2月10日、英国大手メディア「インデペンデント(The Independent)」は「英国の国民IDカードはデータベース国家に反対する取組みの第一段階で焼け落ちた」と題する記事を掲げた。 (筆者注1)
筆者がその背景を調べた結果は次のとおりである。
英国の内務省の「国民IDおよびパスポート局(Identity & Passport Service:IPS)」は、2006年3月30日に国王の裁可し成立した「国民IDカード法(Identity Cards Bill:chapter-15)」 (筆者注2)の廃止法案である「国民身分証明文書法(Identity Document Act 2010:c 40)」が2010年12月21日に成立し (筆者注3)、IDカード法に基づき登録された英国民の写真や指紋情報を含む個人情報は廃止法成立後2カ月後にあたる2011年2月21日までにすべては破棄されることとなった旨を報じた。英国の歴史上極めて異例な措置である。IPS自体、国民IDカードおよびデータベース化のために改組した機関である。
正確な資料が手元にないこともあるが、IDカード法の廃止が英国における政権交代時の重要なマニフェストの1項目であることは分かる。 (筆者注4) しかし、同法に関する多く問題点は今さら始まったものではない内容が多い。 (筆者注5)
筆者が懸念するのは、わが国政府がまさに本格的に取組み始めている「国民ID制度」の検討が、財政的な負担も含め真に国民や地方自治体の福祉や行政サービスの充実につながるのか改めて問い直すべき良い機会であり、今回のブログで取上げる英国の例は、まさに好材料であるとの考えから急遽まとめたものである。 (筆者注6)
なお、英国のIDカード法廃止に関連して調査している中で、パキスタン政府「国民データベースおよび登録局(National Database & Registration Authority:NADRA)」の「複数生体認証による身分証明カード(Multi-Biometric ID Card)」等の説明を読んだ。
筆者は、その内容はまさに英国政府が目指していたものであると理解した。わが国も含め注目度は低いが、同国が目指す電子政府(自動越境管理システム(Automated Border Control (ABC) system)や電子運転免許管理システム(RFID based Driver’s License)の内容も含め、改めてわが国の国民ID番号の検討上解析すべき重要な情報であると考える。 (筆者注7)
この内容は、機会を改めて本ブログで取上げたい。
1.内務省「IDおよびパスポートサービス局」サイトやインデペンデント記事による法廃止にかかる手続等の説明内容
(1)英国政府は2010年5月26日、「国民身分証明公文書法案(Identity Document Bill)(以下「Bill」)」を上程した。同法案の目的は「国民IDカード」と「国民身分証明登録データ」の廃止である。すなわち「2006年国民IDカード法(2006年法)」の廃止であり、また約15,000人(外国人や空港従業員を含む)の既カード保有者に対する交付手数料の還付はない。
2006年法の規定中で身分証明書に関係しない数少ない規定は、「Bill」でも再規定した。それらの規定は、パスポートや運転免許証の偽造物の所有や作成にかかる犯罪処罰規定である。また、「Bill」はパスポート申請時の個人情報の確認に関する2006年法の情報共有規定も再規定した。
非欧州経済領域(non-EEA)の国民に関する身分証明カード(National ID Card)については「Bill」による影響はない。 (筆者注8)
(2)「国民識別情報登録データベース(National Identity Register)」の完全廃棄処理
「Bill」は2010年12月21日に議会で可決、同月21日に国王の裁可を得て成立した。同法により、国民IDカードは身分証明、年齢やEU内の旅行時の有効な法的文書ではなくなり、また同法施行後2か月以内に2006年法に基づき登録された生体認証情報を含む「国民識別情報登録データベース(National Identity Register:NIR)」の完全廃棄が義務づけられた。
(3)既登録データの完全廃棄処理
発行手数料の還付は行われない。写真や生体認証データを含むNIR(約500台のHD、約100本のバックアップテープに保管)データは、完全に破棄(エセックス工業団地での裁断処理、バーミンガムの工業焼却炉での焼却処理)される。
その最終結果は、内務大臣兼女性・機会均等問題担当大臣(テレイザ・メイ:Theresa May:Home Secretary and Minister for Women & Equalities)により議会で報告される。
(4)本人が保有する既発行カードの扱い
同カードをISPに返還することは不要である。自身で完全に廃棄することを勧める。もし、同カードを引続き保管する場合は安全な場所に保管することを確保すべきである。
2.英国の連立政権の立法戦略の内容
(1)英国メディアの立法解説例
英国の連立与党の新立法の動きはわが国で報じられている以上に活発である。これら立法の最新情報を読み取るには、メディアとしてすでに紹介した「インデペンデント」はまず役に立たないと考えてよい。
では、有用なメディアとはどこであろうか。あえて筆者が推薦するとすれば
