元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

17条の憲法「和をもって貴し、事は独り定むべからず」(日本政治の基本)

2021-02-01 11:03:26 | 職場・組織等
 公卿も武家政治も基本合議制・強権政治は長く続いたためしなし

 歴史で必ず出て来る聖徳太子の17条の憲法では、「和を以って貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。・・それ事は独りさだむべからず。必ず衆とともに宜しく論うべし。」(和を尊び、人に逆らわないようにしなさい。物事は独断で決めるな。必ず皆と議論して決めなさい。)と定めているが、これは、国民に説いたのでなく、天皇の下での支配秩序のなかで、豪族たちに国家の官僚としての自覚を解いたものであるとされている。(*以下 趣旨は「繰り返す日本史 河合敦著」「徳川3代の人間学 童門冬二著」による) 
 
 以後、日本の政治の根本は、この政治的基本姿勢の中で行ってきた。朝廷のもとでは、太政大臣、右大臣、左大臣、大納言といった公卿たちの合議によって政策を決定、天皇の裁可を得たうえで、天皇の命令として出された。武家政治においても、長年続いた幕藩体制の創始者であると徳川家康は、岡崎城主であったころ、岡崎奉行を3人置いたので、「ホトケ高力(清長)、オニ作左(衛門・本田重次のこと)、どちへんなし天野康景」と庶民は言った。家康は、人間どこか欠点があり、すべてを備えた者などいないので、単独ではできないとして、チームワークや能力の相乗効果を重視したのであろう。幕藩体制においても、これを引き継ぎ、老中、若年寄、大目付、諸奉行の役職を設け、それぞれの役職について一人ではなく複数の者を任命した。家康は、下積み期間が長かったこともあって、人の信頼と同時に不信、用心深さというべきかもあって、複数任命という独特の組織体制を敷いたのであろうが、いずれにしても、それぞれの役職の合議制という、独断で決めるな、一人ではできないという政治基本が貫かれたことは間違いない。

 一方で、日本では、強権政治は、長くは続かず、必ず人心は離れて<麒麟はくる(42)=「離れゆく心」>政変が起きている。よく知られている例では、平清盛も一時は月の満ち欠けにも文句をいえるほどであったが、後白河法皇を幽閉、孫を天皇にするなど強引な手法で、清盛の死後数年で平氏はほろんだ。また、後醍醐天皇は、武家のなかで、強引に次々に新政策を実行したが、わずか2年で足利尊氏によって滅ぼされた。織田信長にあっては、皆殺しなど人を人と思わない性格や強引なやり方は、荒木村重、松永久秀、浅井長政など多くの家臣、身内の大名の謀反に合い、最後は義を重んじる明智光秀によって殺される。日本の中では、大きな権限を持ち、強権をふるった施政者は、必ずといっていいほど、長くは続かず、海外に見るような少なくても十年数年も続くような専制政治はできない。というのも、民衆の心が離れていくからである。今の政治にも学ぶところがあると考えるがいかがであろうか。

 憲法17条「和を以って貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。・・それ事は独りさだむべからず。必ず衆とともに宜しく論うべし。」なのである。非常時であれ、少なくともこの「独りさだむべからず」は重視しなければならない、一人よがりはゆるされない、非常時にこそ、民衆が何を考えているかを察知してすぐに動かねばならないのである。(どうも首相を始め各大臣がバラバラ動いて統一性がとれていないように感じるのは、私だけか。)
 
 参考 繰り返す日本史 河合敦 青春出版社
    徳川3代の人間学 童門冬二 NHK出版
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする