台風の被害はなかったのですが、天気も悪いし、デパートは臨時休業、公共交通機関は間引き運行のため、本日は一日中家の中で過ごしました。
天気が悪いにもかかわらず夏用の敷きパッドを洗い、掃除機をかけ、不要品ハントを実施。
母の服を、少しだけ処分することになりました。
母のモノ所有数は無限
母は、いくつ身体があるのか?と思わせるほど、服を持っています。
着数だけなら、小さなブティックを開けるくらいは持っていると思います。
彼女の溜め込み癖は服だけにとどまらず、何かと買っては
「子ども(私マシュマロのこと)がいつか使えるかもしれない」
といい、使わずにあちこちへ仕舞いこんでいました。
現在も、かなりの“何か”を溜め込んでいる様子ですが、既に何を手放して何を所有し続けているのかを、覚えていません。
覚えていないのは年齢のせいばかりでもなく、とにかく所有しているモノが多すぎるため、記憶の中だけでは整理できない状態なのです。
現在進行形で、キッチングッズや食器を少しずつ処分していますが、母はどのキッチングッズや食器が家の中から消えたのか、まったく覚えていません。
例えて言うと、いつも通る道の一角が更地になっているのをみて、ここにどんな建物が建っていたかな?
と思い出せないことがありますが、まさにその状態です。
確かに何かが建っていたが、どんな建物で、店だったのか会社だったのか思い出せない。
確かに食器はたくさんあったが、どんな食器をいくつ持っていたのか思い出せない。
道端の建物がなくなっても、私たちの生活に影響することはごく稀です。
行きつけのお店であれば話は別ですが、ただ毎日見ていた(ような気がする)建物が、記憶に鮮明に残ることはありませんし、なくなっても何ひとつ困りません。
ただ、そこに建っていただけの存在です。
不要品も同じで、なくなっても生活に困ることはありません。
持ちすぎているキッチングッズも食器も、そして今回お話する母の服にしても、家の中から消えてしまえば、色も形も大きさも用途も思い出せない、なくても全く困らない、ただそこに存在していただけのモノ。
なくても一切困らないモノを、母は何十年も持ち続け、増やし続け、最後はモノが多すぎるせいで怪我して入院までしています(『私がモノの処分を繰り返した話』参照)
まるで、自治体がハコだけ作ってみたけれど、誰も利用しないまま時だけが過ぎていく施設と一緒です(言い過ぎですか?)
そんな母も、ケガと入院をきっかけにモノをむやみに買うことが少なくなり、今では衝動的にテレビショッピングを利用することもなくなりました(笑)
もっとも、出かけるとすぐに疲れてしまうこともあり、買い物という行為そのものができなくなりつつありますが...
母の服への執着変遷
私が小さい頃は、まだそんなに服やモノを買い込み溜め込むようなことはありませんでした。
母の買い物依存症ともいえる行為が始まったのは、おそらく祖母(母の母)が亡くなったころからです。
彼女は、祖母のことが大好きでしたが、正直依存していたと思います。
生活面では独立していましたが、何気ない祖母の思い出話をすると、依存していたことが感じ取れます。
その、大好きな母親(祖母)が亡くなったショックと、ちょうど更年期に入って更年期症状も重かったため精神的バランスが崩れ、買い物に依存するようになったのではないかと思っています。
生活便利グッズや身の回りのモノのストック、新商品、子どもだった私でも「それ要らん」と判断できるようなモノまで買い込み、服に関してはどれだけ買えば気が済むのか?と思うほど、頻繁に購入していました。
結果、何百着もの母の服で一部屋が埋まっていたわけですが、モノが片付けられず整理整頓ができない人が言いがちなセリフの数々
「高かったから、すぐ着るのがもったいない」
「まだ着られるから、捨てるのもったいない」
「好きで買ったのだから、そのうち着る」
「誰か使うかもしれないから」
服を溜め込む根拠にもならない理由を並べては、服を“大事”に“保管”していました。
本当に「服屋さんでも開店するんですか?」と、冗談抜きで何度も母に言いましたね。
少し高い値段で買った服は、ビニールや不織布のカバーが付いていることがありますが、そのカバーを付けたまま、何十年も所有していました。
