少しずつではありますが、日々不要品を処分しています。
不要品が家中に溢れていたころに比べれば、すべての部屋の床が見えますし、余裕で歩く空間もあります。
しかし、まだまだ不要品が目に付きます。
父が生きていたころは、父も母もモノを増やしても不要品は処分しない人たちでしたから、父が使っていた部屋と、母が衣裳部屋にしていた部屋は、床が見えない状態でした。
私の部屋は、基本的には床にモノを置いていなかったので、一見片付いた部屋ではありましたが、所有するモノが多すぎて、収納家具で面積を圧迫していました。
今でこそ、かなりのモノを減らし、入ってこようとするモノを遮断し、徐々に不要品は減ってきていますが、いつの間にか増えているモノもあります。
今回は、今だに不要品が増える原因を考えてみました。
不要品が増える原因その1
断るタイミングがわからない。
何かが私の手元に入ってこようとするときに、はっきりと断れる状況だったらいいのですが、いつ言い出していいのかわからないタイミングがあります。
例えば、イベント会場へ入場するときに配られるノベルティ。
配られることを事前に知っていたら、断ることもできるのですが、配布物があることを知らずにいくと、うっかり受け取ってしまうことがあります。
受け取った後に、あ、要らないのに、と気が付きます。
結果、受け取ったノベルティと一緒に入っていたチラシ類も手元に入ってくるため、意図していない場面で、不要品と古紙が増えています。
また、友人宅や知人宅へお邪魔したときに、不要品を差し出されて
「これ、まだ全然使ってないの。よかったら、持って帰って」
と、不要品を押し付けられることがあります(苦笑)
消耗品だったらいいのですが、飾るモノだったりこじゃれたキッチングッズだったりすると、使い方もわからないし、そもそも要らないので断ると
「遠慮しなくていいの。もう、私は使わないから、マシュマロちゃんが使って」
と、満面の笑みで手渡されてしまいます。
いやいや、あなたに不要なモノなら、私にも不要なモノだと思うのですが?
と、心では思っていても、相手はよかれと思って私にくれると言っているのだから、むげに断ることもできず、受け取っていました。
以前は、相手の気持ちを踏みにじってはいけない、と思い込んでいて、欲しくもないけれど一応受け取って使ってみよう、使った感想を聞かれたりするかもしれないしと、捨てずに持っておきました。
けれど、結局自分が欲しくて手に入れたモノではないため、使い勝手が悪かったり似合わなかったり、邪魔になってしまったり、いいことはほとんどなかったです。
今であれば、そのような申し出(不要品の押し付け)をされたら
「ああ、この人は不要品を処分したいけど、捨てることに罪悪感があるのだな。だから、他人に処分を委ねようとしているのだな。だったら、ここは私が受け取って、私の家にあるごみ箱へ捨ててあげよう」
と、捻くれた気持ちを持ちつつ、作り笑顔で受け取ることにしています。
これまで、気持ちのこもった不要品(笑)は多々ありましたが、もうどれも手元には残っていません。
不要品が増える原因その2
思っていたのと違う。
身の回りで、毎日あるいは定期的に使うモノを買う時、選ぶ基準がそれぞれあります。
色、形、使い勝手、装備されている機能、手抜きができるモノか、時短に役立つか、毎日使っても使い心地が変わらないか。
自分では、しっかり吟味して、何度も何度も確認して、手に入れるべきかどうかを考え、よし、これは買いだ!と思って買ってみたら、ちょっと違った、結構違った、かなり違っていた!ということが、何度もありましたし、今でもあります。
いいと思って買ったはずなのに、気に入らない部分に意識が向いてしまい、自分が求めていた基準を満たすモノを新たに買いたくなります。
実際、似たようなモノを繰り返し買っていた時期もありました。
バッグと靴は、まさにその代表でした。
私の場合、ファッションとしてよりも、バッグと靴は機能性重視でした。
しかし、機能性を重視すると、いつまでたっても気に入るモノに出会えません。
なぜなら、売っているモノは私の希望を聞いて作っているわけではないから(笑)
結局、気に入らない部分があるモノを繰り返し買ってしまうわけですが、先に持っていたモノを捨ててしまえば、減ることはなくても、増えることもありません。
しかし、いつの間にか重複して所有してしまっている。
理由は、新しいモノを買ってはみたけれど、やはり前に使っていたモノの方がいいと感じて、使い続けたり、持ち続けたりしてしまうからです。
