一弦琴という非常に珍しく弾き手も極端に少ない楽器でも
流派というか、いろいろ枝分かれしているのが不思議だと
思っていましたが、何の演奏でもそういうことはあるのでしょうね。
そして、閉鎖的だったり排他的だったりするのも世の常?なのかも。
もし、一弦琴の真髄、というものを追い求めるならば
そんな小さいことには捉われないはずですが
真髄、なんていうことを考えずとも一弦琴は弾けますし
なんの支障もないのかもしれません。
もうあと、聞いていないのは須磨寺の会と土佐の一弦琴の会
かしら。合奏ではなく、やはり独奏が聞きたいです。
それが一弦琴のよさというか、凄さがわかるのも『独奏』だと思いますから。
それにしても、いろいろな人の演奏を聴くたびに思うのは
うちの先生のような音を出せる人がひとりもいない、ということでした。
聞いて鳥肌が立ち、気持ちがしーんとする、
「一弦琴て、こんな音だったの!」と思われるような音。
苦悩する人のこころの内に響き合い、苦しみを浄化する音。
(調子の悪いときもあるようですが)
また一方、『唄』の存在も大きく、このよしあしで演奏の雰囲気も
変わってしまうようではあります。
とにかく、また、新しい発見もありで
これでちょっとは現状を打破できるでしょうか。
流派というか、いろいろ枝分かれしているのが不思議だと
思っていましたが、何の演奏でもそういうことはあるのでしょうね。
そして、閉鎖的だったり排他的だったりするのも世の常?なのかも。
もし、一弦琴の真髄、というものを追い求めるならば
そんな小さいことには捉われないはずですが
真髄、なんていうことを考えずとも一弦琴は弾けますし
なんの支障もないのかもしれません。
もうあと、聞いていないのは須磨寺の会と土佐の一弦琴の会
かしら。合奏ではなく、やはり独奏が聞きたいです。
それが一弦琴のよさというか、凄さがわかるのも『独奏』だと思いますから。
それにしても、いろいろな人の演奏を聴くたびに思うのは
うちの先生のような音を出せる人がひとりもいない、ということでした。
聞いて鳥肌が立ち、気持ちがしーんとする、
「一弦琴て、こんな音だったの!」と思われるような音。
苦悩する人のこころの内に響き合い、苦しみを浄化する音。
(調子の悪いときもあるようですが)
また一方、『唄』の存在も大きく、このよしあしで演奏の雰囲気も
変わってしまうようではあります。
とにかく、また、新しい発見もありで
これでちょっとは現状を打破できるでしょうか。