手放すこともたまにはありましたが、大体が自分が着られなくなった服を誰かに譲る、といった感じなので、服を減らすという感覚はありませんでした。
そんな母が、服を買うのを控え始めたのは、ケガして入院したことがきっかけではありましたが、私が自分のモノを処分しているのをみて、少し触発された感じもありました。
比較的良い状態の服を、自分でリサイクルショップへ持ち込むようになったのです。
服以外の不要品は、私がリサイクルショップへ持っていったり処分したりしましたが、やっと“手放す”ことに意識が向き始め、片づけのときに何か見つけると
「これは売れるかな?」
と言うようになりました。
とはいえ、服もモノもとにかく多いので、売っても処分しても一向に減った感じはありませんでしたが、十数年かけて、今はやっと、何をどれだけ所有しているのか、なんとなく把握できるくらいまでには減らすことに成功しています。
服への執着の変化
これまでは、高かった服やまだキレイで着れる服を捨てることは、頑なに拒否してきた母ですが、最近は機嫌がいい時に
「これは、処分してもいい?」
と尋ねると
「いいよ」
と言ってくれるようになりました。
母が所有している“値段が高かった服”は、リサイクルショップでは購入して5年以内(チープな服は1~2年以内)のモノしか受け付けてくれません。
母がいくら高い値段で買ったモノであったとしても、いくら保存状態が良くても、リサイクルショップにとっても不要な服でしかないのです。
その話をしたころから、私が処分を促すと同意してくれるようになり、本日も母に着ない服を捨ててもいいか?と聞いたところ、OKが出ました。
まだ残っている服を改めて見渡して
「随分たくさんあるね」
と、まるで他人事(笑)
でも、それでいいと思いました。
服を溜め込んだ張本人のくせに、と思わないでもないですが、他人事のように言えるぐらい、服への執着がなくなったのだと思えば、やっとこの心境になってくれてよかったと思っています。
処分する服は、今週中に無料のリサイクルボックスへ入れに行きます。
今回処分する母の服
母は、ここ10年くらいスカートやワンピースを着ていません。
パンツルックの方が着ていて楽なようなので、改めてスカートとワンピースは今後着るか?と聞いたところ、着ないとのことでした。
捨てるというと、母はいまだに少し気持ちがモヤモヤする様子なので、リサイクルボックスへ持っていくことを伝えてビニール袋へ。
ちなみに母の服は、チェスト2台分、洋服ダンス1竿分、和ダンス1竿分、小さ目のクローゼットに収納している他に、収納しきれていない、おそらく洋服ダンス3竿分くらい?が洋服かけにかかっています。
こうやって書き出してみると、かなり減らした割には、いまだに服を持ちすぎですね(苦笑)
今回は、収納しきれていない洋服かけにかかっていたスカートとワンピースを処分することにしましたが、洋服ダンスにもまだ数着のワンピースが入っているので、それは後日着手しようと思っています。
処分する服の仕分けを始めると、タグが付いたままのワンピースが2~3着ありました。
母に、服は買ってほったらかすのではなく、買ったら着てください、と思わず言ってしまいました。
そして、そのワンピースは買ってからいったいどのくらいの月日が流れたのだろう?と思わずにはいられないくらい、今の母の年齢では着ないようなデザインでした(苦笑)
母の年齢で着るのは厳しいデザインでも、私の年齢であったらまだ大丈夫そうなものは、ちゃっかり頂いてしまおうと思うこともあります。
しかし、私と母ではデザインの好みが全く違っていて、色の好みもサイズも違うため、私のクローゼットに移動してくる服はほとんどありません。
今回も、ほとんどは時代遅れだったりサイズが大きすぎたりして、私も着れない服ばかりでしたので、躊躇なく45リットルのビニール袋へ。
一着だけ、私が今後買い揃えようと思っていたワンピースに近いデザインがあったので、私のクローゼットに入れましたが、一度着てみて何か違うな、と思ったら処分します。
服以外に処分するモノ
家庭ごみ回収日の前日なので、キッチンの保存容器を少しと、使わなくなったバッグを捨てます。
それから、かわいいので飾っておいた小さなぬいぐるみと、サヨナラすることにしました。
買った時に一目ぼれだったので、なかなか捨てることができなかったのですが、手に取って抱きしめるでもなく、毎日話しかけるでもなく、ただ飾ってあるだけのぬいぐるみ。
