何時もはほったらかしで、あまり、見もしないんですが、今日、ちょっと、何気なく、寒さ除けに二階に避難させてある植木鉢の様子をみましたら、2~3鉢、葉に元気のないものを発見しました。
それで、慌てて、水を遣ることに、、、。
自分だけが、毎日、米の水や麦の水を飲んでばかりいて、植物には水を与えないでいてはいけませんよね(-_-;)
水を与えましたら、植物達は、とたんに元気を取り戻したようでした(^-^;
何時もはほったらかしで、あまり、見もしないんですが、今日、ちょっと、何気なく、寒さ除けに二階に避難させてある植木鉢の様子をみましたら、2~3鉢、葉に元気のないものを発見しました。
それで、慌てて、水を遣ることに、、、。
自分だけが、毎日、米の水や麦の水を飲んでばかりいて、植物には水を与えないでいてはいけませんよね(-_-;)
水を与えましたら、植物達は、とたんに元気を取り戻したようでした(^-^;
「水軍遥かなり」(加藤廣著 文藝春秋 2014年2月25日第1刷発行)を読みました。
この本の主人公は、志摩国の鳥羽藩主となった九鬼守隆(くきもりたか)です。
物語は、九鬼守隆とその父九鬼嘉隆(くきよしたか)を縦糸とし、それに、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を横糸として、戦国乱世の中、九鬼親子が、どのようにして生きていったかが生き生きと展開されていました。
まず、九鬼守隆の父九鬼嘉隆ですが、彼は、志摩の九鬼家の分家の生れで、志摩の陸と海を荒らし回った、荒くれ男でした。そのため、地元では爪はじき者となり、志摩を追われます。
しかし、3年余の流浪の末、織田信長に拾われ、その配下となります。織田信長の強力軍団と手を結んだことで志摩の国に再上陸し、今度は、本家をも乗っ取り、志摩国の盟主に成り上がります。
その後、信長の命で鉄甲船を作り、毛利の村上水軍を破ったことで、九鬼水軍の実力を示し、信長の信を厚くします。
或る年の年賀の折り、九鬼嘉隆は8歳の子九鬼守隆を連れて安土城に赴きます。信長は、好奇心の強いこの守隆を気に入り、二人だけで話し込みます。
その際、信長から、いろいろと宿題を出されましたが、その後、信長は忙しく、二人は会うことが出来ず、結局、信長が本能寺の変で亡くなってしまい、宿題に応えることは出来ずに終わってしまいます。
その後、ご承知のように、天下は豊臣秀吉のものとなります。
九鬼嘉隆は何度か守隆を連れて秀吉の所に赴きましたので、守隆も秀吉とは面識を得るようになります。
九鬼親子は秀吉の下で懸命に働きますが、二度目の朝鮮出兵の折りには、何故か、嘉隆は水軍から外されてしまいます。
悲観した嘉隆は、跡目を守隆に譲り、隠居してしまいます。
そうこうしているうちに、秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いになります。
守隆は、徳川家康の東軍に付きますが、父の嘉隆は、秀吉政権下で石田三成に世話になった関係で、隠居の身でありながら、息子の守隆が東軍に付いて働いている留守の折り、守隆の了解も得ずに勝手に西軍に付いてしまいます。
関ヶ原の戦の結果は、東軍勝利に終わったことはご承知のとおりです。
負けた西軍に加担してしまった嘉隆は自決を覚悟します。その後、守隆は家康へ必死に嘉隆の助命嘆願をし、家康から助命の了承を得ます。しかし、その助命の知らせが届く直前、嘉隆は、責任を感じて自決してしまいます。
一方、守隆は、家康から目をかけられ、2万石の加増を受けるなど、家康から可愛がられます。
家康の最晩年、守隆は、家康から駿府城に呼ばれ、二人きりで話し合います。
その時、家康から聞かされた話の内容は、次のような構想でした。
「駿府城下に港を作り、駿府城と一体化したその駿府の基地を中心に南方進出を図るつもりでいる。そして、駿河の商家の出身で、今はアユタヤにいる山田長政を我が国の南方方面軍の総大将とし、守隆、そちらをその海上支援軍の総大将とするつもりでいる。私は、その二人の総司令となるつもりでいる。」