何度買っても、どれも似たような不満を持つことになるのだから、諦めて先に買ったモノを捨てるか、新しく買ったモノをリサイクルショップで買い取ってもらうかして、処分すればいいだけのことなのに(苦笑)
最近は、靴については同じ種類で色違いを買うようにしました。
バッグも、今所有しているモノを使い倒すことにしました。
使い勝手の悪さや、履き心地の悪さはもちろんありますが、もう理想の1品に出会える気もしないので、現状を受け止めることにしました(笑)
不要品が増える原因その3
葬儀や法事の返礼品。
こればかりは、要らないからと言ってお断りするわけにもいきません。
最近急激に増えた、不要品の入手経路です(苦笑)
日持ちのする食品や、日用品の消耗品であれば問題ありません。
しかし、タオルや薄墨の筆ペンと香典袋のセットは、正直必要ありません。
タオルは売るほどあるし、香典袋はありがたいですが、筆ペンはまだインクがたくさん残っているモノがあるので、不要です。
返礼品にも流行や定番品があります。
父の葬儀では、半家族葬でしたので、甥っ子姪っ子までが葬儀に参列してくれました。
血縁者以外は参列しなかったこともあり、香典返しはカタログを渡しました。
香典返しの品を、自由に選べるカタログです。
この時、余分に用意していたので、余ったカタログ分で私も好きなモノを送ってもらいました。
しかし、好きなモノを選べると言っても、本当に欲しいモノはカタログには載っていません。
あったら便利かもしれないな、という商品はありますが、心の底から欲しい商品は見当たらず、結局お菓子のセットと調味料のセットにしました。
といっても、父の葬儀の返礼品ですから、自分で買ったも同然なのですが(苦笑)
結局、返礼品カタログで好きなモノを選んだとしても、本当に必要なモノが載っていなければ、不要品カタログでしかないのだな、と実感しましたが、お香典を頂く以上は返礼品はお渡しするのが礼儀。
受け取る方も、必要ありませんとは言いにくい状況ですから、どうしようもありません。
ただ、最近では葬儀のあり方を自由に選択する方もいて、お香典を頂かない代わりに返礼品もお渡ししない旨を、参列者に前もってお知らせする方もいらっしゃるようです。
葬儀も、多様化の時代なのですね。
ちなみに、もし不要な返礼品を頂いた場合は、最悪の場合捨てますが、リサイクルショップへ持ち込んでも問題なさそうな品は、買い取ってもらいます。
え?罰が当たる?
別に気にしません。
不要なモノを持ち続けて、モヤモヤする方がよっぽどの罰ゲームですから。
不要品が増える原因その4
増えそうなモノを買う。
私の場合は、好きなアーティストのCDとDVD、漫画がそれに当たります。
少し前までは、グッズ系の収集もしていましたが、もう入手するような行為(購入する、ノベルティを狙った買い物、譲ってもらう、交換する、懸賞応募する)をやめることにしたので、グッズは今後増えることはないと思いたいです。
鉄壁の意志があれば、大丈夫なはずです。
それよりも、CD、DVDは、アーティストがもう何十年も活躍していて、最低でも年に1回から2回は新しいアルバムやシングルを発売します。
好きな漫画も、100巻超え確実なので、いつ最終回になるか...
しかし、私の楽しみのひとつであり、ストレス解消だったり、癒しだったりするので、ここだけは自分で自分に見て見ぬふりをしています。
いつか、飽きるときがくるまで、増え続けること確実です。
視覚で感じる不要品
所有品を増やさず、処分を繰り返せば、普通ならどんどんモノが減っていき、最終的には必要なモノだけが残るはずです。
しかし、減らすことを繰り返しても、モノの量が変わった印象がないことがあります。
増える原因もさることながら、日々必要としている日用品や飲食料品のストックが常に同じ量あると、減った感覚になりにくいかもしれません。
そのあたりの量への認識は、長年積み重ねた感覚なので、多すぎると感じることはありませんが、減らした感覚も持ちにくいです。
また、カベや棚のディスプレイも、減らした感覚がない場合があります。
減らした日は、確かにスッキリした感じがするのですが、ディスプレイをやめない限りはディスプレイの状態に慣れてしまって、まだまだ不要品がたくさんあるな、と感じてしまいます。
カベや棚のディスプレイも、老後は家中の壁が見える状態にするために、すべて取り除こうと考えていて、徐々に捨ててはいるのですが、どうも見た目をよくしたいという気持ちを捨てきれません。
よくよく考えたら、私のディスプレイはアマチュアの自己満足ですから、誰にも評価されないし、誰に見せるわけでもありませんから、なくてもいいはずです。
では、なぜディスプレイをやめられないのか?
