南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆連続手伝い

2013-09-06 10:48:32 | 体験

 1694 日本での活動最終日でした。ほぼ三週間、別の世界で、充分、英気を養った。最終日の今日、インドネシアから良いニュースが入った。原料の手配も順調に行っているようで、インドネシアに戻れば、多分、大きな動きが出ると思う。

 

昨日からの続き、何故、インドネシア人を社長にした会社を閉じさせたかというと、これがまた、原因は、しがらみでした。N社の会長から、進出に当たって、“お前、どうしても、手伝え“とい事になって、仕事をそっちのけで、工場を捜したり、借りたり買ったりする工場の交渉に当たったり、その間に、”今やっている会社をN社の押出部門として、移せ”という話にもなった。会長と私の付き合いは古い、30年以上、下請けとして、目を掛けてもらっていた、大いに、私の技術を認めてくれていた。信頼関係でもあるが、兄、弟に関係のようなものもあると思っていた。K社を手伝い始めた時にも、“何故、俺の方を手伝わないのか“と、言われていた。日本へ帰れば、必ずゴルフをやる間柄にもなっていた。これは、今でも、続いている。

 

K社の跡地に第二工場を作るなどの手伝いの後、いの一番に、押出し部門をN社の中へ移した。従業員全員を正社員という条件だった。そして、いきなり、押出し部門は利益を上げていた。他の部門を含めた、全体が黒字になるのは二年後だった。先駆けて、引っ張る形になっていた。その後、本社のテクノセンターにどうしても来いというので、一年間ほど、掛け持ちをしていた。しかし、最初から分かっていたことだったが、稟議稟議で試作を思うようにできないばかりか、通勤が苦痛だった。そこで、契約満期と同時に、誰にも話さず、会社から抜けてしまった。当の会長にも、話をしなかった。会長は、私が居なくなって一か月後に、分かったらしい。

 

その後、しばらくして、今の会社にお世話になることにした。

 

一番目の会社の押出部門化、会社全部を私に任せていれば、今、二社目と三社目(N社)でやっていることすべてを独占的にやっていたはず、そして、二番目の会社の社長がまともなら、三社目の仕事も二社目でやっていたはずだ。一社目も二社目も、大きな技術と利益を逃がした。その点、三社目は、棚ボタの利益を受けている。一社目から私について来ていたインドネシア人は、安定した労働条件の中にいる。

 

パチンコ屋だが、意味がわからない、宣伝板、分かる人には、分かるのでしょうね。

 

 洗濯物をたたむ手伝いの下の子。

 解放 自由 稟議


Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (^_-)-☆難しい手伝い | TOP | (^_-)-☆成田ジャカルタ »
最新の画像もっと見る

post a comment

Recent Entries | 体験