その構想を打ち明けられた守隆は、新造船の建造に邁進します。
しかし、その後、その話はなかなか進行せず、そのうちに、家康が病没してしまいます。
家康の後を継いだ元々が頭脳明晰でもない二代将軍秀忠は、国の対外防衛にまで頭が及ばなかったし、ましてや、海外進出など想像も出来ない人物でした。
結局、守隆は、家康が、駿府を中核とする「対外防衛思想」と「海外進出計画」を秘かに持っていたことを知っていましたが、それを将軍筋に説明する場は得られませんでした。
家康の海外進出戦略論は、一人、守隆の夢物語となり歴史から埋没してしまいます。
それでも、守隆は、その後も、黙々と新造船に取り組みますが、失意のうちに亡くなります。享年60歳。
なお、この本には、秀吉の朝鮮出兵の際の水軍の戦いの様子が詳しく書かれていました。
この際の、朝鮮水軍の亀甲船の話が、よくpadaさんのブログに登場していて興味がありましたので、少し力を入れて読みました(^^;
それで、その部分の幾らかを紹介し、この本の紹介に代えさせていただきます。
紹介する朝鮮水軍の亀甲船の話は、秀吉の二回目の出兵の際の話が中心になります。
「まず、亀甲船の正面からの大砲攻撃をかわすための戦闘艦の旋回方式をやめた。亀甲船が向かってくると、逆に舳先を、そのまま向けたのである。直進して突っ込み、大量の亀甲船を撃破、転覆させた。なぜそれが可能だったのか。
当時の大砲は固定式で、撃つ間隔が長い。砲身の方向を見定める余裕があり、進む方向をすこしずらせば弾丸はあっさりと水中に落ちた。
また、当時は「重力」の存在を知らなかったから、発射角は水平である。従って落ちてくる時の力はごく弱い。弾丸自身が爆発しないから、当たっても、甲板の上を、ドスン、ゴロゴロ、あるいは帆柱を傷める程度で終わりであった。
哀れをとどめたのは相手の亀甲船ばかりではなかった。その開発者であった李舜臣のその後であった。
李舜臣は、その後、強国日本軍を撃退した功績を買われ、三道水軍統制使という朝鮮南部の水軍の総司令官に抜擢された。
しかし、休戦期間を無視し、巨済島に現れた日本水軍に攻撃をしかけて、逆に敗れたことからケチがついた。
明は進行中の和平交渉の妨げになるとして、李の交戦禁止を命じた。が、李は、朝鮮の独自性を主張して聞かず、その後も再々巨済島に現れた日本の水軍に攻撃をしかけては負け続けた。
すでに、この頃から亀甲船の神通力は失われていたのである。この時の相手は福島正則と島津義弘であった。
李の勝手な行動に対する明の非難が高まり、また数次に亘る海戦の失敗から、朝鮮王朝は黙っていられなくなり、李の査問が行われた。
その結果、李は地位を追われた。
一旦は死罪を宣告されたが、取りなす者があったらしく放免され、一兵卒に落とされたというから、ずいぶんと極端から極端に走ったものである。
休戦が終わり、再戦となった。ところが李の後任の元均は、再び巨済島海戦で大敗。朝鮮水軍は、これでほとんど壊滅してしまったのである。
ここで李の再起用となった。
だが、残る水軍は少ないし、亀甲船は、すでにただの「亀の子」に過ぎなかった。
それでも、李は残り少ない艦船をかき集め、挑戦を試みたのは立派である。
亀甲船が無力と知ると、次には半島西南端の潮流の激しい海峡に日本水軍を引き入れ、散々日本水軍を苦しめ、勝利を収めることもあったようである。しかし、いずれにしても局地的な勝利に過ぎなかった。 (P.428~430)」
「・・・遠征軍の引き揚げが正式に決まり、石田三成以下は筑前博多に下って在朝鮮諸将撤収事務に従事した。
