寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

思い出話「SF小説の世界」(20140911)

2014年09月11日 22時09分59秒 | 日記・エッセイ・コラム

 学生の頃、物理学科の友人がこれは面白いので読んでみないかといって一冊の雑誌を貸してくれた。表紙には「SFマガジン」と書いてあった。何気なく開いた目次の中に「太陽系帝国の最後」(少し違うかもしれない)という小説の題名が目に入った。作者はアーサー C. クラークという人だったと思う。

 あらすじを簡単に書くと太陽が爆発することを知った地球人は地球のすべての資源を総動員して無数の宇宙船を作り動植物も含めてすべての人間をその宇宙船に乗せて地球を離れた。そこへ太陽爆発を予見した宇宙救援隊がやってくる。しかし地球には生物の影を発見できなかった。太陽爆発時に影になるように沢山の送信アンテナが設置されていたのを発見して救援隊の隊長は地球人の知能と科学技術の高さに感心した。太陽爆発ぎりぎりの時刻まで探したがやはり生物を発見できなかった。そこで救援隊は緊急発進して地球の影に入るコースで脱出した。しばらくすると宇宙空間には存在しえない雲のような影が見えてきた。近づくにしたがって雲のようなものは無数の宇宙船であることが判明した。救援隊長はその光景を見て彼らは宇宙で将来やっかいな存在になるかもしれないと副長にささやいた。という短編であった。私はこの小説を読んだとき作家という人たちの想像力の豊かさに驚いた。チョットした情報を大きく膨らませて一つのストーリーを構成する。その頃の題材には遺伝子による人間選択やコンピュータの自立そして人間支配、更に進んでコンピュータからの人間解放など最新の科学・技術の話題が取り入れられていた。

 私も「緑の星」という長編SF小説を書いたことがある。これは大学のSFクラブの同人誌に掲載された。その頃の私はテレパシーやテレキネス、テレポーテーションなどに興味を持っており植物との交信を題材にしたものであった。現在書いているSF小説は新彗星発見、彗星の迷走、太陽との衝突そしてその影響による災害そして復活という構成である。原稿の文字数制限があるので説明文章になってしまうがテーマとしては面白いと自負している。あと2週間ほどで完成する予定である。11月にはこのブログに公開できると考えている。今、依頼の小説は短編だけにしているが後2編くらいは長編を書いてみたいと思っている。時間があれば?


囲碁の話「笑人即笑自(人を笑うものは自分も笑われる)」(20140910)

2014年09月10日 10時13分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

 人を笑いものにして自分の価値を上げようとする人がいる。しかし自分自信も完全ではないので笑いの対象になることがある。少し違った言葉で言い換えると「人を呪わば穴二つ」という格言になる。あるいは「人の振り見て我が振り直せ」ということにも通じる。

 先日町の囲碁クラブの大会があった。対戦相手の組み合わせは乱数を使ってコンピューターのソフトウェアで決めている。そこでの話である。

 さて、H氏は初戦にM氏に勝った。日頃からM氏を強そうなことを言っているがそれ程でもない等と噂の種にしているH氏は勝って当然と思っていた。2戦目にM氏は日頃から苦手にしているS氏と対戦してまた負けてしまった。H氏はそれを確かめて蔑みの意を込めて「やはりね」といって納得した。M氏は3戦目も負けて今日は大サービスデーだと全敗を覚悟した。しかし最終の4戦目にこれまで一度も勝ったことがない格上のMM氏に接戦の末、相手をミスに誘い大石を手筋で取り切って勝利した(昨日の記事参照)。結局その日は1勝3敗の成績に終わってしまった。そこでM氏を蔑んだ言い方をしていたH氏の成績を見たらM氏と同率の1勝3敗であった。もう1勝してM氏を上回っていればM氏を弱いと言うことも出来るが、自分も同率ではH氏自身が恥をかいたことになる。ちなみにH氏は下手の方に「そんな打ち方をしているから強くなれないのですよ」などと言っているのを聞いたことがある。しかし自分もそれ程強くないことを実証してしまった。つまりそれで自分の墓穴を掘ってしまったことになる。H氏は自分より格上のM氏が羨ましくて気になって仕方が無かったのかもしれない。それならば自分の格を上げれば良いことではないか。上記2つ目の格言になるのである。