”politics.co.uk”である。 その理由は、議会の会期単位での主要法案について簡単なコメントつきで成立、審議中も含め、立法目的、要旨や論争点、審議経緯等が簡潔にまとめられている点である。
その中で筆者が関心を持った現在審議中の法案について簡単に紹介しておく(訳語は立法目的にそって筆者が意訳した)。
①国家予算責任および監査強化法案(Budget Responsibility and National Audit Bill):国家予算につき政治的要素を排除し独立した財政見通しを行う機関を創設することで予算についての信頼性を強化する。
②健康および社会医療強化法案(Health and Social Care Bill):
医療資源を割り当ておよび委託医療ガイダンスを提供する独立した国民健康保険サービス理事会(independent NHS Board)を創設する。理事会は患者に代り委託医療サービスに対する主治医(GPs)の権限を強化させる。また、医療品質委員会の役割を強化する。
③警察改革およびその社会的責任の強化法案(Police Reform and Social Responsibility Bill)
警察の地域社会に対する説明責任を確保し、アルコールに関する暴力行為や反社会的行動に対処すべき各手段を導入する。
④国家からの市民的自由の回復法案(Protection of Freedoms Bill)
私生活に対する国家の侵入から常識的な市民的自由を回復させる。同法案は、すでに成立した前記「Identity Document Bill」と密接に関係するものであり、法案のポイントを一部紹介する。
(1)犯罪証拠の保管と破壊に関する規定を定める。
・未成年者による犯罪で、無罪判決や免罪となった場合の指紋情報およびDNA情報の完全な破棄する。また重大犯罪(serious offence) (筆者注9)で起訴されたが有罪判決が下されなかった場合は指紋情報とDNA情報は3年間(2年間の延長措置あり)保存される。
・学校や大学が、18歳未満の子供の生体認証情報を登録する場合は、事前に親の同意を得ること。
・警察や自治体によるCCTV、自動ナンバープレート認識システム(ANPR)およびその他の監視カメラの運用に関するより具体的規定化を行う。国務大臣に対し、監視カメラに運用に関する実務綱領(code of practice)の公開を義務づけまたその運用をモニタリングすべく監視カメラ委員の任命を命じる。
・以下の3つの秘密裡に行う捜査技術の使用前に地方機関は司法機関による承認を得るよう「2000年捜査権限規制法(Regulation of Investigatory Powers Act 2000(c.23)」 (筆者10)を改正する。
*通話内容(電話料金等)の取得や開示
*命じられた監視方法(公共の場でのひそかな監視等)の使用
*私服警官による監視等秘密裡の人的諜報活動の使用
( 2)以下は省略する)
⑤年金制度改革法案(Pensions Bill)
この法案の原型は「2007年年金法案」である。2012年までに事業主に対し資格を有する従業員を自動的に適格年金制度に取り込む義務を課す。現在の英国の公的年金の受給開始年齢が男65歳、女60歳であるが、2018年12月までに女性の開始年齢を段階的に65歳まで引上げる。その上で男女とも66歳への引き上げの線表を改正する。2024年から2026年の間に実施する引き上げについては2020年までに施行予定の年金法案に盛り込む。 (筆者注11)
⑥郵便事業の民営・自由化法案(Postal Services Bill)
国営の英国郵便事業「Royal Mail」がかかえる年金赤字を政府に振り向け、また多くの論争を呼んでいる制限をつけない株式の販売を認めるべく規則を改正する。
3.英国議会の法案審議追跡ウェブサイトの具体的な活用方法
同サイトについては、本ブログでも以前に簡単に紹介したことがある。また、国立国会図書館「レファレンス」が2009年4月号 (筆者注12)で英国議会のウェブサイトの最新情報を紹介している。しかしその後の改良点も含め、同サイトは多くの点でわが国としても参考となる面が多い。
わが国では詳しく解説したものが少ないので、参考として利用方法を中心に簡単に流れにそって説明しておく。特にわが国でも参考とすべき点は法案画面から各法案審議の最新情報が「メール登録(E-mail Alert)」できることである。
(1)2010―2011年会期の全上程法案の確認
全法案がアルファベット順かつ上院(L)、下院(C)での審議中、ならびに国王の裁可(RA)により法律として成立に分類されている。
(2)本ブログで取上げた“Identity Documents Bill 2010-11”の審議内容について詳しく見てみよう。
①一覧画面
②成立した法律(Identity Documents Act 2010 (c.40))全文 (筆者注13)
③右上“All Bill document”:上院および下院での全修正データ
④左“Last Events”Ping Pong (筆者注14):House of Loads(2011年2月21日):下院の修正案に関する上院での最終審議、採択の内容が時間を追って確認できる。
⑤左“Royal Assent”(2011年2月21日国王の裁可)