しかし、撤収命令が出たからといって、最前線は、「はいそうですか」というわけにはいかなかった。小西行長は、明水軍との間で休戦の話し合いをまとめたものの、朝鮮水軍を率いる李舜臣が頑なに戦争継続を望み、一時小西軍は帰国する海上を封鎖されて孤立。島津義弘の水軍の助けを借りて、やっとの思いで脱出するという一幕まであった。この復讐戦で、日本軍は朝鮮水軍に大打撃を与えた。李舜臣はこの時の一斉射撃を受けて、あっけなく即死した。 (P.445) 」
今日、散歩していましたら、近くの池の白鳥観察場所の修理工事が行われているところに遭遇しました。
ここのところ、この白鳥観察場所は、「危険につき立ち入り禁止」となっていたものです(><)
「早く修理が行われるといいな~」「立ち入り禁止が解除されれば、皆さん、安心して白鳥に餌やりが出来るものな~」「でも、今、白鳥が居る時に工事を実施しては、白鳥が驚いて逃げてしまうだろうから、この春以降に工事をするのかな~」と思っていましたので、ちょっとびっくりです。
観察場所を修理しているところ
修理箇所は、主に、傷んだ床部分の張り替えのようです。
その間、白鳥はどうしているのかな~と思いましたら、観察場所を遠巻きにして見ていました。
でも、白鳥たちは、すっかり馴れていますので、逃げたりせず、餌をくれそうな人が来ますと近寄ってきます(^-^;
この工事は、工事をしていた作業員の方に、「何時までかかるんですか」と聞きましたら、明日で終わるということでしたので、白鳥たちにそれほど影響を与えないで済みそうです(^-^;
昨日は、私にとって、月に1度の骨董市と古美術品交換会の日でした。
お天気も良く、暖かいので、気分良く出発です(^-^;
先ずは、骨董市会場へ!
私の行ってる骨董市も、今年になって初めての市なので、「初市」という感じが漂い、ちょっぴり華やかです(^-^;
でもね~、品揃えはというと相変わらずで、魅力に欠けます(><)
それで、甘酒が振舞われていましたので、それをご馳走になり、骨董市のほうは早々に退散することとし、次なる古美術品交換会会場へと急ぎました。
古美術品交換会も、まだお正月気分が残っていて、やはり、何時もよりは華やかです(^-^;
でもね~、これまた、競りに掛けられる品物は魅力に欠け、また、品数も少なく、午前中に終了となり、昼食を摂って解散となりました。
ただ、昨日は、そのまま真っすぐ自宅に戻ることなく、かなりの遠回りにはなりますが、途中、「一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)」という所に寄って参拝することを予定していました。また、ついでに、その境内で行われている「骨董市」にも寄ってみることを計画していました(^-^;
で、昼食を早々に摂り、さっそく、「一言主神社」に向けて出発です!
神社に到着です。私は、この神社に来たのは初めてです。
境内には、多くの骨董業者が出店していました。でも、それに目がくらんではなりません(><)
先ずは、当初の目的どおり、神社に参拝をしなければ、、、。
神社は、まだ初詣の期間内なのでしょう。それに、暖かくてお天気の良い日曜日とあって、多くの参拝客で賑わっていました。
そこで、お賽銭をはずみ(笑)、念入りに「一言」のお願いを済ませ、境内の骨董市の店をブラブラすることにしました。
でもね~、やはり、ここも、品揃えは新物が多く、レベルが低いようで、見るべきものがないように思えました。
しかし、せっかく来たのだから、何かを買って帰ろうかと思い、ブラブラしていましたら、アクセサリーを売っている店を発見!
それで、妻へのプレゼント用にネックレス2本買を購入です。ネックレスといっても、おもちゃのような物ですが、それでも、最近では、そんな物も妻は身に付けるようになりましたので、妻へのプレゼント代は安くあがるようになりました(^-^;
何かを買おうという目的はこれで達成です。あとは、もう少しブラブラして帰ろうかと思い、更にブラブラを続けていましたら、今度は、「あれっ!」というものを発見です。
「後期鍋島染付山水絵中角皿」があるではないですか!
