1694 日本での活動最終日でした。ほぼ三週間、別の世界で、充分、英気を養った。最終日の今日、インドネシアから良いニュースが入った。原料の手配も順調に行っているようで、インドネシアに戻れば、多分、大きな動きが出ると思う。
昨日からの続き、何故、インドネシア人を社長にした会社を閉じさせたかというと、これがまた、原因は、しがらみでした。N社の会長から、進出に当たって、“お前、どうしても、手伝え“とい事になって、仕事をそっちのけで、工場を捜したり、借りたり買ったりする工場の交渉に当たったり、その間に、”今やっている会社をN社の押出部門として、移せ”という話にもなった。会長と私の付き合いは古い、30年以上、下請けとして、目を掛けてもらっていた、大いに、私の技術を認めてくれていた。信頼関係でもあるが、兄、弟に関係のようなものもあると思っていた。K社を手伝い始めた時にも、“何故、俺の方を手伝わないのか“と、言われていた。日本へ帰れば、必ずゴルフをやる間柄にもなっていた。これは、今でも、続いている。
K社の跡地に第二工場を作るなどの手伝いの後、いの一番に、押出し部門をN社の中へ移した。従業員全員を正社員という条件だった。そして、いきなり、押出し部門は利益を上げていた。他の部門を含めた、全体が黒字になるのは二年後だった。先駆けて、引っ張る形になっていた。その後、本社のテクノセンターにどうしても来いというので、一年間ほど、掛け持ちをしていた。しかし、最初から分かっていたことだったが、稟議稟議で試作を思うようにできないばかりか、通勤が苦痛だった。そこで、契約満期と同時に、誰にも話さず、会社から抜けてしまった。当の会長にも、話をしなかった。会長は、私が居なくなって一か月後に、分かったらしい。
その後、しばらくして、今の会社にお世話になることにした。
一番目の会社の押出部門化、会社全部を私に任せていれば、今、二社目と三社目(N社)でやっていることすべてを独占的にやっていたはず、そして、二番目の会社の社長がまともなら、三社目の仕事も二社目でやっていたはずだ。一社目も二社目も、大きな技術と利益を逃がした。その点、三社目は、棚ボタの利益を受けている。一社目から私について来ていたインドネシア人は、安定した労働条件の中にいる。
パチンコ屋だが、意味がわからない、宣伝板、分かる人には、分かるのでしょうね。
洗濯物をたたむ手伝いの下の子。
解放 自由 稟議
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