しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 ネヘミヤ記11章 <エルサレムに在住した人々>

2016-07-27 | ネヘミヤ記

ほうせんか「ユダ族とベニヤミン族のうちのある者は、エルサレムに住んだ。すなわち、ユダ族では、ウジヤの子アタヤであった。このウジヤはゼカリヤの子、順次さかのぼって、アマルヤの子、シェファテヤの子、マハラルエルの子。マハラルエルはペレツの子孫のひとりである。」(ネヘミヤ記11:4新改訳)

神に対する堅い信仰をもってエルサレムに在住した人々は、主にユダ、ベニヤミン、レビの三部族から成っていた。登録されたその数は合計三千人あまりだったことが本章からわかる。帰還民たちは周辺の異邦人と緊張関係にあったが、特にエルサレムとそこの住民は敵視されていた。だからエルサレム市内に居住することは、危険をも承知のうえで決心しなければむずかしかったのだ。▼さて、やがてこのベニヤミンの子孫から、最大の使徒パウロが出るのである。彼はキリキヤ州タルソの出身だが、甥(パウロの姉妹の子)がエルサレムに家族と住んでいた( 使徒23:16)ことからみても、もとはエルサレムにある一族だったとみてよいだろう。パウロの家はユダヤ教を守り、発展させようとの強い決意をもっていただろうし、彼はそのためにガマリエルの門下生として勉学と訓練に明け暮れていたにちがいない。そのパウロが、律法の実体、活ける神殿であるイエス・キリストの顕現に触れ、歴史上最大最高の使徒、伝道者になった。▼このようなことをみると、神の摂理の糸がすでにネヘミヤの時代から伸びていたわけで、そのご計画の大きさ、精緻さに感動する。


朝の露 ネヘミヤ記10章 <神の宮の礼拝のために>

2016-07-26 | ネヘミヤ記

グラジオラス「私たちは、私たちの神の宮の礼拝のために、毎年シェケルの三分の一をささげるとの命令を自分たちで定めた。これは、並べ供えるパンと、常供の穀物のささげ物、また常供の全焼のいけにえ、また、安息日、新月の祭り、例祭のいけにえ、聖なるささげ物、また、イスラエルの贖いをなす罪のためのいけにえ、さらに、私たちの神の宮のすべての用途のためであった。」(ネヘミヤ記10:32,33新改訳)

これまでも記したが、帰還した人々にとり、もっとも重要なことはエルサレムにおける神殿礼拝が確立することであった。それには祭司階級とレビ族の生活が保障されなければならず、ネヘミヤたちが神の前で契約をもって誓った目的もそこにあった。こうして彼の強い指導のもと、神の宮はなおざりにされなくなり、しだいに信仰が強められていった。ところが、このあと、ネヘミヤが所用でペルシャ本国に帰ると、たちまち規律はゆるみ、ささげものがとどこおり、生活に窮したレビ人たちは田舎に戻ってしまったことが記されている(ネヘミヤ記13:10)。彼の総督としての苦労は並大抵ではなかった。▼今日、わが国の教会は衰微しつつあると言われて久しいが、どうしてなのだろう。高齢化と人数減少が挙げられるが、それは表面的な理由にすぎない。教会生活をまず第一にしようという礼拝の心が衰微していることが原因である。キリスト者がこの世に重きを置き、自分の生活の充実を先行させるとき、教会は衰微せざるをえなくなっていく。教会だけにとどまらず、クリスチャン家庭の衰微もこれと連動している。私たち日本のキリスト者は、この問題をどの程度深刻に受け止めているだろうか。永遠の運命がかかっているというのに。


朝の露 ネヘミヤ記9章 <心からの悔い改め>

2016-07-25 | ネヘミヤ記

しらゆり「 私たちに降りかかって来たすべての事において、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。」(ネヘミヤ記9:33新改訳)