それで、即、購入で、満足して帰路につきました。
ということで、昨日の成果は、おもちゃのネックレス2本と「後期鍋島染付山水絵中角皿」1枚でした。
ところで、この「後期鍋島染付山水絵中角皿」というものは、次のようなものです。
表面
辺径:14.4cm 高台径:9.5cm 高さ:3.4cm
この中角皿の製作年代ですが、この手のものは、下に転載した「鍋島 後期の作風を観る ~元文時代から慶応時代まで~」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日発行)の写真(25)~(27)の解説にありますように、江戸期の安永~安政に至る長期間にわたって繰り返し作られたようです。
ただ、この中角皿については、裏側面に描かれた「カニ牡丹文」の描き方が端正で力強く、また、描かれている葉数は30枚ですし、遠山の描き方が写真(25)の描き方と似ていることから、安永に近い頃に作られたものではないかと思っています。
裏面
斜め上方から見た裏面
裏側面に描かれた「カニ牡丹文」の葉数は30枚です。
なお、この「後期鍋島染付山水絵中角皿」の類品が、「鍋島 後期の作風を観る ~元文時代から慶応時代まで~」(小木一良著 創樹社美術出版 平成14年11月30日発行)に掲載されていますので、それを、次に引用し、紹介したいと思います。
写真(25) 山水絵中角皿(1)
写真(25)、(27)は、同文品だが、(27)は裏面に安政七年(1860)銘があり、同年作と判る。
表文様は共に殆んど同じだが、裏側面の「カニ牡丹文」を見ると、(25)は(27)よりはるかに端正で力強く描かれている。しかも葉数は(27)は26枚、(25)は30枚である。
両者の間には相当の年代差があると考えられる。
天保10年銘箱入(31)「菊絵大角皿」(注:ここではその画像は省略します)も参考としてみて、(25)は安永かそれに近い18世紀後期内の作品と考えられる。
写真(26) 山水絵中角皿(2)
裏側面カニ牡丹文を見ると(25)とほぼ同形で葉数は30枚に描かれている。
しかし、表文様は(25)とは幾分異なり、遠山、小波や濃(だ)みの手法には違いが見られる。又、器形は(25)より多少深くなり、むしろ(27)「安政七年」銘品と近い感を受ける。
三者対比からみて、(25)が最も早く、安永3年に近い作と思われ、(26)がこれに次ぎ、(27)が安政七年、最後年の作と思われる。
写真(27) 山水絵中角皿(3) (安政七年在銘)
裏面高台内に「安政七年(1860)」銘があり、製作年代を特定出来る貴重作品である。
以前にこの皿を見出した時、非常にうれしく、昭和63年先著「伊万里の変遷」に掲載した。当時はこの文様品は安政時代頃にのみ製作されたものと考えていたが、前山博氏の古文献調査に始まり、今日ではこの文様が安永3年から始まり、幕末期まで繰り返し製作されてきたことが明らかとなった。
表は同文作品でも製作年代については、表文様のみではなく造形、裏文様をよほど丁寧に調査しないと判断は出来ないことが判り、改めて後期鍋島の編年の難しさと煩雑さが痛感される。
本品のカニ牡丹文の葉数は26枚で、(25)(26)より4枚少く、文様の描き方も弱い。18世紀後期と19世紀作品の描法の違いを如実に示していると云える。
<追記>(令和2年1月21日)
つや姫日記さんから、私が、一昨日、一言主神社境内の骨董市から買てきた2本のネックレスを是非拝見したいという要望が2度もありましたので、次に、それを、恥をしのんでアップすることにします(笑)。
私は、好きな古伊万里と同じで、「あっ、これ綺麗だな」と直感で感じ、どこか私の琴線に触れた場合に買っています。
子供だましの「おもちゃ」に近いもので、値段的には、1本がお蕎麦1ぱい程度のものです(-_-;)
つや姫日記さん、どうか、笑わないで見てやってくださいね(笑)。
今回は、いわゆる「天保地図皿」を2枚紹介します。
1枚は、今は閉鎖してしまっている拙ホームページ「古伊万里への誘い」に、既に、紹介したもので、もう1枚は、その後に購入した未紹介のものです。
まず、最初の1枚ですけれど、それは、上記のとおり、既に閉鎖してしまっている拙ホームページ「古伊万里への誘い」に紹介済みなわけですが、ここで、再度、その紹介文を載せることにいたします。
<古伊万里バカ日誌111 古伊万里との対話(天保地図皿)> (平成25年4月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
地図皿 (伊万里染付日本地図文角皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
主人は、何を思ったのか、先日買ってきたばかりで、まだ身近に置いてある地図皿と対話を始めた。主人は、普通、買ってきた順に対話をしているので、これは珍しい出来ごとである。
地図皿: あれっ、どうしたんですか? 私はまだこの家に来たばかりでしょう。先輩方をさしおいて私が登場してしまってもいいんですか?