なんだか、持っている意味も飾っている意味もないような気がしてきました。
気に入っている分、私の死後に捨てられてしまう可能性を考えると悲しくなるので、私がぬいぐるみに引導を渡すことにしました(大げさ)
まだ、小さいぬいぐるみが数個残っていますが、未練なく手放すことができる気持ちになるまで、もうすこし時間がかかりそうです。
他は、万能ナベ蓋、クリーニング店のハンガー数個、グッズ系数個、マットレス用ボックスシーツを処分。
シーツは、服と一緒にリサイクルボックスへ入れてもいいので、ありがたいです。
マットレス用のボックスシーツ、今日までずっと必要なモノだと思っていたのですが、私がマットレスの上に敷きパッド(夏はパイル地、冬は起毛)を敷いて寝るので、摩擦でシーツがずれるようなのです。
サイズがあってないのかもしれないですが、長い間ずっと毎晩シーツのずれを整えて、朝にはまたずれて、の繰り返しは、正直ストレスでした。
ただ、慣習化してしまうことって恐ろしいですね。
シーツを使うのは当たり前で、毎晩シーツを整えて寝ることは、世の中のベッド派は皆していることだと思い込んでいました。
しかし、今朝起きたときにシーツのずれを見た瞬間、また整えてから夜寝るのかと思ったらうんざりしてしまい、捨てようと決心しました。
よくよく考えたら敷きパッドを重ねているから、シーツがなくても寝るのに支障はないことに気が付き、ボックスシーツは、取替用も含めてすべて処分することにしました。
時短や手抜きの観点からも、シーツのずれを整える行為は無駄です。
なぜ今までそこに気が付かなかったのか、我ながらぼーっとしているな、と思いました(苦笑)
今回、母の不要な服を仕分けているとき、母が発した言葉。
私「洋服ダンスに入っている服も要らないよね」
母「この中は全部要るけどね」
私「要るけど、着ないよね?」
母「着ないね」
要るけど着ないって、なんでしょう?(苦笑)
母の服をスッキリ片付けるには、まだまだ時間がかかりそうです。
天気が悪いにもかかわらず夏用の敷きパッドを洗い、掃除機をかけ、不要品ハントを実施。
母の服を、少しだけ処分することになりました。
母のモノ所有数は無限
母は、いくつ身体があるのか?と思わせるほど、服を持っています。
着数だけなら、小さなブティックを開けるくらいは持っていると思います。
彼女の溜め込み癖は服だけにとどまらず、何かと買っては
「子ども(私マシュマロのこと)がいつか使えるかもしれない」
といい、使わずにあちこちへ仕舞いこんでいました。
現在も、かなりの“何か”を溜め込んでいる様子ですが、既に何を手放して何を所有し続けているのかを、覚えていません。
覚えていないのは年齢のせいばかりでもなく、とにかく所有しているモノが多すぎるため、記憶の中だけでは整理できない状態なのです。
現在進行形で、キッチングッズや食器を少しずつ処分していますが、母はどのキッチングッズや食器が家の中から消えたのか、まったく覚えていません。
例えて言うと、いつも通る道の一角が更地になっているのをみて、ここにどんな建物が建っていたかな?
と思い出せないことがありますが、まさにその状態です。
確かに何かが建っていたが、どんな建物で、店だったのか会社だったのか思い出せない。
確かに食器はたくさんあったが、どんな食器をいくつ持っていたのか思い出せない。
道端の建物がなくなっても、私たちの生活に影響することはごく稀です。
行きつけのお店であれば話は別ですが、ただ毎日見ていた(ような気がする)建物が、記憶に鮮明に残ることはありませんし、なくなっても何ひとつ困りません。
ただ、そこに建っていただけの存在です。
不要品も同じで、なくなっても生活に困ることはありません。
持ちすぎているキッチングッズも食器も、そして今回お話する母の服にしても、家の中から消えてしまえば、色も形も大きさも用途も思い出せない、なくても全く困らない、ただそこに存在していただけのモノ。
なくても一切困らないモノを、母は何十年も持ち続け、増やし続け、最後はモノが多すぎるせいで怪我して入院までしています(『私がモノの処分を繰り返した話』参照)
まるで、自治体がハコだけ作ってみたけれど、誰も利用しないまま時だけが過ぎていく施設と一緒です(言い過ぎですか?)