 この話を聞いて私は故人となった父が生前言ったことを思いだした。「他人のことを羨ましがる前に自分で努力しろ」、「人より劣ると思ったらその人の2倍努力しろ」、「人を笑う前に人に笑われない人間になれ」、「僻み根性を持つな、僻めば自分を見失ってしまう」等々、過酷な言葉であるがその通りだと思う。明治時代中期に生を受け、小学校初等科しか卒業していない父は大量の本を読むことによって自分の精神を鍛えていった。私はそんな父を今でも尊敬している。


囲碁の話「手筋を使うと効果がある」(20140909)

2014年09月09日 23時07分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 囲碁を打っているとあの人にはなぜか勝てないと言うことがある。しかしその人に勝ったときの快感は何とも言えない。昨日町囲碁クラブの囲碁大会があった。結果は1勝3敗で終了した。その1勝の相手がこれまで一度も勝てない苦手な方だった。終局に近づいたとき、私は少し勝っているかなと思っていたが相手は10目以上自分の方が良いと思っていたらしい。下の図に示す場面になった(周辺は少し省略してある)。終盤追い落としで5子をとる手を打った私の石を取って接いでしまえば勝ちだと考えたようだ。しかし私は目を取りに行ったのでコウ残りもあり追い落としにはならないと考えていた。つまりそこには目が出来ないと考えていた。そこで私は隅のイタチの腹付けで生きないように封じてしまった。というわけですみの13子を取ってしまい勝利を確定した。下の図は事件発生前の図です。

Img413 黑先:初めからイタチの腹付け(2の二)をやっていたらコウになっていただろう。相手の方は勝ちを確信していたので心の隙がでたのかもしれない。黒が打ち欠きに来たとき、白は右隅をのハネツギかサガリでも生きていた。


安倍第2次改造内閣に期待すること(20140908)

2014年09月08日 20時54分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

 安倍第2次改造内閣が発足した。女性が5人入閣したと言うことで支持率が67%にアップしたと新聞が報じた。もちろん女性入閣者が5人になったことは喜ばしいことであるが、女性5人が入閣したことではなくその女性閣僚がどれだけ仕事をしてくれるかに期待したい。女性大臣たちの実力を存分に発揮して欲しいものである。それが支持率を更に上げると考える。

 報道によって政治家の側面が見えてきた。例えば、石破茂前幹事長は前職にとどまりたい意向を持っており、その他のポジションを固辞していたが地方創生大臣に就任した。幹事長にこだわっていた理由は報道によると来年行われる総裁選挙に出馬する意向を持っていたという。その結果次第によっては自らの理想の日本を築いて行こうと考えていたのかもしれない。そして総裁選挙に出馬したい意向のようであった。安倍総理と相容れない理想を持っているならその点を徹底的に議論して欲しかった。人は、あいつとは考え方が違うからついて行けないなどといって陰に回り相手の悪口を言ったり密かに反対したりすることがある。石破氏はそういう性格ではないと信じている。入閣して安倍内閣の一員になったならばその責任を果たしてほしい。

 

 

 


錦織圭選手に期待する(20140908)

2014年09月08日 09時44分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

 錦織圭選手が全米オープンテニスの決勝に進出した。日本人として初めてのことだということで近頃暗いニュースが続いていた日本に明るいニュースを伝えてくれたことを感謝したい。決勝戦でも是非全力を出し切って優勝して欲しい。

 テニス競技は非常に過酷なスポーツであるという。準決勝では気温35℃を越えるコートを4時間以上走り回り、ラケットを振り、その上に試合の駆け引きに頭脳を使う。その体力と精神力は並大抵のものではないだろう。ここまで来たのは錦織選手の尋常では無い努力のたまものだと思う。

 筆者は大学2年(1957年頃)の体育の授業でテニスを囓ったことがある。ラケットで打ったボールが自分の思う方向に飛んでくれないことを悔しかった。ラケットと言えば当時スポーツの道具としては異常に高価であり買うことは出来なかった。それで大学の備品を使わせて貰った。そのときラケットのアミ(ガット)を張る糸は羊の腸で作ると教えられたときには驚いた。今は、ナイロンなどの合成繊維を使用する人が多いと言うがやはりナチュラルガットのほうがいろいろな面で優れているそうである。

