入ります。

 

 

表面

ちょっと焼が甘かったようで、全面甘手という感じです。

また、比較的に薄造りで、手取りは軽く感じられます。

 

 

上半分の拡大写真

 

 

右半分の拡大写真

 

 

下半分の拡大写真

 

左半分の拡大写真

 

 

中央部の拡大写真

 

 

側面

 

 

底面を斜め上から見た面

 

 

底面

 

 オランダ東インド会社は、中国産の磁器を買い付け、それをヨーロッパに輸出していたわけですが、中国が遷界令を出したため、それが出来なくなりました。そこで、オランダ東インド会社は、そのピンチヒッターとして有田に目を付けるようになり、大量の注文を有田にしてきました。万治2年(1659)のことでした。

 その注文品には、それまで中国で作られていた、このような芙蓉手と言われた大皿も含まれていたようです。

 有田では、万治2年(1659)には、このオランダ東インド会社からの注文に応じたヨーロッパ向け輸出焼造体制を本格化させ、万治に続く、寛文・延宝時代には盛んに輸出したようです。

 この「染付 芙蓉手 兜形大皿」は、そのような寛文・延宝時代に作られたものではないかと思われます。

 なお、この大皿は尺3寸あるんですが、意外と手取りが軽いようです。江戸後期の大皿は、ずしりとした重さで、気合いを入れて持ち上げなければならないところですが、それに比べますと拍子抜けするほどに軽く感じられます。

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期(寛文・延宝時代)

サ イ ズ : 口径;38.8cm 高さ;7.2cm 底径;17.1cm 

 

 

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追 記(令和3年12月24日)

 この記事を読まれた故玩館館主の遅生さんが、この芙蓉手大皿に似た大皿について書かれた文献を探し出してくれ、それを教えてくれました。

 遅生さん、ありがとうございました(^-^*)

 その文献というものは、次のようなものです(写真のみを転載)。

 なお、この文献によりますと、伊万里芙蓉手大皿は、古染付芙蓉手大皿の写しだったとのことです。確かに、両者は良く似ていますね。

 

 

「蕾コレクションシリーズNo.12『臨時増刊 小さな蕾 古染付と呉須』(1982年刊)の86頁の写真を転載」 

 

伊万里染付芙蓉手花鳥図皿(左、31.5㎝)と古染付芙蓉手花鳥図皿(右、30.7㎝)

 

上記写真の内の伊万里染付芙蓉手花鳥図皿のみの写真

 

上記の写真の内の古染付芙蓉手花鳥図皿のみの写真

 

 

 

 また、「 世界をときめかした 伊万里焼 」(矢部良明著 角川書店 平成12年初版発行)には、

 

「 3 古染付を手本とした伊万里草創期

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 この天神森七号窯の出土陶片は、古染付の丸写しのほか、早くも古染付以外の中国絵画を原図とした作例が多くを占めていたことも指摘しておきたい。その染付の呈発はすこぶる良好で、染付の描写力や筆法も的確であり、天狗谷窯のややぼやけた染付を見てきた者にとっては、いかにも力のこもった陶工たちの熱気が伝わってきて、草創期ならではの勢いを感じずにはいられないものがあった。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    (P.13)」

 

とありますので、この文献によりますと、この芙蓉手大皿は、伊万里の草創期の頃に焼かれたと言っても過言ではなさそうです(^-^*)