「光秀の謀反人」は秀吉の戦略>徳川では謀反人の影は薄れたこと
明智光秀は「謀反人」か? 戦国時代にあっては、謀反は普通の日常茶飯事であったのではないか。どうも信長の実質的な後継者となった豊臣秀吉から、謀反人としてうまく扱われたのではないかと思う。別の言い方をすれば、下剋上の世の中にあって、謀反人とそうでない者の違いってなんだというわけである。
山崎の戦いで信長を打った明智光秀に勝った豊臣秀吉が、自分が信長の後継者として世を治めるため、彼を謀反人として悪人として扱ったのではないかということである。というのも、豊臣政権が倒れ徳川政権の世になった時代には、彼の謀反人としての影は薄れ、世にもてはやされるようになったのである。
当時武士がたしなむ「孟子」に、政権交代として「禅定」と「放伐」という用語がある。童門冬二氏※は、これを次にように分かりやすく説明しています。 ※徳川3代の人間学、童門冬二著、NHK出版
人民を治める王には徳がなければならない。徳がなければ仁の政治がおこなえないからからだ。徳を失った王は徳のある後継者に後を譲るべきである。この話し合いによる平和な政権移動を禅定という。
徳を失ったにもかかわらず王が、いつまでも王座にしがみつくときは、徳のある者が実力を行使してその王を排除することができる。これは謀反ではない。なぜなら、徳を失った王は単なるつまらない人間にすぎないからだ。この実力行使を放伐という。
では、徳がないとかあるとかとは誰が判断するのか。光秀が一人判断したのであれば、それは独りよがりではないか。以前の論で、信長の企業は、すでにパワハラ化、ブラック起業していたと述べたが、それを光秀一人で判断したのであれば、それは独りよがりにすぎなく、正統性はない。しかし、織田家の中においては、誰もが徳がなくなっと感じていたはずである。
放映された「麒麟がくる」の中で、その契機となるような出来事から、著者の脚色もあることも考慮しても、次のようなことがある。
・信長の光秀への家康接待時の暴行 ・信長が昔からの重臣である佐久間信盛の働きが悪くなったゆえの追放 ・光秀が正親町天皇から横暴な(?)信長のいくすえを見守るよう依頼される ・信長が正親町天皇へ譲位を強要 ・信長は将軍足利義昭追放にあたって罪人扱い ・信長は四国長曾我部と始め協定していたが畿内に縁を持つ三好氏に接近し長曾我部と対立=光秀は長曾我部と親戚だったので両者の板挟み ・比叡山延暦寺の焼き討ちにおいて女・子供の殺害を信長は光秀等に命令 ・家康が光秀に築山殿等の殺害を信長に命じられたことを光秀に相談 ・荒木村重や松永弾正の信長への反発からきた謀反 ・光秀の尊敬する「道三ならどうしただろうか」と父道三に性格が瓜二つである帰蝶が、光秀に聞かれたときのセリフ「信長を作ったのは光秀など、ならば、それを作った光秀お前が始末するしかない」と
*しかし信長の最後の命令が、光秀が昔仕えた将軍足利義昭を殺せとはビックリしました、これでは信長か義昭かということになり、本能寺の変は不可避となる。「麒麟がくるー最終回」
(思いつきまま記述したので、出来事順ではない)
彼の中で、放伐の実施は、自分だけの判断だけでないという思いが芽生えたとしても不思議ではない。
つまり、光秀にいわせれば、悪役非道を行い、人心が離れる信長に対して、麒麟の来る平和な世の中を治めるために、「放伐」を行ったのである。光秀の主殺しは、彼なりの「義」を重んじる結果であったのであろう。※
※戦国時代の争いはすべて孟子の説く「放伐」の実行であって、光秀が信長を殺したのも、家康が豊臣家を滅ぼしたのも、この放伐の論理によったものであるという。(徳川3代の人間学、童門冬二著、NHK出版)
そこで、光秀は、信長討伐の公認そして信長後継者として、後付けであるが、朝廷の詔勅を得る必要があったのである。「本能寺の変」後に安土城に入り、4日間もそこにとどまったのは、信長の居城である安土城で勅使吉田兼見を迎える必要があったからといえる。この間に平定の軍備を整えるよりも、なによりも義という論理を重んじた結果、勅使を待った。しかし、そこへ秀吉の「中国大返し」による思いがけない急襲によって、光秀は敗れることになる。