 錦織選手にお願いしたい。ゲームでは日頃の努力の成果を出し切って欲しい。しかしさらに充実したテニスを楽しんでもらいたい。日本中の人々が応援している。 


思い出話「エアロフロート機に乗って13/13」(20140902)

2014年09月02日 18時15分02秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日でパリを去ることになる。少しはお土産を買おうと思ってルーブル美術館の周りを取り囲むようにある城壁の下に行ってみた。女子学生には昨年作のバッグを買った。男子学生にはフランス語で書かれた専門書を買った。  

 妻のためにランバンの本店へ行き今秋の新作バッグを買った。娘には化粧品店で口紅のセットを買った(買い方でミッテンバルドのバイオリン店を思い出してしまった)。

 クラリネット奏者の彼と最後の食事を高級ホテルのレストランで食べた。彼が帰国してリサイタルを開くときには知らせてくれるようにお願いしてお別れした。

 ドゴール空港にはパリ北駅から列車で行った。空港についてチェックインして荷物を預け、免税店を見て回った。そこでまた変な光景を見てしまった。日本人商社マンのような若者が酒店の棚においてある高級酒を全部買っていた。店員は他のお客も買いたいだろうから少し残して欲しいと言ったが、誰に売るのも同じでしょうと言って全部持って行った。店員は私の方を見て肩を持ち上げてしようが無いという顔をしていた。ドゴール空港は大きな空港でうっかりすると迷子になってしまいそうであった。飛行中のことは別の記事に書いたので省略した。エアロフロート機は何事もなく羽田へ到着した。

  この時代のエアロフロート機は機密性が悪いものもあり、往路に乗った飛行機は時々耳がキーンと鳴って痛くなることがあった。また往路の機内食は日本で調製したもののようで普通であったが、帰路の機内食はひどいものであった。ホテルの食事と同じようなものであった。

 ある人が、ソ連邦の国民があのような生活を強いられていて不満を言わないのは不思議だといった。それは外国も自分たちと同じようなものだと思っていたからだろうといった。井の中に閉じ込められていたことにも気がつかなかったのかもしれない。一般人の外国旅行を禁じていたのかあるいは経済的に外国へ行けなかったのかという。あるいはまた、政策で外国旅行を制限していたのかもしれないという。

 当時のソ連邦は外貨獲得に躍起となっていた時代だったらしく各国のコインも使えて良かった。スチュワーデスは各国の通貨の換算が出来たのかどうか知らないが私には割安の品物を購入できたような気がする。

 またこのとき通過しあるいは滞在した国々の町中の風景は、現在ネットに掲載されているストリートビューとはかなり変わっていたことがわかる。それがまあ進歩と言うものだろうか。

 家について娘に口紅セットを渡すと驚きそして満面笑顔になった。

 免税品は店で引いてくれるのではなく、税金を徴収し後から還付送金されてきた。あの小さな店でもきちっと還付してきたのに少し意外な感じがした。こうしてエアロフロート機に乗った1ヶ月間のヨーロッパ旅行は無事終わった。翌日から学位論文の執筆に入った。

 


思い出話「エアロフロート機に乗って12」(20140902)

2014年09月02日 10時25分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ミッテンバルドから電車に乗って南下し始めた。電車は山間を東側の斜面を削り取って作られた一車線の線路をゆっくり進んでいた。1時間ほど経過した頃、進行方向が東に変わった。少し広くなった谷間を進むうちに川に沿って家々が見えてきた。しばらくすると車内放送で左側斜面の上に冬季オリンピックや世界選手権で使用したスキーのジャンプ台が見えると言った。窓の外を見たが見つからなかった。近くにいた人がもっと上の方を見てごらんというので見上げると明らかに人工の斜面が見えた。あんな急勾配のところを滑って飛ぶのかと思うとなんだか身体が震えてきた。

 やがて電車はインスブルックの駅構内に入って停まった。外へ出ると今日も良い天気に恵まれていた。早速予約したホテルへ行ってチェックインをして、荷物をフロントへ預けて市内へ出かけた。町中の商店街は人で溢れていた。インスブルックは著名な観光地であることを思い出した。それは冬だけでなくこの季節でも同じだった。K氏はチロルハットを買いたいと帽子店を探すことになった。K氏はいろいろ帽子を被ってみてはどれにしようかと迷っていた。私はK氏の姿が絵描きさんの格好に近づくと良いなと思った。