ネヘミヤとエズラの指導のもと、ユダヤ人たちは土をかぶり、断食して神に悔い改めた。▼悔い改めとは、過去に自分たちが神を悲しませて来たことを率直に認め言い表し、それにもかかわらず、あわれみと恵みにより守られて今日に至った、と感謝することである。 それとともに、過去現在にわたるすべての事において神が正しいお方だったと告白することである。▼私や貴方も静かに自分の生涯をふりかえれば、ことごとくが主のあわれみに守られ、支えられてきたことがよくわかり、不平不満は雲散霧消し、賛美と感謝にあふれるだろう。そうでないとすれば、どこかで自分を義とし、神の正しさに承服しない部分を持っているのである。そこから本当の悔い改めは生じない。▼朝から夕まで、食を断ち、土まみれになり、神に悔い改め続けたユダの人々。その真実な姿は神のレムナント(遺残者)にふさわしかった。たしかに客観的にみると、帰還したとはいえ、ユダヤ人たちはじつにあわれでみすぼらしかった。なぜなら、神が与えた地を異邦人が奪い、支配し、彼らはしがない奴隷なのだ。ほんとうは彼らのものであるはずの産物、土地、その他あらゆる富は無慈悲にも取り上げられ、重い税に苦しみながら約束の地に住み続ける、なんというみじめさであろう。▼屈辱、涙、悲しみと悔しさ、それらをいやというほど味わい、しかもそこから神をほめたたえる、イスラエルの歴史は悔い改めからの再出発であった。


朝の露 ネヘミヤ記8章 <嗚咽の声、エルサレムに満つ>

2016-07-21 | ネヘミヤ記

山南の家々「 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、『 アーメン、アーメン』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」(ネヘミヤ記8:6新改訳)

エルサレム城壁が完成し、民はようやく安心して市内に住めるようになった。そこで彼らは、まずモーセ律法に耳を傾けることにし、律法に精通している学者かつ祭司であるエズラから解説してもらうことに決めた。▼第7月の1日、夜明けから真昼まで律法が朗読され、その意味が誰にもわかるように解き明かされたとき、人々は自分たちがどんなに神の定めた生き方から離れていたかを知り、衝撃を受け始めた。彼らは悔恨の涙を流し、嗚咽の声はエルサレムに満ちた。こうして帰還者たちに信仰復興が始まった。▼聖書こそ歴史を変える力に満ちた書である。なぜならそれは、文字の形で現れた主イエス・キリストだから。かくしてネヘミヤとエズラは聖言により、エルサレムの外観だけでなく、その内実まで変えることに成功したのであった。

現代の私たちもネヘミヤとエズラの方法を踏襲する必要があろう。第一に、民は「読まれたことを理解した」()。それは聖書がはっきり読まれ、記されたことを説明されたからである。第二に、「教えられたことを理解した」(12)のは、律法の解き明かしが良くわかるよう、エズラが朗読したみことばをレビ人たちが解き明かししたからだ。それは難しい研究の成果などを教えることではない。信仰者に対する神のみこころをはっきり示すことなのである。▼私たちは主の心に触れたとき、じぶんの罪を悟る。そして悔い改めが始まり、信仰復興へとつながり、最終的に天的喜びに満たされるのだ。


朝の露 ネヘミヤ記7章 <神殿奉仕者の任命>

2016-07-20 | ネヘミヤ記

himawari4「城壁が再建され、私がとびらを取りつけたとき、門衛と、歌うたいと、レビ人が任命された。」(ネヘミヤ記7:1新改訳)

ネヘミヤが目ざしたのは、天地の創造主を純粋に礼拝する場所としてエルサレムを聖別し、祭司制度を確固たるものに整えることだった。城壁再建はそのために欠かせないものだったのである。▼エルサレム神殿は全世界の祈りの家と、神が定められた場所である。だから、ネヘミヤが異邦人とユダヤ人、とくに祭司、レビ人といった人々を区別して守ったのは、狭量な考えからではなく、万国民の祝福につながることだった。残念なことに、祭司やユダヤ人は次第に選民意識に閉じこもり、ネヘミヤの願いとは反対方向に進んでしまい、主イエスが出現された頃は腐敗の極に達してしまった。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」(マルコ11:17同)と憤られた主のお気持ちを、よく汲み取らなければならない。

ところでキリスト者はエルサレム神殿をどうとらえるべきだろうか。その本体、実質は主イエス・キリストご自身である。主は現在、世界中のキリスト者(ただし真に新生し、信仰を忠実に生きている人)に聖霊によって内住しておられるのだから、エルサレム神殿は世界のいたるところに礼拝の場所として存在している、ということになろう。かつて主が言われたとおりだ。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。・・・神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:2124)▼福音時代、聖霊時代といわれる今は、じつにすばらしい恵みの中におかれた時代である。