Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

家康の血筋

2025年01月12日 18時36分20秒 | 読書

 「家康の血筋」(近衛龍春著 実業之日本社 2023年2月5日 初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本によりますと、家康には、11人の男子がいたようです。

① 長男 松平信康

② 次男 結城秀康

③ 三男 徳川秀忠

④ 四男 松平忠吉

⑤ 五男 武田信吉

⑥ 六男 松平忠輝

⑦ 七男 松平松千代(早世)

⑧ 八男 平岩仙千代(早世)

⑨ 九男 徳川義直(尾張徳川家の祖)

⑩ 十男 徳川頼宣(紀伊徳川家の祖)

⑪ 十一男 徳川頼房(水戸徳川家の祖)

の11人です。

 なお、この本では、その内の「長男 松平信康」、「次男 結城秀康」、「三男 徳川秀忠」、「四男 松平忠吉」と「六男 松平忠輝」の5人の生涯について記されていました。

 「七男 松平松千代」と「八男 平岩仙千代」については、共に「早世」ですから、記すべき内容がありませんので、省略されています。

 また、「九男 徳川義直」、「十男 徳川頼宣」及び「十一男 徳川頼房」については、それぞれ、「尾張徳川家の祖」、「紀伊徳川家の祖」及び「水戸徳川家の祖」という紹介だけで、それぞれの人物についての詳細な記述は省略されていました。

 しかし、何故か、この本では、「五男 武田信吉」については、記述されていませんでした。 

 上記しましたように、この本では、家康の男子の内の「長男 松平信康」、「次男 結城秀康」、「三男 徳川秀忠」、「四男 松平忠吉」と「六男 松平忠輝」の5人の生涯についての詳細が記されていたわけですが、私は、「長男 松平信康」と「三男 徳川秀忠」の2人については、よく、他の本にも登場していますので、彼らの生涯については有る程度は知っていましたから、特に興味は湧かなかったところです。

 でも、「次男 結城秀康」、「四男 松平忠吉」と「六男 松平忠輝」の3人については良く知らなかったものですから、興味深く読みました。この3人について詳しく書かれた本は少ないのではないかと思います。


赤備えの鬼武者 井伊直政

2024年12月03日 19時12分06秒 | 読書

 「赤備えの鬼武者 井伊直政」(近衛龍春著 毎日新聞出版 2017年4月5日発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、彦根藩初代藩主となった井伊直政の生涯を記したものです。

 直政は、幼くして城を追われ、命を狙われ、一度は一族が滅びる憂き目を味わいましたが、徳川家康の目に留まり、家康の小姓となりました。

 その後、家康に可愛がられ、数々の武功をあげ、徳川家譜代の武将をも上回るようになり、徳川家随一の武将にのし上がっていきました。

 家康は、直政の無鉄砲な武者ぶりだけでなく、彼に備わった、外交的な能力も高く評価したようです。

 直政は、関ヶ原の戦いの際に負傷し、その傷がもとで慶長7年(1602)2月1日に42歳で亡くなるわけですが、本書では、彼の若かりし頃から亡くなるまでの波乱に満ちた生涯を、詳細に、かつ、生き生きと描いています。


「継ぐ者」

2024年10月08日 18時17分12秒 | 読書

 「継ぐ者」(上田秀人著 角川書店 2022年12月16日 初版発行)を読みました。

 

 

 

 その内容は、徳川家康とその嫡男徳川信康についての物語でした。

 徳川家康が今川家に人質となった頃から、その嫡男徳川信康が家康の命で自害させられるに至った時までを扱ったものでした。

 一般には、信康が自害させられるに至った理由としては、信康の生母の瀬名(築山殿)(今川義元の養女、今川義元の姪)と信康が武田側に通じていたことが織田信長の耳にまで達したため、信長の命で家康が信康を自害させたということになっていると思います。

 ところが、この本では、ちょと違っていました。

 信康は、生母瀬名(築山殿)の画策もあって、側室を迎えますが、信康は、だんだんとその側室を愛するようになります。ところが、その側室は一向宗の門徒でしたので、信康も次第に一向宗の影響を受けるようになっていきました。

 それを知った信康の正室の五徳姫(織田信長の娘)は、信康の側室に対する嫉妬も手伝い、それを一向宗嫌いの信長に通報します。

 それを知った信長は、信康の処分を「よきにはからえ」と、家康に委ねます。信長の真意を「信康に自害させろ」という意味であろうととった家康は、信康に自害するように命じたということでした。

 なお、信康の生母瀬名(築山殿)は、岡崎城から追放され、自害することを求められましたが、それを拒否したため、斬首となったとのことです。

 ところで、この処分に関し、筆者は、次のように記しています。

 