 夕食時にホテルのレストランに行くと、オリエント系の美女がしきりに私たちの方を見ていることに気がついた。K氏は客を釣る商売の女性だと言い、無視した方が良いというので私も見ないようにした。

 翌朝レストランへ行くと昨夜の女性がいて朝食をご一緒してよろしいですかと丁寧な日本語で言った。どうぞといって話をしながら食事をした。話している内に私は、彼女の話し方に少し関西弁が混じっていると思い、出身地を聞いた。彼女は京都の出身で京都大学で文化交流について勉強して、今アルプス周辺国の比較文化を調べていると言うことだった。その日は彼女の案内でジャンプ台や名所を見て回ることにした。

 ジャンプ台の上に立つと遙か下の方にインスブルックの町が見える。こんなところを走り降りるジャンプ競技というのは相当な勇気がいるなと思った。そのあと市内の名所を巡って歩いた。インスブルックは小さな町でやたらとホテルの多いところだと思った。

 夕食にどこか美味しいところを紹介してほしいというと20時に待ち合わせることになった。K氏は疲れたと言い行かないと電話してきた。結局二人で食事をすることになった。料理はチロル地方の家庭料理と言うことだったが、どこで何を食べても日本料理が一番美味しいと思った。彼女は来月には日本へ帰るというので機会があったらまた会いましょうと言って別れた。

 翌日、K氏はウィーンへ私はパリへ行くためにインスブルックの駅へ行った。K氏は駅のスナック店で軽く食事をしようと言い、メニューを見て注文した。K氏はここでもも別々の食事を頼み半分ずつ分けて食べようと言ったが、私は少し恥ずかしかったので断った。が、食事が出てくると直ぐに半分にして私の皿へ入れた。仕方ないので私も半分を分けてK氏の皿に移した。これを見ていた店主が微妙な笑い方をしてウインクしたものだ。あれはどういう意味を含んでいたのだろうか。

 明日、最終目的地パリへ行く。

 


思い出話「エアロフロト機に乗って11」(20140901)

2014年09月01日 11時56分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

 明日から、ここミュンヘンでオクトーバーフェステバル(ビール祭りが行われる。バイエルン州最大のお祭りだ。が、私はK氏と一緒にインスブルックへ向かう。ミュンヘンからU-バーンに乗ってトンネルの中を走ったが、ウトウトしたと思ったら明るい郊外を走っていた。途中シュタルンベルク湖(周囲約50km)の畔の小さなホテルに泊まった。K氏は絵を画きに出かけた。私は一人でカメラを持って湖へ行った。湖はそれ程大きくない。久しぶりにノンビリした。

 翌日再び電車に乗ってガルミッシュへ向かった。ガルミッシュは小さな都市であった。町並みは古い建物ものと新しい建物が幾分別れて建っていた。落ち着いた町並みを見せていた。3時間ほどを過ごしてミッテンワルドへ向かった。この町は山間にある小さな町で南西方向に大きな岩山があるというのでケーブルカーに乗って出かけた。頂上へ着くと観光客が沢山いた。チョットした町並みを歩くとバイオリンを並べた店があった。中へ入ると「あなたは日本人か」と問われた。そうだというと「チョット聞いてくれ」というので何か特別なことがあったのかと思い聞くことにした。

 話はこうこうである。といって店主が話し出した。最近日本人のバイヤーがやってきた。彼はバイオリンのことを全く知らないようで音も試さずにここに置いてあるものを全部買いたいという。店主にしてみれば全部売れるのは誠に嬉しいことであるが、職人が精魂込めて作った作品を弾いて見もしないで買いたいというのは納得が出来なかった。それでなぜそのような買い方をするのかと問うと、バイヤーは日本人の若いバイオリニストがどこかの国際コンクールで優勝した。その人が入っているバイオリン教室に大勢の入学者が来ると予想されるのでたくさん必要になるからだ、といった。この店ではそういう売り方はしないと断ると、バイヤーは作ってくれればもっともっと買う約束をすると言った。結局店主は折角の話だがと丁重に断ったという。

「日本人は音楽や楽器についてまだあまり深い理解を持っていないようですね。バイオリンに限らず楽器は個々にいろんな特色を持つものだから自分に合ったものを買うように希望したい」