そんな母も、ケガと入院をきっかけにモノをむやみに買うことが少なくなり、今では衝動的にテレビショッピングを利用することもなくなりました(笑)
もっとも、出かけるとすぐに疲れてしまうこともあり、買い物という行為そのものができなくなりつつありますが...
母の服への執着変遷
私が小さい頃は、まだそんなに服やモノを買い込み溜め込むようなことはありませんでした。
母の買い物依存症ともいえる行為が始まったのは、おそらく祖母(母の母)が亡くなったころからです。
彼女は、祖母のことが大好きでしたが、正直依存していたと思います。
生活面では独立していましたが、何気ない祖母の思い出話をすると、依存していたことが感じ取れます。
その、大好きな母親(祖母)が亡くなったショックと、ちょうど更年期に入って更年期症状も重かったため精神的バランスが崩れ、買い物に依存するようになったのではないかと思っています。
生活便利グッズや身の回りのモノのストック、新商品、子どもだった私でも「それ要らん」と判断できるようなモノまで買い込み、服に関してはどれだけ買えば気が済むのか?と思うほど、頻繁に購入していました。
結果、何百着もの母の服で一部屋が埋まっていたわけですが、モノが片付けられず整理整頓ができない人が言いがちなセリフの数々
「高かったから、すぐ着るのがもったいない」
「まだ着られるから、捨てるのもったいない」
「好きで買ったのだから、そのうち着る」
「誰か使うかもしれないから」
服を溜め込む根拠にもならない理由を並べては、服を“大事”に“保管”していました。
本当に「服屋さんでも開店するんですか?」と、冗談抜きで何度も母に言いましたね。
少し高い値段で買った服は、ビニールや不織布のカバーが付いていることがありますが、そのカバーを付けたまま、何十年も所有していました。
手放すこともたまにはありましたが、大体が自分が着られなくなった服を誰かに譲る、といった感じなので、服を減らすという感覚はありませんでした。
そんな母が、服を買うのを控え始めたのは、ケガして入院したことがきっかけではありましたが、私が自分のモノを処分しているのをみて、少し触発された感じもありました。
比較的良い状態の服を、自分でリサイクルショップへ持ち込むようになったのです。
服以外の不要品は、私がリサイクルショップへ持っていったり処分したりしましたが、やっと“手放す”ことに意識が向き始め、片づけのときに何か見つけると
「これは売れるかな?」
と言うようになりました。
とはいえ、服もモノもとにかく多いので、売っても処分しても一向に減った感じはありませんでしたが、十数年かけて、今はやっと、何をどれだけ所有しているのか、なんとなく把握できるくらいまでには減らすことに成功しています。
服への執着の変化
これまでは、高かった服やまだキレイで着れる服を捨てることは、頑なに拒否してきた母ですが、最近は機嫌がいい時に
「これは、処分してもいい?」
と尋ねると
「いいよ」
と言ってくれるようになりました。
母が所有している“値段が高かった服”は、リサイクルショップでは購入して5年以内(チープな服は1~2年以内)のモノしか受け付けてくれません。
母がいくら高い値段で買ったモノであったとしても、いくら保存状態が良くても、リサイクルショップにとっても不要な服でしかないのです。
その話をしたころから、私が処分を促すと同意してくれるようになり、本日も母に着ない服を捨ててもいいか?と聞いたところ、OKが出ました。
まだ残っている服を改めて見渡して
「随分たくさんあるね」
と、まるで他人事(笑)
でも、それでいいと思いました。
服を溜め込んだ張本人のくせに、と思わないでもないですが、他人事のように言えるぐらい、服への執着がなくなったのだと思えば、やっとこの心境になってくれてよかったと思っています。
処分する服は、今週中に無料のリサイクルボックスへ入れに行きます。
今回処分する母の服
母は、ここ10年くらいスカートやワンピースを着ていません。
パンツルックの方が着ていて楽なようなので、改めてスカートとワンピースは今後着るか?と聞いたところ、着ないとのことでした。