答えは、好きなモノを眺めながら生活することが中毒になっているから。
毎回、ディスプレイを処分しようとすると、見ているだけで心が落ち着いたり、楽しい気分や幸せな気分にしてくれるモノは、まだそのままにしておこう、となってしまいます。
生活に必要ないとわかっていても、気持ちが必要としているわけです。
しかし、もしディスプレイに対する気持ちが変わったら、それこそ捨て時です。
その感情が生まれる瞬間を見逃さないようにしないと、いつまでたってもモノは減りません。
ディスプレイが減ることは、モノに対する感情が減った証です。
モノへの感情が減ったら、たとえ美品良品であっても、手放すことができるはず。
今は少量ずつ処分していますが、気持ちがすっかりなくなったら、すべてのディスプレイを手放せるはず。
そうなったときに、初めてモノを減らした感覚が味わえるのかもしれません。
その感覚は、もしかしたら、今ディスプレイを眺めている気持ちよりも、幸せを感じるかもしれないです。
結局のところ、不要品が増える原因は、減らす作業と増やす作業のバランスが取れていないからです。
捨てても、手放しても、入ってくるモノが上回っていれば、いつまでも同じ物量を所有します。
私の場合、雑貨や服は増やさずに減らすことを考えていますが、CD、DVD、漫画(たまに小説)は増えていくばかりですし、ディスプレイしているモノは停滞しています。
おそらく、そこで増減のバランスが崩壊しているのでしょうね。
このバランスをうまく取りながら、いずれは減らすことにウエイトを置けたら、理想の老後である必要最小限の暮らしへ近づけそうですが、なかなか難しいですね。
不要品が家中に溢れていたころに比べれば、すべての部屋の床が見えますし、余裕で歩く空間もあります。
しかし、まだまだ不要品が目に付きます。
父が生きていたころは、父も母もモノを増やしても不要品は処分しない人たちでしたから、父が使っていた部屋と、母が衣裳部屋にしていた部屋は、床が見えない状態でした。
私の部屋は、基本的には床にモノを置いていなかったので、一見片付いた部屋ではありましたが、所有するモノが多すぎて、収納家具で面積を圧迫していました。
今でこそ、かなりのモノを減らし、入ってこようとするモノを遮断し、徐々に不要品は減ってきていますが、いつの間にか増えているモノもあります。
今回は、今だに不要品が増える原因を考えてみました。
不要品が増える原因その1
断るタイミングがわからない。
何かが私の手元に入ってこようとするときに、はっきりと断れる状況だったらいいのですが、いつ言い出していいのかわからないタイミングがあります。
例えば、イベント会場へ入場するときに配られるノベルティ。
配られることを事前に知っていたら、断ることもできるのですが、配布物があることを知らずにいくと、うっかり受け取ってしまうことがあります。
受け取った後に、あ、要らないのに、と気が付きます。
結果、受け取ったノベルティと一緒に入っていたチラシ類も手元に入ってくるため、意図していない場面で、不要品と古紙が増えています。
また、友人宅や知人宅へお邪魔したときに、不要品を差し出されて
「これ、まだ全然使ってないの。よかったら、持って帰って」
と、不要品を押し付けられることがあります(苦笑)
消耗品だったらいいのですが、飾るモノだったりこじゃれたキッチングッズだったりすると、使い方もわからないし、そもそも要らないので断ると
「遠慮しなくていいの。もう、私は使わないから、マシュマロちゃんが使って」
と、満面の笑みで手渡されてしまいます。
いやいや、あなたに不要なモノなら、私にも不要なモノだと思うのですが?