「以降、家康は織田信長に従って武田家を滅ぼし、その褒美として駿河一国を与えられた。

 織田家の家臣として生きていく決意をした家康だったが、信長が天正十年(1582)六月二日、明智光秀によって害されたことで大きく状況は変化した。

 織田信長というくびきをなくしたことで、家康はふたたび独立の機を得、やがて天下人へと駆けのぼっていく。

 嫡男信康を犠牲にするという判断が正しかったのか、まちがいだったのか、それをわかるのは一人家康だけであった。

 ただ徳川家の天下は二百六十年余り続き、その子孫は今も名家として続いている。  (p.402~403) 」


検証 長篠合戦

2024年09月21日 18時57分03秒 | 読書

 「検証 長篠合戦」(歴史文化ライブラリー382)(平山優著 吉川弘文館 2014年(平成26)8月1日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本も、いわゆる「歴史小説」というものではなく、「歴史書」といえるものに属するようです。

 「長篠合戦は、天正3年(1575)5月21日、三河国長篠の設楽ヶ原(したらがはら)(当時は有海原(あるみはら))で、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍勢を撃破したもので、その勝因は織田軍が装備した鉄炮3,000挺であったこと、またその射撃法が三段撃ちであったことはつとに知られている」(P.1)わけで、それが通説になっているわけですけれども、その通説が、近年、多岐ににわたる批判に晒されれているので、それらについて、検証を試みようとして書かれたものでした。

 その多岐ににわたる批判というものは、次のようなことだとのことです。

 

① 長篠合戦に織田信長が投入した鉄炮3,000挺は事実か。

② 鉄炮3,000挺の三段撃ちはあったのか(織田信長の天才的才覚による、この戦法の発明を契機に軍事革命、線戦術革命が起きたというのは事実か)。

③ 武田勝頼の軍勢に騎馬隊は本当に存在したのか。

④ 武田勝頼の作戦は無謀で、自殺行為ともいえる突撃が繰り返されたがそれはなぜか。

⑤ 武田勝頼は、味方の不利を説き、諫める家臣達を振り切って決戦を決断したというのは事実か否か。

⑥ 織田信長の装備した鉄炮とはどのように集められたか。

⑦ 武田氏は信玄以来鉄炮導入には消極的というよりも、むしろその有効性を軽視しており、これが長篠敗戦に繋がったというのは事実か。

⑧ 長篠合戦場には両軍の陣城跡が歴然としており、これが鉄炮と並んで合戦の帰趨に影響を与えたのではないか。

⑨ 馬防柵は、織田信長が緻密な計画を立案し建設したとされるが事実か。

 

 著者は、これらのテーマに関し、多方面から、例えば、考古学の手法を使っての、両軍から合戦場に打ち込まれて残った鉄炮玉の数や大きさ、その材質などの研究成果なども考慮して、詳細に検討を重ねています。

 

 その結果、著者は、

 

「① 織田・徳川軍と武田軍には、「兵農分離」と「未分離」という明確な質的差異はなく、ほぼ同質の戦国大名の軍隊であり、②合戦では、緒戦は双方の鉄炮競合と矢軍(やいくさ)が行われ、やがて接近した敵味方は打物戦に移行し、鑓の競合と「鑓脇」の援護による戦闘が続く、③打物戦で敵が崩れ始めると騎馬衆が敵陣に突入(「懸入」「乗込」)し、敵陣を混乱させ、最終的に敵を攻め崩す、④戦国合戦では、柵の構築による野陣・陣城づくりは一般的に行われており、それ自体は特異な作戦ではなかった、⑤合戦において、柵が敷設されていたり、多勢や優勢な弓・鉄炮が待ち受けたりしていても、敵陣に突撃するという戦法は、当時はごく当たり前の正攻法であった。・・・こうした戦国合戦の実相をもとにすると、武田勝頼が長篠合戦で採用した作戦は、ごく普通の正攻法であり、鉄炮や弓を制圧し、敵を混乱させて勝利を目指すものであったと考えられる。しかしそれが成功しなかったのは、勝頼や武田軍将兵が経験してきた東国大名との合戦と、織田信長とのそれとの違いであたと思われる。それは、織田・徳川軍が装備した鉄炮数と、用意されていた玉薬の分量、さらには軍勢の兵力の圧倒的差とい形で表れたと考えられる。」(P.230~231)

 

としています。つまり、

 

「武田勝頼の敗因、織田信長・徳川家康の勝因は、通説の如き旧戦法対新戦法、兵農未分離の軍隊対兵農分離の軍隊という両軍の質的差異、勝頼の無謀な突撃作戦などではなかったと推察される。両者の明暗を分けたのは擁した火器と弾薬の数量差、そして兵力の差であり、それらはいずれも武田氏と織田・徳川両氏の擁する領国規模と、鉄炮と玉薬の輸入もしくは国産の実現可能な地域とアクセスしうる可能性の格差という理由に絞られるであろう。」(P.234)