 私は文化程度の低さを思わず詫びてしまった。そう言えばウィーンでもこんな話を聞いたことがあった。日本人の音楽留学生は授業料が無料だという。なぜかというと発展途上国からの留学生に対して音楽をりかいしてほしいので無料にしているという。ヨーロッパ人から見ると残念なことではあるが、経済大国と言っても文化的にはまだ幼児期だと思われているらしい。

 明日はいよいよインスブルックへ入る。何が待っているのだろうか。


思い出話「エアロフロ-ト機に乗って10」(20140901)

2014年09月01日 09時47分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

 学会が始まった。全員が口頭発表するには時間が足りないので70%くらいはパネル展示を利用する。私もその中に入っていた。一日中展示パネルの近くにいて質問者が来るのを待つという方式である。初めての外国での発表なのでかなり緊張していたが、近くにK教授もいたので少し落ち着いた。展示が終わり、まとめを5分ほどで口頭発表することになった。このときまで私は学位を持っていなかった。むしろそんなものは必要ないとも考えていた。それで壇上に上がり司会者がMr. M.と紹介すると会場がざわついた。初め何のことか解らなかったが、後でプロフェッサーでもなくましてDr.でもないのが何を話すのかという意味だと感じた。この時初めて学問・研究の世界では学位が必要なのだと思った。私はとんだ「井の中の蛙」だったのである。(余談になるが、9月末に日本へ帰ってから学位論文をまとめる作業に入り12月に最終公開審査に通った。そして1月の教授会で遅まきながら理学博士の学位を授与された)

 この口頭発表の時にも自分のことはさておいて、恥ずかしいことを見てしまった。日本人のあるM教授が発表した。しかし所定の時間が過ぎても終わらず、会場はわざとらしい咳払いが起こり、司会者が再三注意しに演壇まで足を運んだにもかかわらず4倍ほどの時間を使ってしまった。その間、映写されていた画面を一度も見ないで下を向いて原稿を小さな声で読み続けていた。これで会場の予定が大幅に狂ってしまった。

 K教授は、ペンションに部屋を取っていた。是非寄って行けというのでついて行った。ミュンヘンの町中にもこういうのがあるんだと感心してしまった。K教授はインスタント麺をたくさんもってきていた。ペンションのフロウラインにそれを食べるので熱い水を欲しいと言ったら、バケツにいっぱい持ってきてくれたという。翌日は、ツアーでニンヘンブルグ宮殿へ行った。ここは1675年に完成した宮殿だという。庭は初めイタリア式に造られ、その後フランス式に代えられ現在残っているのはイギリス式庭園に作り替えられたものである。ミュンヘン市の西側にイザール川に沿うようにイギリス庭園があるがここも広々としたところである。

 翌日はナイトツアーがイザール川の中州にあるドイツ博物館で行われた。館内はどこでも飲み物を持って見て回ることが出来、私はメッサーシュミット戦闘機の現物に感動した。第2次大戦終局近く最新式のエンジンを積んだこの戦闘機は数機でドイツの空を守ろうとして活躍した話は有名である。ほかに子供用に作られた化学実験施設は斬新なデザインで作られていた。

 次の日の夜、オペラに招待された。内容はあまり理解できなかったが、初めて見たものでアクターたちの動きと歌に感動した。

 学会4日目夜8時頃からにバンケットが開かれた。ここでもまた驚いたことがあった。会場は大きな声で話をし、よく飲みよく食べる人たちで溢れていた。ここで豚の丸焼きをナイフで切り取ってくれたものを初めて食べた。そして延々午前3時頃まで続いたという。私は12時頃には失礼した。しかし、翌日定時に会場に行くと昨夜のことは嘘のように普通に振る舞っていた。そのタフさというか遊びと仕事のけじめをはっきり付けるところは私に最も深い印象として残った。この旅行の最大の収穫となった。

 学会最後の日が終わり、夜マックスプランク研究所に留学していた日本女子大学の某女性の方が、ホッホブロイハウスに連れて行ってくれるというので日本人数人が同行した。最初の夜に来たときはドイツになれていなかったのでビールを飲んで直ぐに帰ったが、ここはそういうところでないことが解った。

 今思い出したが、理化学研究所の野崎氏が宿を出なければならなくなったといって私の部屋へ来た。私の部屋は家族用で別のベットがありOKした。氏ははっきりした物言いで話が面白かった。

 明日はK教授とドイツを後にしてUバーンで南に向かう。