主人: うん。ちょっと変則なんだけどね~。もっとも、先月もそうだったかな~。
実は、先日、お前を買ってきてすぐに、ブログで、地図皿のお前を買ってきたことを記事にしたら、「是非見たい!」との要望が何人かからあったんだ。まっ、単なる興味本位での「見たい!」との要望なら無視してもかまわないんだが、どうも、そうでもないことに気付いたんだ。
私は、地図皿なんて、そんなに珍しいものではないと思っていたんだけれど、そうでもないらしいんだね。地図皿の本物を見る機会というものは極めて少ないので、今後、地図皿の本物を買う際の参考にしたいので是非見せてほしいという要望であることに気付かされたわけだよ。まっ、それで、いくらかでもお役に立てるならばと思って、急きょ、登場させることにしたんだ。
地図皿: そうでしたか。そんな理由でしたか。私を見て、皆さん、騙されることなく、無事、本物の地図皿を手に入れることが出来るといいですね。
主人: そうだね。皆さんの御健闘と御武運を祈りたいね。
地図皿: ところで、今では私は珍しいということですから、ご主人は掘り出しをされたということになりますか。
主人: さあね。私としては掘り出しをしたとは思っていないけどね。
天保時代に多くが作られ、一般民衆の間に人気があって流行した「天保地図皿」は有名だったから、ず~っと、1枚は欲しいとは思っていたんだけれど、これまでは、時代も若いくせに値段だけは高かったので買う気になれないでいたんだよ。ところが、先日、私の所属している古美術品交換会という所にお前が登場したわけだ。私としては最近、古伊万里の相場は下がっているし、お前は、「天保地図皿」としては小振りでもあるので、以前の相場の1/3くらいの△万円くらいで競り落とせるかな~と値踏みし、その程度の値段なら買って連れ帰ろうと思ったわけさ。
地図皿: 結果的に、予想どおりの△万円で競り落とせたんですね。競りというものは、だいたい予想どおりの値段で競り落とせるものなんですか。
主人: いや、そんな甘いもんじゃないね。予想どおりにゆくことはめったにないね。予想を下まわったり上まわったりといろいろだね。もっとも、予想を上まわることのほうがほとんどだけどね・・・・・。
ちなみに、先日、お前を競り落とした時の状況は次のようなものだった。まっ、予想どおりにうまくいった稀有な例かな。
ところで、私が所属している古美術品交換会というところは、素人でも入会出来るところなんだけれど、実際に入会している者は、プロが半数以上を占めるし、入会している素人の方だって骨董が好きで長年所属しているセミプロのような猛者が多いから、そんな中で、良い物を安く競り落とすのは大変なんだよ。私だって、素人ながら、10年以上もその会に所属しているんだけれど、所属年数からみたら、素人では新人に近いくらいだから、そんな中で、良い物を巡って安く競り勝つのは大変なんだ。
そのような中で、いよいよお前が競りにかけられる順番が巡ってきた。
ところが、私の当初の予想に反し、競り人の発句(競りのスタートの値段)は○万円だった。私の予想をはるかに超える額だった(><) 「あ~あ、私の予想が甘かったか! 古伊万里の相場が下がっていると言われているが、それほどでもなかったか。まっ、どうしても欲しいわけでもないから、ここは無理せずに諦めるか!」と思ったものだよ。この時、地図皿を1枚は欲しいな~とず~っと思ってはいたけれど、特に珍しいとも思っていなかったから、「安ければ買っとくか」程度にしか考えていなかったので、飛び付かなかったのがよかったのかな。「どうしても欲しい!」と思っていたのなら、○万円から追いかけていって、○万円プラスαで落札していたんだろうね。