捨てるというと、母はいまだに少し気持ちがモヤモヤする様子なので、リサイクルボックスへ持っていくことを伝えてビニール袋へ。
ちなみに母の服は、チェスト2台分、洋服ダンス1竿分、和ダンス1竿分、小さ目のクローゼットに収納している他に、収納しきれていない、おそらく洋服ダンス3竿分くらい?が洋服かけにかかっています。
こうやって書き出してみると、かなり減らした割には、いまだに服を持ちすぎですね(苦笑)
今回は、収納しきれていない洋服かけにかかっていたスカートとワンピースを処分することにしましたが、洋服ダンスにもまだ数着のワンピースが入っているので、それは後日着手しようと思っています。
処分する服の仕分けを始めると、タグが付いたままのワンピースが2~3着ありました。
母に、服は買ってほったらかすのではなく、買ったら着てください、と思わず言ってしまいました。
そして、そのワンピースは買ってからいったいどのくらいの月日が流れたのだろう?と思わずにはいられないくらい、今の母の年齢では着ないようなデザインでした(苦笑)
母の年齢で着るのは厳しいデザインでも、私の年齢であったらまだ大丈夫そうなものは、ちゃっかり頂いてしまおうと思うこともあります。
しかし、私と母ではデザインの好みが全く違っていて、色の好みもサイズも違うため、私のクローゼットに移動してくる服はほとんどありません。
今回も、ほとんどは時代遅れだったりサイズが大きすぎたりして、私も着れない服ばかりでしたので、躊躇なく45リットルのビニール袋へ。
一着だけ、私が今後買い揃えようと思っていたワンピースに近いデザインがあったので、私のクローゼットに入れましたが、一度着てみて何か違うな、と思ったら処分します。
服以外に処分するモノ
家庭ごみ回収日の前日なので、キッチンの保存容器を少しと、使わなくなったバッグを捨てます。
それから、かわいいので飾っておいた小さなぬいぐるみと、サヨナラすることにしました。
買った時に一目ぼれだったので、なかなか捨てることができなかったのですが、手に取って抱きしめるでもなく、毎日話しかけるでもなく、ただ飾ってあるだけのぬいぐるみ。
なんだか、持っている意味も飾っている意味もないような気がしてきました。
気に入っている分、私の死後に捨てられてしまう可能性を考えると悲しくなるので、私がぬいぐるみに引導を渡すことにしました(大げさ)
まだ、小さいぬいぐるみが数個残っていますが、未練なく手放すことができる気持ちになるまで、もうすこし時間がかかりそうです。
他は、万能ナベ蓋、クリーニング店のハンガー数個、グッズ系数個、マットレス用ボックスシーツを処分。
シーツは、服と一緒にリサイクルボックスへ入れてもいいので、ありがたいです。
マットレス用のボックスシーツ、今日までずっと必要なモノだと思っていたのですが、私がマットレスの上に敷きパッド(夏はパイル地、冬は起毛)を敷いて寝るので、摩擦でシーツがずれるようなのです。
サイズがあってないのかもしれないですが、長い間ずっと毎晩シーツのずれを整えて、朝にはまたずれて、の繰り返しは、正直ストレスでした。
ただ、慣習化してしまうことって恐ろしいですね。
シーツを使うのは当たり前で、毎晩シーツを整えて寝ることは、世の中のベッド派は皆していることだと思い込んでいました。
しかし、今朝起きたときにシーツのずれを見た瞬間、また整えてから夜寝るのかと思ったらうんざりしてしまい、捨てようと決心しました。
よくよく考えたら敷きパッドを重ねているから、シーツがなくても寝るのに支障はないことに気が付き、ボックスシーツは、取替用も含めてすべて処分することにしました。
時短や手抜きの観点からも、シーツのずれを整える行為は無駄です。
なぜ今までそこに気が付かなかったのか、我ながらぼーっとしているな、と思いました(苦笑)
今回、母の不要な服を仕分けているとき、母が発した言葉。
私「洋服ダンスに入っている服も要らないよね」
母「この中は全部要るけどね」
私「要るけど、着ないよね?」
母「着ないね」
要るけど着ないって、なんでしょう?(苦笑)
母の服をスッキリ片付けるには、まだまだ時間がかかりそうです。