と、心では思っていても、相手はよかれと思って私にくれると言っているのだから、むげに断ることもできず、受け取っていました。
以前は、相手の気持ちを踏みにじってはいけない、と思い込んでいて、欲しくもないけれど一応受け取って使ってみよう、使った感想を聞かれたりするかもしれないしと、捨てずに持っておきました。
けれど、結局自分が欲しくて手に入れたモノではないため、使い勝手が悪かったり似合わなかったり、邪魔になってしまったり、いいことはほとんどなかったです。
今であれば、そのような申し出(不要品の押し付け)をされたら
「ああ、この人は不要品を処分したいけど、捨てることに罪悪感があるのだな。だから、他人に処分を委ねようとしているのだな。だったら、ここは私が受け取って、私の家にあるごみ箱へ捨ててあげよう」
と、捻くれた気持ちを持ちつつ、作り笑顔で受け取ることにしています。
これまで、気持ちのこもった不要品(笑)は多々ありましたが、もうどれも手元には残っていません。
不要品が増える原因その2
思っていたのと違う。
身の回りで、毎日あるいは定期的に使うモノを買う時、選ぶ基準がそれぞれあります。
色、形、使い勝手、装備されている機能、手抜きができるモノか、時短に役立つか、毎日使っても使い心地が変わらないか。
自分では、しっかり吟味して、何度も何度も確認して、手に入れるべきかどうかを考え、よし、これは買いだ!と思って買ってみたら、ちょっと違った、結構違った、かなり違っていた!ということが、何度もありましたし、今でもあります。
いいと思って買ったはずなのに、気に入らない部分に意識が向いてしまい、自分が求めていた基準を満たすモノを新たに買いたくなります。
実際、似たようなモノを繰り返し買っていた時期もありました。
バッグと靴は、まさにその代表でした。
私の場合、ファッションとしてよりも、バッグと靴は機能性重視でした。
しかし、機能性を重視すると、いつまでたっても気に入るモノに出会えません。
なぜなら、売っているモノは私の希望を聞いて作っているわけではないから(笑)
結局、気に入らない部分があるモノを繰り返し買ってしまうわけですが、先に持っていたモノを捨ててしまえば、減ることはなくても、増えることもありません。
しかし、いつの間にか重複して所有してしまっている。
理由は、新しいモノを買ってはみたけれど、やはり前に使っていたモノの方がいいと感じて、使い続けたり、持ち続けたりしてしまうからです。
何度買っても、どれも似たような不満を持つことになるのだから、諦めて先に買ったモノを捨てるか、新しく買ったモノをリサイクルショップで買い取ってもらうかして、処分すればいいだけのことなのに(苦笑)
最近は、靴については同じ種類で色違いを買うようにしました。
バッグも、今所有しているモノを使い倒すことにしました。
使い勝手の悪さや、履き心地の悪さはもちろんありますが、もう理想の1品に出会える気もしないので、現状を受け止めることにしました(笑)
不要品が増える原因その3
葬儀や法事の返礼品。
こればかりは、要らないからと言ってお断りするわけにもいきません。
最近急激に増えた、不要品の入手経路です(苦笑)
日持ちのする食品や、日用品の消耗品であれば問題ありません。
しかし、タオルや薄墨の筆ペンと香典袋のセットは、正直必要ありません。
タオルは売るほどあるし、香典袋はありがたいですが、筆ペンはまだインクがたくさん残っているモノがあるので、不要です。
返礼品にも流行や定番品があります。
父の葬儀では、半家族葬でしたので、甥っ子姪っ子までが葬儀に参列してくれました。
血縁者以外は参列しなかったこともあり、香典返しはカタログを渡しました。
香典返しの品を、自由に選べるカタログです。
この時、余分に用意していたので、余ったカタログ分で私も好きなモノを送ってもらいました。
しかし、好きなモノを選べると言っても、本当に欲しいモノはカタログには載っていません。
あったら便利かもしれないな、という商品はありますが、心の底から欲しい商品は見当たらず、結局お菓子のセットと調味料のセットにしました。
といっても、父の葬儀の返礼品ですから、自分で買ったも同然なのですが(苦笑)
結局、返礼品カタログで好きなモノを選んだとしても、本当に必要なモノが載っていなければ、不要品カタログでしかないのだな、と実感しましたが、お香典を頂く以上は返礼品はお渡しするのが礼儀。
受け取る方も、必要ありませんとは言いにくい状況ですから、どうしようもありません。
ただ、最近では葬儀のあり方を自由に選択する方もいて、お香典を頂かない代わりに返礼品もお渡ししない旨を、参列者に前もってお知らせする方もいらっしゃるようです。
葬儀も、多様化の時代なのですね。
ちなみに、もし不要な返礼品を頂いた場合は、最悪の場合捨てますが、リサイクルショップへ持ち込んでも問題なさそうな品は、買い取ってもらいます。
え?罰が当たる?