しかし、競り人の発句に反し、誰も反応しなかった。シーンと静まりかえってしまった。皆さん、やはり、高過ぎると思ったんだろうね。
そうしたら、出品者が、競り人に、「もっと下からスタートさせてください。」と言ったんだ。出品者は、どうしても売ってしまいたかったんだろうね。お金が欲しかったのかな~。
そこで、競り人は、今度は、私の予想額をかなり下まわる×万円から再スタートさせたんだよ。
そうなりゃ、私だって諦める必要はないので、さっそく、×万円にプラスαを乗せて槍を入れた(買い値を告げた)。それに伴い、今度は、皆さんも次々に槍を入れてきたんだ。その程度の値段ならお買い得と思ったんだろうね。しかし、皆さん、ケチクサクて、ド~ンと大幅な槍を入れる人がいないんだね。上げ幅がちまちましていてなかなか決着がつかなかったんだよ。そこで、私も面倒になってきて、もともと△万円なら買ってもいいと思っていたので、「△万円!」との槍を入れたら、それ以上の槍を入れる者が現れず、それで決着してしまったんだ。
以上がお前を競り落とした時の状況だね。
地図皿: そうでしたか。競りというものは、なかなか緊張するものなんですね。
主人: そうだよ。競り市では、物に対する知識はもちろん、その時の相場、長年の経験と勘、その場のカケヒキ、度胸と決断等々、あらゆることが要求されるね。やはり、競り市はプロの戦場だね。素人がそこから良い物を安く掘り出そうなどとは思わないことだね。むしろ、掘り出すどころか掘り出されてしまうのがオチだね。
地図皿: そうですか。今回、ご主人は運が良かったんですね。
主人: そうだね。神に感謝だね。
地図皿: ところで、私はずいぶんと状態が綺麗なんですが、本歌ではなく新物なんですか?
主人: よくわかりもしない者は、状態が綺麗だと、よくそんなことを言うね。私は、磁器は綺麗であるべきと思っているんだ。それで、買ってくるとすぐに漂白剤の中に入れて綺麗にしているんだよ。お前だって、競り落としてきた時はずいぶんと汚れていたものな。
地図皿: そうですか。それで安心しました。
<古伊万里ギャラリー181 伊万里染付日本地図文角皿>(平成25年5月1日アップ)
表面 |
上の真ん中より少し右側には「小人国」が、左端には「朝鮮」が、右端には「松前」がみられる。 中ほどの右端には「エゾ(蝦夷)」の一部が表示されている。 下の左端には「琉球」が、右端には「女コ国(女護国)」が描かれている。 |
裏面(わりと分厚い作りである) |
側面(思ったよりも高台が高い) |
裏面(高台内に「天保年製」の銘) |
「武蔵」が「武昌城」となっている。 | 「山城」が「平安城」となっている。 |
表面の下の中ほどに描いてある、海なし国の覚え方(?)の拡大写真 |
この角皿は、江戸時代の天保時代に多く作られ、一般民衆の間に人気のあった、いわゆる「天保地図皿」と言われるものである。
この角皿のように、高台内に「天保年製」の銘が入っているものは結構見られる。
形は、このような角形のものの他に丸形のものもある。
描かれている地図は、現在のような正確なものではなく、当時、一般的に親しまれていた「行基図」と呼ばれるもので、そこには、蝦夷や琉球、朝鮮などの実在の国のほかに、「小人国」や鬼女が住むといわれる「女護国」といった、実在しない伝説の国も描かれている。
ところで、この手の地図皿は、これまで、図録や美術館などで何度も見ているはずなのに、この地図皿を手に入れてから初めて気付いたことがある。
それは、「武蔵国」が「武昌城」と、「山城国」が「平安城」と表示されていることに気付いたのである。
やはり、図録や美術館では、漫然と眺めていることがわかる。
我が物として、じっくりと観察して、初めて発見するものがあるようだ。