⑥左“All previous stages of the Bill”:上院、下院での日別の法案審議の概要が確認できる。
⑦“Latest news on the Bill”最新情報
⑧“Summary of the Bill”法案要旨の説明
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(筆者注1)「インデペンデント」の「IDカード廃止」の記事情報は筆者が毎日目を通している同紙からの直接情報ではなく、筆者がそのディスカッション・メンバーとなっているオーストラリアのプライバシー擁護NPOグループ(Electronic Frontiers Australia Inc.:EFA)からのメールであった。
(筆者注2) 2006年4月1日付の筆者のブログで紹介したとおり、「Identity Cards Bill」は英国議会の審議、成立にいたる時点で与野党や関係者間で多くの論議があった法律である。
(筆者注3) 今回のブログの内容とは直接関係がないが、英国議会の法案の正確なトラッキング・サイトの最新情報について本ブログ(筆者注4)で英国やフランスの議会審議法案のトラッキング方法について紹介している。従来から英国の議会の法案審議のトラッキングは時間と手間がかかる膨大な作業負担があったのであるが、大幅な改善によりその平易さは世界のトップレベルといえる。
例えば、「Identity Documents Bill 2010-11」の例で見てみて欲しい。略字ロゴと色分けで法案審議のステップが読みやすく作られている。下院(House of Commons)、上院(House of Lords)のそれぞれ第一読会から第三読会、修正案審議、採決、国王裁可の過程が一覧で確認できる。さらに法案修正の全過程の確認も容易である。
(筆者注4) 「インデペンデント」や「zdnet」等英国のメディア記事を読む限り、国民IDカードや登録制度の廃止による英国全体の経費節減効果の正確な規模は明確ではない。内務省が2010年5月には廃止法案を上程した際に引用した調査機関の報告書(2009年Kable)は廃止した場合、10年以上にわたり49億5,000万ポンドかかる関係費用が30億8,000万ポンドに削減できると試算している。
また、自由民主党の選挙マニフェストでは、生体認証パスポートの廃止による節減効果は2010-2015予算年度で計18億3,000万ポンド(約2,490億円)(うちIDカード廃止によるものが5.5億ポンド(約748億円))と述べている。
一方、IPSの最高責任者(Chief Executive)であるジェームズ・ホール(James Hall:2010年7月に退任済)は2010年5月時点において政府は生体認証パスポートシステムの導入につきすでに2億5,700万ポンド(約349億5,200万円)を費やしており、同手続の終了に伴う費用が約1億ポンド(約136億円)、さらに数百万ポンド規模のベンダー民間企業4社との契約があると説明している。その4社中1社は契約を取り消し、2社は規模を縮小し、残り1社についてはパスポートの製造に関するものなので影響はないとしている。しかし、英国メディアは2009年5月18日にイングランドで稼動した18歳以下の全児童のデータベース(ContactPoint children’s database:子ども・学校・家庭省と地方自治体の責任のもとに管理されているデータベースシステム)に保存された情報は、何千人もの政府や民間機関の職員が利用することが可能であり、その利用範囲は、教育、社会福祉、青少年犯罪にわたることとなるため、連立政府の出方が不明瞭な状態が続いている。同システムは2.24億ポンド(約305億円)かけたもので稼動開始が大幅に遅れたことやプライバシー問題の指摘がなされている。
(筆者注5) 2006年3月30日付けの「Computer World(日本語版)」が簡潔に問題点をまとめているので以下引用する。
「プライバシーに関する懸念が指摘されるなか、英国議会上院はこれまで、国民IDカード法案に数回にわたって修正を加え、当初から全国民にIDカード取得を義務づけるとする政府の意向に抵抗し続けた。トニー・ブレア首相のスポークスマンは、「任意取得の期限を設けたのは賢明な妥協策だ」と語っている。
ただし、国民IDカード・システムの構成要素として運用される「National Identity Register」と呼ばれる国民識別情報登録データベースには、2010年1月1日以前にパスポートを申請した人のバイオメトリクス情報も登録される。また、2010年1月1日以降は、身元証明書類の申請者すべてに国民IDカードの取得が義務づけられることになるという。
同法案はこのあと、法律化の最終段階として、女王から認可を得るための手続きへと送られる。
英国内務省は、2008年までに国民IDカードの発行を開始したい考えだ。同カード取得の義務づけに対して多くの反対の声が上がったが、英国政府は、国民IDカードは国の安全の強化、各種手当の不正受給の減少、入国管理の強化に役立つと説明している。
英国は現在、パスポート所持者の顔立ちのスキャン・データを埋め込んだ「eパスポート」の発行を段階的に進めているが、国民IDカードには、指紋や虹彩パターンなどのバイオメトリクス情報も登録される予定となっている。
