マシュマロ’sエンディングノート

~At the end of a marshmallow-like life~

法事に参加して思うこと

2019-08-10 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
伯父の3回忌法要がありました。
西日本のお盆は8月、町中に袈裟姿のお坊さんを見かける季節です。
関東周辺のお盆は7月ですが、お盆の季節になった途端に猛暑や豪雨や台風で天候が荒れるの、やめてほしいですよね。
まあ、気象なので、こちらの希望を聞き入れてもらうことはできませんが(苦笑)

法事に参加してぼんやり考えたこと
私が初めて葬儀、法事に参加したのは、祖母がなくなったときです。
中学生でした。
祖父が、その1年後に亡くなったので、当時は毎年のように葬儀、法事が続きました。

祖父母の家では、毎回自宅で法事をしていたのですが、親戚が多すぎて30人くらいが入れ代わり立ち代わりで参加しているような状態でした。
たまたま広い家でしたからいいのですが、いまどきの家では絶対に実施できない規模の法事です。
30人も来るなら、葬儀社に頼む方がいいですよね。
振舞いの食事も、近親者全員総出で前日から準備していました。
私も、よく手伝いをさせられました。

成人してからは、同僚のお宅や友人のお宅の葬儀へ出席することが増えました。
一時期病院関連施設に勤務していたので(看護師や看護補助員ではありません)、その関係で葬儀に出ることもありました。
現在、また身内の葬儀、法事が増えてきました。
伯父伯母が立て続けに亡くなったり、友人の親が亡くなったりして、葬儀や法事がより身近に、より頻繁になってきました。

毎回、葬儀や法事に参加するとき、お坊さんのお経を聞きながら、いろいろなことを考えます。
考える内容は、実は故人を想うだけではありません。
正直に言いますと、故人との思い出や家族の想いを考えていることもありますが、半分以上は全く別のことを考えています。

今回の法事ですと、家に帰ったら母の昼食の準備をして、薬を飲ませたら予定していた外出をして、その前に汚れ物を洗っておいて...と、一日の段取りを考えたり、お経って何言ってるかわからないけど、リズムがいいから眠くなるよね、など(笑)
他所様の葬儀やお通夜に参列しても、祭壇の細かい部分を見つけて、どうやって作るのかな?とか、お坊さんの袈裟をみては、袈裟ってたしか法要内容で変えるんだったっけ?とか。

読みかけの本のことを考えたり、明日の食事メニューを考えたり、とにかくいろいろなことを考えます。
お経を聞きながらウトウトするときもありますが、なぜか眠気が治まるとスッキリしているのは何故でしょう?(苦笑)

お経を聞く時間
中学生、高校生のときは、お経を聞く時間が苦痛でした。
意味が解らないし、そのおかげでいつお経が終わるのかもわからない。
無限に正座していなければいけないような気がして、気をそらすために参列している人たちを観察したりしていました。
あの人、故人とはどんな関係の人かな?
こっちの人は、見たことあるな。
向こうの人は寝ちゃってるな(笑)

成人してからは、宗教の違いで見たことのない葬儀が新鮮だったり、参列者のフォーマルスーツやワンピースをみては、あれは可愛いな、こちらは無難でどの年齢でも着れそうだなと、心の中でフォーマルスーツの買い替えを検討したり。
身内の法事では、仕事のことやレジャーの予定を考えたり、故人を偲ぶのはほんの数分です(苦笑)

葬儀法要のときに読まれるお経は、故人へ向けた内容であると同時に現世に生きている我々へのメッセージも込められています。
勉強しないと内容は理解できませんし、言葉も文章も独特ですが、そこに込められたメッセージがなんとなく気持ちに入り込んでくるのかもしれません。
いろいろな考えが巡るのと同時に、心や頭の中を整理する時間としてゆっくり過ごすことができるような気がします。
お経を聞くのは、心身をリセットするためでもあるということを、この年齢になってから考えられるようになりました。

そうは言っても法事の準備は大変
心身のリセットと考えることで、お経を聞くことには抵抗がなくなりましたが、法事の準備は正直大変で、日常生活にプラスして法事のことを考えたり時間を割いたりしなければいけません。
宗教によって違うかもしれませんが、段取り、祭壇関係の準備、関係者への連絡、法事参列者へのお礼品、振る舞う食事の準備...かなりの一大イベントです。
きちんとすればするほど、費用もそれなりにかかります。

私の親戚は皆きちんとしているので、今回も法事があったわけですが、我が家に関しては全くきちんとしていません。
年忌法要もしていません。
理由はいろいろあるのですが、我が家はマンションなので、人を呼ぶ法事は会場を借りないとできない状態です。
また、母と私だけですので、準備全般をするのもむずかしい。
そうなると、葬儀社に依頼するという選択になるのですが、費用がかかります。

では、人を呼ばずに私と母だけでお坊さんを呼び、お経だけでも読んでもらったらどうだろうか?と考えることもあるのですが、母の具合が安定しないので、人を招くことそのものが母の精神的負担になっている現状があります。

そして、何よりも私自身が、お経はCDや電子音源ではだめですか?という気持ちでいます。
そういう気持ちがある理由は、おそらく菩提寺を持たないからです。
正確には、ご先祖様の菩提寺はありますが遠方で、現時点での我が家と菩提寺との関係が薄いのです。
檀家と名乗るのも恥ずかしいほど、お寺との関わりがありません。

実を言うと、父と兄の納骨もお経なしで淡々と入れる作業だけを石材店へお願いしました。
お坊さんへはお経の依頼をされているか?と聞かれて、母と私は頼んでいないとあっさり答える始末。
納骨は、単なる作業でしかないような状態でした。

現状とこれから先(私の老後)を考える
このような家ですから、これまで年忌法要は一度もしていません。
これからも、おそらく年忌法要は行いません。

私自身が、故人を偲び思い出すことが大切だと思う反面、法事は面倒くさいイベントだと認識していて、どうしても法事を行う気が起きないし、お坊さんが読経をしなくても、家族の想いは故人へ届くだろうと思っています。
そして何より、自分の子どもも配偶者もいない私には、母を看取った後に父母兄の年忌法要をしていく体力も気力も残ってはいないでしょう。
そもそも、私が旅立った後は誰が法要の段取りをして実行してくれるのか?
そう考えると、特に法要をすること自体は重要ではないような気がしています。

今は、私の勝手で年忌法要をしていませんが、この先に紙媒体のエンディングノートを残す場合は、私の死後は法要を行う必要はない、ということも一言添えておく必要があると思いました。
納骨の際も、納骨する場所(現時点では父が建てたお墓)だけ指定して、お坊さんは呼ばないでください、と書いておきましょう。
私の死後の世話をしてくれる人の時間を、私の法要や納骨で使わせたくはありません。
専門業者へ依頼するにしても、最小限の事だけしてくれるようにしておくつもりです。

そういえば、我が家には分不相応な仏壇があります。
仏壇も、私が生きている間にどうにかしなければいけません。
シビアな話をすると、処分する必要があります。
継ぐ人がいない状態の仏壇を、私の死後に遺品として整理させることは気が引けますから、どうにかして手放します。
もちろん、母が旅立った後で、ですが。


今回、法事を通じて自分がすべき終活の一部分を考えることができて、良かったと思います。
自分の死後は自分で決める、それが当たり前になった今だからこそ、見えてきたことなのでしょうね。
有意義な一日になりました。