それに気付いた時、一瞬、頭の中が真っ白になった(><)
「あれっ、やられたか~。新物を掴んでしまったか~~」と思ったからである(><)
しかし、「やはり、そんなことはないだろう。雰囲気として、どうしても江戸後期には属するはずだ!」と思い、手持ちの書物やネットに載っている地図皿の写真をよ~く見てみると、けっこう、「武蔵国」を「武昌城」と、「山城国」を「平安城」と表示しているものは多いのである。
それで、先ずは一安心というところではあったが、今度は、「では何故?」という疑問が湧き、なんとなく落ち着かない(-_-;)
そこで、いろいろとインターネットで調べていたら、「戸栗美術館公式ブログ」の2011年07月17日の記事に、そのものズバリのことが書いてあったので、次にそれを紹介したい。
今では、インターネットというようなものが存在するので、便利な世の中になったものである(*^_^*)
なお、「平安城」については、上のような資料を見つけ出すことは出来なかったが、「山城国」を「平安城」と表示したからといって、それが新物だという根拠にはならないであろう。
この地図皿には、「海なし国の覚え方(?)」みたいなものが描かれている。
この文言を描いた地図皿も多いようである。
この文言は、
「 海なきは 山城、大和、伊賀、河内 筑紫に筑後、丹波、美作 近江路や美濃、飛騨、信濃、甲斐の国 上野、下野これも海なし 」
と読むのであろう。
このようにして、海なし国の名前を覚えたものと思われる。
ところで、また、この地図皿をよ~く見てみたら、「筑紫国」というのが見当たらないのである。
またまた疑問に感じて、再度、インターネットで調べたら、古くは筑紫国と呼ばれたものが、7世紀末の律令制成立とともに筑前・筑後の2か国に分割されたとのことである。
この地図皿には、筑前と筑後の2か国の名は描かれているのだし、また、上記の文言の海なし国の一つに「筑後」が挙げられてもいるのだから、どうして上記の海なし国の覚え方(?)の文言の中に「筑紫国」が出てくるのかの意味が分からなくなったところである。
「筑紫」には意味はなく、単なる、覚え方のゴロ合わせとして登場してくるのであろうか?
製作年代:江戸時代後期(天保時代)
長径:27.9cm 短径:21.5cm 高さ:4.9cm
上掲の1枚目の地図皿は、平成25年4月に購入したものですが、その後、縁あって、2枚目の地図皿を平成28年1月に購入しました。
次に、その、2枚目の地図皿を紹介いたします。
表面
裏面 (高台内に「文化三年」の銘があります)
この手の地図皿の多くは天保年間(1830ー44)に作られていますが、ご覧のように、この地図皿の高台内には、「文化三年(1804)」と書かれています。
江戸時代後期の伊万里には、「文化・文政」以後に作られた物にも、よく、「文化年製」の銘が使われますので、果たして、この地図皿が本当に「文化三年」に作られたものかどうかは定かではありませんが、「文化三年」よりそれほど後ではないようの思われます。「天保」よりは少し前に作られたのかもしれません。
側面 (ちょっと歪みがみられます)
なお、この地図皿の「武蔵」は、1枚目の地図皿とは違って、「武蔵 江戸」となっていて、違和感がありません。
また、「山城」も、やはり、1枚目の地図皿とは違い、「山城 京」となっていて、やはり、違和感がありません。
ところで、1枚目の地図皿と2枚目の地図皿を比較しますと、1枚目の地図皿のほうは厚めにしっかりと作られ、歪みがみられませんが、2枚目の地図皿には、歪みがみられます。1枚目の地図皿のほうが上手だったのでしょう。
製作年代:江戸時代後期(文化・文政~天保時代)
長径:29.0cm 短径:25.2cm 高さ:4.1cm