寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

思い出話「エアロフロート機に乗って13/13」(20140902)

2014年09月02日 18時15分02秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日でパリを去ることになる。少しはお土産を買おうと思ってルーブル美術館の周りを取り囲むようにある城壁の下に行ってみた。女子学生には昨年作のバッグを買った。男子学生にはフランス語で書かれた専門書を買った。  

 妻のためにランバンの本店へ行き今秋の新作バッグを買った。娘には化粧品店で口紅のセットを買った(買い方でミッテンバルドのバイオリン店を思い出してしまった)。

 クラリネット奏者の彼と最後の食事を高級ホテルのレストランで食べた。彼が帰国してリサイタルを開くときには知らせてくれるようにお願いしてお別れした。

 ドゴール空港にはパリ北駅から列車で行った。空港についてチェックインして荷物を預け、免税店を見て回った。そこでまた変な光景を見てしまった。日本人商社マンのような若者が酒店の棚においてある高級酒を全部買っていた。店員は他のお客も買いたいだろうから少し残して欲しいと言ったが、誰に売るのも同じでしょうと言って全部持って行った。店員は私の方を見て肩を持ち上げてしようが無いという顔をしていた。ドゴール空港は大きな空港でうっかりすると迷子になってしまいそうであった。飛行中のことは別の記事に書いたので省略した。エアロフロート機は何事もなく羽田へ到着した。

  この時代のエアロフロート機は機密性が悪いものもあり、往路に乗った飛行機は時々耳がキーンと鳴って痛くなることがあった。また往路の機内食は日本で調製したもののようで普通であったが、帰路の機内食はひどいものであった。ホテルの食事と同じようなものであった。

 ある人が、ソ連邦の国民があのような生活を強いられていて不満を言わないのは不思議だといった。それは外国も自分たちと同じようなものだと思っていたからだろうといった。井の中に閉じ込められていたことにも気がつかなかったのかもしれない。一般人の外国旅行を禁じていたのかあるいは経済的に外国へ行けなかったのかという。あるいはまた、政策で外国旅行を制限していたのかもしれないという。

 当時のソ連邦は外貨獲得に躍起となっていた時代だったらしく各国のコインも使えて良かった。スチュワーデスは各国の通貨の換算が出来たのかどうか知らないが私には割安の品物を購入できたような気がする。

 またこのとき通過しあるいは滞在した国々の町中の風景は、現在ネットに掲載されているストリートビューとはかなり変わっていたことがわかる。それがまあ進歩と言うものだろうか。

 家について娘に口紅セットを渡すと驚きそして満面笑顔になった。

 免税品は店で引いてくれるのではなく、税金を徴収し後から還付送金されてきた。あの小さな店でもきちっと還付してきたのに少し意外な感じがした。こうしてエアロフロート機に乗った1ヶ月間のヨーロッパ旅行は無事終わった。翌日から学位論文の執筆に入った。

 


思い出話「エアロフロート機に乗って12」(20140902)

2014年09月02日 10時25分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ミッテンバルドから電車に乗って南下し始めた。電車は山間を東側の斜面を削り取って作られた一車線の線路をゆっくり進んでいた。1時間ほど経過した頃、進行方向が東に変わった。少し広くなった谷間を進むうちに川に沿って家々が見えてきた。しばらくすると車内放送で左側斜面の上に冬季オリンピックや世界選手権で使用したスキーのジャンプ台が見えると言った。窓の外を見たが見つからなかった。近くにいた人がもっと上の方を見てごらんというので見上げると明らかに人工の斜面が見えた。あんな急勾配のところを滑って飛ぶのかと思うとなんだか身体が震えてきた。

 やがて電車はインスブルックの駅構内に入って停まった。外へ出ると今日も良い天気に恵まれていた。早速予約したホテルへ行ってチェックインをして、荷物をフロントへ預けて市内へ出かけた。町中の商店街は人で溢れていた。インスブルックは著名な観光地であることを思い出した。それは冬だけでなくこの季節でも同じだった。K氏はチロルハットを買いたいと帽子店を探すことになった。K氏はいろいろ帽子を被ってみてはどれにしようかと迷っていた。私はK氏の姿が絵描きさんの格好に近づくと良いなと思った。

 夕食時にホテルのレストランに行くと、オリエント系の美女がしきりに私たちの方を見ていることに気がついた。K氏は客を釣る商売の女性だと言い、無視した方が良いというので私も見ないようにした。

 翌朝レストランへ行くと昨夜の女性がいて朝食をご一緒してよろしいですかと丁寧な日本語で言った。どうぞといって話をしながら食事をした。話している内に私は、彼女の話し方に少し関西弁が混じっていると思い、出身地を聞いた。彼女は京都の出身で京都大学で文化交流について勉強して、今アルプス周辺国の比較文化を調べていると言うことだった。その日は彼女の案内でジャンプ台や名所を見て回ることにした。

 ジャンプ台の上に立つと遙か下の方にインスブルックの町が見える。こんなところを走り降りるジャンプ競技というのは相当な勇気がいるなと思った。そのあと市内の名所を巡って歩いた。インスブルックは小さな町でやたらとホテルの多いところだと思った。

 夕食にどこか美味しいところを紹介してほしいというと20時に待ち合わせることになった。K氏は疲れたと言い行かないと電話してきた。結局二人で食事をすることになった。料理はチロル地方の家庭料理と言うことだったが、どこで何を食べても日本料理が一番美味しいと思った。彼女は来月には日本へ帰るというので機会があったらまた会いましょうと言って別れた。

 翌日、K氏はウィーンへ私はパリへ行くためにインスブルックの駅へ行った。K氏は駅のスナック店で軽く食事をしようと言い、メニューを見て注文した。K氏はここでもも別々の食事を頼み半分ずつ分けて食べようと言ったが、私は少し恥ずかしかったので断った。が、食事が出てくると直ぐに半分にして私の皿へ入れた。仕方ないので私も半分を分けてK氏の皿に移した。これを見ていた店主が微妙な笑い方をしてウインクしたものだ。あれはどういう意味を含んでいたのだろうか。

 明日、最終目的地パリへ行く。