明智光秀は「謀反人」か? 戦国時代にあっては、謀反は普通の日常茶飯事であったのではないか。どうも信長の実質的な後継者となった豊臣秀吉から、謀反人としてうまく扱われたのではないかと思う。別の言い方をすれば、下剋上の世の中にあって、謀反人とそうでない者の違いってなんだというわけである。
山崎の戦いで信長を打った明智光秀に勝った豊臣秀吉が、自分が信長の後継者として世を治めるため、彼を謀反人として悪人として扱ったのではないかということである。というのも、豊臣政権が倒れ徳川政権の世になった時代には、彼の謀反人としての影は薄れ、世にもてはやされるようになったのである。
当時武士がたしなむ「孟子」に、政権交代として「禅定」と「放伐」という用語がある。童門冬二氏※は、これを次にように分かりやすく説明しています。 ※徳川3代の人間学、童門冬二著、NHK出版
人民を治める王には徳がなければならない。徳がなければ仁の政治がおこなえないからからだ。徳を失った王は徳のある後継者に後を譲るべきである。この話し合いによる平和な政権移動を禅定という。
徳を失ったにもかかわらず王が、いつまでも王座にしがみつくときは、徳のある者が実力を行使してその王を排除することができる。これは謀反ではない。なぜなら、徳を失った王は単なるつまらない人間にすぎないからだ。この実力行使を放伐という。
では、徳がないとかあるとかとは誰が判断するのか。光秀が一人判断したのであれば、それは独りよがりではないか。以前の論で、信長の企業は、すでにパワハラ化、ブラック起業していたと述べたが、それを光秀一人で判断したのであれば、それは独りよがりにすぎなく、正統性はない。しかし、織田家の中においては、誰もが徳がなくなっと感じていたはずである。
放映された「麒麟がくる」の中で、その契機となるような出来事から、著者の脚色もあることも考慮しても、次のようなことがある。
・信長の光秀への家康接待時の暴行 ・信長が昔からの重臣である佐久間信盛の働きが悪くなったゆえの追放 ・光秀が正親町天皇から横暴な(?)信長のいくすえを見守るよう依頼される ・信長が正親町天皇へ譲位を強要 ・信長は将軍足利義昭追放にあたって罪人扱い ・信長は四国長曾我部と始め協定していたが畿内に縁を持つ三好氏に接近し長曾我部と対立=光秀は長曾我部と親戚だったので両者の板挟み ・比叡山延暦寺の焼き討ちにおいて女・子供の殺害を信長は光秀等に命令 ・家康が光秀に築山殿等の殺害を信長に命じられたことを光秀に相談 ・荒木村重や松永弾正の信長への反発からきた謀反 ・光秀の尊敬する「道三ならどうしただろうか」と父道三に性格が瓜二つである帰蝶が、光秀に聞かれたときのセリフ「信長を作ったのは光秀など、ならば、それを作った光秀お前が始末するしかない」と
*しかし信長の最後の命令が、光秀が昔仕えた将軍足利義昭を殺せとはビックリしました、これでは信長か義昭かということになり、本能寺の変は不可避となる。「麒麟がくるー最終回」
(思いつきまま記述したので、出来事順ではない)
彼の中で、放伐の実施は、自分だけの判断だけでないという思いが芽生えたとしても不思議ではない。
つまり、光秀にいわせれば、悪役非道を行い、人心が離れる信長に対して、麒麟の来る平和な世の中を治めるために、「放伐」を行ったのである。光秀の主殺しは、彼なりの「義」を重んじる結果であったのであろう。※
※戦国時代の争いはすべて孟子の説く「放伐」の実行であって、光秀が信長を殺したのも、家康が豊臣家を滅ぼしたのも、この放伐の論理によったものであるという。(徳川3代の人間学、童門冬二著、NHK出版)
そこで、光秀は、信長討伐の公認そして信長後継者として、後付けであるが、朝廷の詔勅を得る必要があったのである。「本能寺の変」後に安土城に入り、4日間もそこにとどまったのは、信長の居城である安土城で勅使吉田兼見を迎える必要があったからといえる。この間に平定の軍備を整えるよりも、なによりも義という論理を重んじた結果、勅使を待った。しかし、そこへ秀吉の「中国大返し」による思いがけない急襲によって、光秀は敗れることになる。