別に気にしません。
不要なモノを持ち続けて、モヤモヤする方がよっぽどの罰ゲームですから。
不要品が増える原因その4
増えそうなモノを買う。
私の場合は、好きなアーティストのCDとDVD、漫画がそれに当たります。
少し前までは、グッズ系の収集もしていましたが、もう入手するような行為(購入する、ノベルティを狙った買い物、譲ってもらう、交換する、懸賞応募する)をやめることにしたので、グッズは今後増えることはないと思いたいです。
鉄壁の意志があれば、大丈夫なはずです。
それよりも、CD、DVDは、アーティストがもう何十年も活躍していて、最低でも年に1回から2回は新しいアルバムやシングルを発売します。
好きな漫画も、100巻超え確実なので、いつ最終回になるか...
しかし、私の楽しみのひとつであり、ストレス解消だったり、癒しだったりするので、ここだけは自分で自分に見て見ぬふりをしています。
いつか、飽きるときがくるまで、増え続けること確実です。
視覚で感じる不要品
所有品を増やさず、処分を繰り返せば、普通ならどんどんモノが減っていき、最終的には必要なモノだけが残るはずです。
しかし、減らすことを繰り返しても、モノの量が変わった印象がないことがあります。
増える原因もさることながら、日々必要としている日用品や飲食料品のストックが常に同じ量あると、減った感覚になりにくいかもしれません。
そのあたりの量への認識は、長年積み重ねた感覚なので、多すぎると感じることはありませんが、減らした感覚も持ちにくいです。
また、カベや棚のディスプレイも、減らした感覚がない場合があります。
減らした日は、確かにスッキリした感じがするのですが、ディスプレイをやめない限りはディスプレイの状態に慣れてしまって、まだまだ不要品がたくさんあるな、と感じてしまいます。
カベや棚のディスプレイも、老後は家中の壁が見える状態にするために、すべて取り除こうと考えていて、徐々に捨ててはいるのですが、どうも見た目をよくしたいという気持ちを捨てきれません。
よくよく考えたら、私のディスプレイはアマチュアの自己満足ですから、誰にも評価されないし、誰に見せるわけでもありませんから、なくてもいいはずです。
では、なぜディスプレイをやめられないのか?
答えは、好きなモノを眺めながら生活することが中毒になっているから。
毎回、ディスプレイを処分しようとすると、見ているだけで心が落ち着いたり、楽しい気分や幸せな気分にしてくれるモノは、まだそのままにしておこう、となってしまいます。
生活に必要ないとわかっていても、気持ちが必要としているわけです。
しかし、もしディスプレイに対する気持ちが変わったら、それこそ捨て時です。
その感情が生まれる瞬間を見逃さないようにしないと、いつまでたってもモノは減りません。
ディスプレイが減ることは、モノに対する感情が減った証です。
モノへの感情が減ったら、たとえ美品良品であっても、手放すことができるはず。
今は少量ずつ処分していますが、気持ちがすっかりなくなったら、すべてのディスプレイを手放せるはず。
そうなったときに、初めてモノを減らした感覚が味わえるのかもしれません。
その感覚は、もしかしたら、今ディスプレイを眺めている気持ちよりも、幸せを感じるかもしれないです。
結局のところ、不要品が増える原因は、減らす作業と増やす作業のバランスが取れていないからです。
捨てても、手放しても、入ってくるモノが上回っていれば、いつまでも同じ物量を所有します。
私の場合、雑貨や服は増やさずに減らすことを考えていますが、CD、DVD、漫画(たまに小説)は増えていくばかりですし、ディスプレイしているモノは停滞しています。
おそらく、そこで増減のバランスが崩壊しているのでしょうね。
このバランスをうまく取りながら、いずれは減らすことにウエイトを置けたら、理想の老後である必要最小限の暮らしへ近づけそうですが、なかなか難しいですね。