今日でパリを去ることになる。少しはお土産を買おうと思ってルーブル美術館の周りを取り囲むようにある城壁の下に行ってみた。女子学生には昨年作のバッグを買った。男子学生にはフランス語で書かれた専門書を買った。
妻のためにランバンの本店へ行き今秋の新作バッグを買った。娘には化粧品店で口紅のセットを買った(買い方でミッテンバルドのバイオリン店を思い出してしまった)。
クラリネット奏者の彼と最後の食事を高級ホテルのレストランで食べた。彼が帰国してリサイタルを開くときには知らせてくれるようにお願いしてお別れした。
ドゴール空港にはパリ北駅から列車で行った。空港についてチェックインして荷物を預け、免税店を見て回った。そこでまた変な光景を見てしまった。日本人商社マンのような若者が酒店の棚においてある高級酒を全部買っていた。店員は他のお客も買いたいだろうから少し残して欲しいと言ったが、誰に売るのも同じでしょうと言って全部持って行った。店員は私の方を見て肩を持ち上げてしようが無いという顔をしていた。ドゴール空港は大きな空港でうっかりすると迷子になってしまいそうであった。飛行中のことは別の記事に書いたので省略した。エアロフロート機は何事もなく羽田へ到着した。
この時代のエアロフロート機は機密性が悪いものもあり、往路に乗った飛行機は時々耳がキーンと鳴って痛くなることがあった。また往路の機内食は日本で調製したもののようで普通であったが、帰路の機内食はひどいものであった。ホテルの食事と同じようなものであった。
ある人が、ソ連邦の国民があのような生活を強いられていて不満を言わないのは不思議だといった。それは外国も自分たちと同じようなものだと思っていたからだろうといった。井の中に閉じ込められていたことにも気がつかなかったのかもしれない。一般人の外国旅行を禁じていたのかあるいは経済的に外国へ行けなかったのかという。あるいはまた、政策で外国旅行を制限していたのかもしれないという。
当時のソ連邦は外貨獲得に躍起となっていた時代だったらしく各国のコインも使えて良かった。スチュワーデスは各国の通貨の換算が出来たのかどうか知らないが私には割安の品物を購入できたような気がする。
またこのとき通過しあるいは滞在した国々の町中の風景は、現在ネットに掲載されているストリートビューとはかなり変わっていたことがわかる。それがまあ進歩と言うものだろうか。
家について娘に口紅セットを渡すと驚きそして満面笑顔になった。
免税品は店で引いてくれるのではなく、税金を徴収し後から還付送金されてきた。あの小さな店でもきちっと還付してきたのに少し意外な感じがした。こうしてエアロフロート機に乗った1ヶ月間のヨーロッパ旅行は無事終わった。翌日から学位論文の執筆に入った。