英国政府は、このバイオメトリクス技術を使用した国民識別プログラムにかかる経費は年間約5億8,400万ポンド(10億ドル)と概算している。詳しい計算は今後の調達プロセスへの影響を避けて公表していないが、National Identity Registerの構築とIDカードの製造に費用がかさむため、10年有効のIDカードの発行コストは1枚当たり30ポンド、新パスポートは1通当たり63ドルになる見通しとしている。
だが、ロンドン大学経済学部(LSE)は、国民識別プログラムのコストは政府が示した数字の倍はかかるかもしれないと指摘している。」
(筆者注6) 英国においても国民ID番号情報は他の社会保障制度のキー情報となっている。例えば、歳入関税庁(HM Revenue & Customs)が所管する「国民保険制度」の保険番号については、英国に住んでいたり両親や保護者が児童手当を受けている場合は、満16歳になる前に自動的に「国民保険番号」を受け取る。ただし、次のような一定の場合は、国民保険番号をもって申請すべきときがある。
①就職したり自営業を始めるとき、②奨学金の申し込み
この面接を含む申請時には身分証明証拠書類の立証(Evidence of identity)が義務づけられている。「有効なパスポート」、「国民IDカード(national identity card)」、生体認証情報を含む移民居住許可文書を含む「在住許可証(residence permit)」または「在住許可カード(residence card)」、完全な出生証明書や男女間関係証明(adoption certificate)、運転免許証が必要となる。
(筆者注7) パキスタン政府の“Multi –Biometric ID Card”についての説明、英国在住・在勤パキスタン人向けの国民IDカード申請手続きの説明(フローチャート)等が参照可である。
(筆者注8) 英国内務省やパキスタン政府NADRAの解説等に見るとおり、非EEA国の国民に対する生体認証データに基づくIDカード制度は残る。英国民と非EEA国民とによる差別問題は残るといえる。
(筆者注9) “serious offence”とは、「2007年重大犯罪法(Serious Crime Act 2007)および同附則第1部」にもとづき定めた「重大犯罪阻止命令(Serious Crime Prevention Orders)」第9(Serious Offence)に明記されている。
この犯罪区分は、裁判管轄(高等法院(High Court)および刑事法院(Crown Court))とからむのであり、同法第2条(2)項にもとづき附則(Schedules)第1部が根拠規定である。具体的には以下の犯罪行為である。
麻薬取引(Drug trafficking)、人身売買取引(People trafficking)、兵器取引(Arms trafficking)、売春および子供に対する性犯罪(Prostitution and Child sex)、武装強盗(Armed robbery etc.)、マネー・ローンダリング(Money laundering)、詐欺(Fraud)、公的収入にかかる犯罪(Offence in relation to public revenue)、汚職(Corruption)および贈収賄(bribery)、偽造(Counterfeiting)、恐喝(Blackmail)、知的財産権侵害(Intellectual property)、環境破壊(Environment)。
(筆者10) 「2000年捜査権限規制法(Regulation of Investigatory Powers Act 2000(c.23)」の問題点の一部は、わが国のブログ でも紹介されている。
(筆者注11) 英国では毎年のように年金制度改革法案が上程されており、また政権交代などでさらに改定が行われている。データは古くなっているが英国の基本的な年金制度の内容を理解する上でわが国で参考となりうるのは、厚生労働省「世界の厚生労働2009」(137頁以下)、みずほ総研論集2008年Ⅰ号「年金支給開始年齢の更なる引上げ~67歳支給開始の検討とその条件~」等である。
(筆者注12) 武田美智代「議会の情報発信と情報通信技術(ICT)―国際的動向と英国の事例を中心に―」
(筆者注13) 英国の立法過程を正確に理解する上でもう1点重要な留意事項がある。同法を例にいうと議会事務局が管理する法案審議中の法案名は「Identity Documents Bill 2010-11」である。しかし、法律としていったん成立するとその管理は政府機関でかつ法務省の執行部門である「国立公文書館(The National Archives)」が管理するウェブサイト“legislation .gov.uk”に移る。以降の法改正等に関する情報は同サイトで管理されるのである。さらに正式の法律名は「Identity Document Act 2010(2010 Chapter 40)」となる。全文はそこで確認することになる。
(筆者注14) “Ping Pong”とは上院、下院間で行われる法案修正を巡る審議内容を指す。専門サイトがある。
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