 

としています。

 

 そして、著者は、

 

「前著(『長篠合戦と武田勝頼』)と本書の執筆を通して、今も根強い織田信長や徳川家康に対する過大評価は慎むべきだと痛感した。戦後歴史学は、歴史上の人物の業績を社会構造などから読み直すことを課題としてきたはずなのに、戦国・織豊期でいえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という個人の資質に、すべての現象を還元して議論する傾向から、なぜか今も抜け出せていない。たとえば織田権力と戦国大名を同列では論じることは出来ないとか、そもそも織田権力を「先進」とアプリオリに措定し、そこへの到達度で戦国大名の「発展」「後進」の度合いを論じることは本当に意味があることなのだろうか。前著と本書で力説したのは、織田氏も戦国大名であり、あらゆる面からみて武田・北条・上杉・今川氏などと同質の権力体だということだ。最終的に広大な領国を形成し「天下」を掌握したことだけを根拠に、だから戦国大名とは違うはずだ、はもう止めにしようではないか。」(P.240~241)

 

と書いています。


小説集 明智光秀

2024年09月10日 16時37分10秒 | 読書

「小説集 明智光秀」(末國善己解説 作品社 2019年9月30日初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 ところで、この本の構成はちょっと変わっていて、次のようになっていました。

 

*明智光秀・・・・・・・・・・菊池寛著

               底本:『日本武将譚』(黎明社、1936年)

*明智光秀・・・・・・・・・・八切止夫著

               底本:『新説・信長十二人衆』(作品社、2002年)

*明智光秀の母・・・・・・・・新田次郎著

               底本:『赤毛の司天台』(中央公論社、1971年)

*明智光秀・・・・・・・・・・岡本綺堂著

               底本:『綺堂戯曲集 第九巻』(春陽堂、1925年)

*ときは今・・・・・・・・・・滝口康彦著

               底本:『権謀の裏』(新人物往来社、1988年)

*明智光秀の眼鏡・・・・・・・篠田達明著

               底本:『時代小説最前線 Ⅰ』(新潮社、1994年)

*光秀と二人の友・・・・・・・南條範夫著

               底本:『幻の百万石』(青樹社、1996年)

*本能寺 明智光秀について・・柴田錬三郎著

               底本:「本能寺」『風雲稲葉城』(富士見書房、1987年)、「明智光秀について(一)、(二)」『柴田錬三郎選集 第十八巻』(集英社、1990年)

*光秀謀叛・・・・・・・・・・小林恭二著

               底本:『異色時代短編傑作大全』(講談社、1992年)

*光秀と紹巴・・・・・・・・・正宗白鳥著

               底本:『日本の文学 第十一巻』(中央公論社、1968年)

*明智太閤・・・・・・・・・・山田風太郎著

               底本:『明智太閤』(東京文芸社、1967年)

*生きていた光秀・・・・・・・山岡荘八著

               底本:『生きていた光秀』(講談社、1963年)

*解説・・・・・・・・・・・・末國善己著

 

 各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部を切り取ってきて編集し、最後に、末國善己氏の「解説」を載せるという構成になっているわけですね。しかも、その「解説」も、「解説」以前の各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部について解説をしたものではなく、末國善己氏が、「解説」以前の各小説家の明智光秀に関する小説の一部又は全部とは関係無く、独自に、明智光秀に関して書かれた各種書物を解説しているんです。

 内容的には、各小説家が、明智光秀についていろんな角度から書いていますので、「へえ~~、こんなこともあったんだ。こんな見方も出来るんだ」と感心させられ、読み物としては面白く感じました。

 この本の中で、私の頭の中に残ったものの中の一つを次に紹介し、この本の紹介とさせていただきます。

 それは、上の、「*生きていた光秀・・・・・・・山岡荘八著」の最後の部分です。

 

「光秀はその後新左衛門の助力で、泉州助松村の蓮正寺内に助松庵というのを建ててそれに住み、後に貝塚市鳥羽の大日庵(今は岸和田の本覚寺と合併)に移った。

 そして、秀吉の死んだあと一年、慶長四年の春、ふたたびここへ位牌を残して、飄然と何れかへ立ち去ったことになっている。

 本覚寺に残っている位牌には「鳳岳院殿雲道大禅定門」とあり、輝雲の、道琇のに光秀の二字がかくされている。裏には慶長四年 月 日とあるだけで月日の記入はない。生きていた人の位牌というしるしであろう。この時光秀を連れ去ったのは家康の政治顧問であった天海僧正だと伝えられている。それが事実ならば、光秀の持病は徳川氏の天下にまで及んだことになるのだが、堺関係の資料にも、そこまでのものは見当たらない。

 天海が光秀だったなどという伝説も、このあたりから出たものであろう。玄琳は、後の妙心寺大嶺院の南国梵珪和尚のつもりである。  」