教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO3
産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将
(3)国家主権の侵害 不法に出入国繰り返した工作員。
警視庁公安部が押収した、西新井事件などで使用された工作機器類。
北朝鮮による日本人拉致事件が頻発した1978年(昭和53)の夏に、時計の針を戻す。
1978年7月7日の七夕の夜、福井県小浜市の海岸で、
地村保志さんと浜本富貴恵さんが北朝鮮工作員、
辛光洙容疑者と、特殊訓練を受けた「戦闘員」と呼ばれる工作員3人に拉致された。
その24日後の7月31日夜、同じく日本海側の新潟県柏崎市の海岸から、
帰省中だった中央大学法学部3年の蓮池薫さんと、
当時交際していた奥土祐木子さんも北朝鮮工作員らに連れ去られた。
真夏ゆえに日は長かったが、午後7時半ごろになると、さすがに夕闇が迫る。
人けのない海岸に腰を下ろした2人の背後から4人組の男が近づいてきた。
1人は40代、残りの3人はいずれも体格の良い20代にみえた。
年長の男が話しかけてきた。
「たばこの火を貸してくれないか」
蓮池さんが火を差し出そうとした瞬間、
後方から体格の良い3人組に羽交いじめにされ、拘束された。
その後、祐木子さんも拘束され、2人は船に乗せられ北朝鮮に拉致された。
手口は、地村さん事件と酷似していた。
拉致実行犯部隊は、指揮役の日本語ができる工作員と、
腕っぷしが強い「戦闘員」3人で構成。
蓮池さん事件を指揮した工作員も、地村さん事件の辛容疑者のように、
日本に密入国を繰り返していた大物工作員だった。
あえて「大物」と付言したのは、
警視庁公安部などの公安当局が後に血眼になって行方を追うことになったからだ。
その男は、戦後屈指の北朝鮮スパイ事件の容疑者でもあった。
◆ 頓挫した背乗り
昭和45年夏、大物工作員は秋田県の男鹿半島から秘密裏に入国した。
おそらくは、工作船を乗り継ぎ、最後はゴムボートで接岸したのだろう。
「松田忠雄」を名乗り、東京都足立区のゴム製造会社に就職した。
日本人の身分がすでに用意されていたことをみれば、
国内に協力者がいたことは間違いない。
「松田」は未亡人の同僚女性に近づき、
彼女の連れ子とともに一つ屋根の下で暮らすようになった。
工場の作業員にカムフラージュした北の工作員は大阪に赴き、裏の顔をあらわにする。
あらかじめ目をつけていた在日朝鮮人の男を訪ね、切り出した。
「北朝鮮にいる家族を知っている。
協力してほしい」。有無を言わさず、男を配下に置いた。
工作船に乗せ、北朝鮮に送り込み、
補助工作員としての技能を習得させ、日本に再上陸させたのだ。
このころ、「松田」は名前を変える。
日雇い労働者らが集う東京・
山谷の街で路上に倒れていた福島県出身の小熊和也さん(34)に近づき、
入院させた上で、自らが「小熊和也」を名乗るようになった。
戸籍抄本も入手し、旅券と運転免許証を取得。
日本人の身分を合法的に獲得したわけだ。
ところが、〝本物〟が日本にいると、不都合が生じる。
〝偽物〟は配下の補助工作員に命じた。
「小熊を共和国に送れ」。
日本人拉致の目的の一つに、
「身分の盗用」があるが、拉致の〝源流〟がここにあった。
実在の日本人に成りすますスパイ行為は「背乗り」と呼ばれるが、
入院していた小熊さんの容体が悪化し死亡したことで、背乗りは頓挫した。
病院から死亡届が出されたからだ。
「小熊和也」として非合法活動することができなくなった
大物工作員は昭和51年ごろ、北へ戻っていった。
チェ・スンチョル容疑者が小住健蔵さんに成りすまし
取得した運転免許証(警察庁刊行「焦点」)から。
◆ 各国9回の渡航。
チェ・スンチョル容疑者(自称1932年生まれ)。
両親は朝鮮半島出身で、本人は大阪生まれ。
父親は幼いころ事故死し、母子家庭で育った。
先の大戦中は、小牧飛行場(愛知県)で整備担当に従事した。
終戦と同時に現在の韓国慶尚道に渡り、農家の手伝いをしていたが、
朝鮮戦争勃発(1950年)とともに北朝鮮の義勇軍に入隊する。
休戦後は北朝鮮で炭鉱労働者として働いたが、
日本語能力を買われ、工作員に選抜されたという。
工作員としての評価も高く、
「日本で初めて合法身分を獲得した工作員」と称賛されていた、との証言もある。
風貌は身長約170センチ、髪は七三分けに整えられ、
四角い顔に金縁のめがねをかけていた。
地村さん夫妻や、大阪の中華料理店員、原敕晁さん(43)の拉致を主導した辛容疑者と、
生い立ちや経歴、身なりが重なる。
日本語が堪能で、日本で暮らしていても違和感がない。
表面上はある意味、目立たない人物だった。
「小熊和也」としての身分を浄化したチェ容疑者は再び日本に密入国し、
昭和53年7月に、蓮池さん夫妻を拉致し、北朝鮮に連れ去った。
そして、翌昭和54年に、また日本で別の背乗り事件に関与していった。
北朝鮮工作員らは当時、いとも簡単に、不法に、出入国を繰り返していた。
日本人拉致はそうした文脈の中で起きたのだ。
水際の警備、国内の防諜捜査はかいくぐられ、わが国の主権は侵害された。
チェ容疑者は昭和36年以降、
行方不明扱いになっていた北海道出身の小住健蔵さん(51)の戸籍抄本を入手し、
小熊さんの時と同じように旅券と運転免許証を取得した。
公安当局によれば、小熊さん、小住さんに背乗りしたチェ容疑者は
北朝鮮の工作機関、対外調査部の極東地域幹部として、
フランス、ソ連、タイ、香港、韓国などに延べ9回にわたって渡航。
①北朝鮮やその海外拠点との連絡。
②在日韓国人の取り込みや韓国への送り込み。
③在日スパイ網の構築。
④日本の防衛力、極東外交などの情報収集。
⑤米軍基地に関する情報収集―などの工作活動を展開していた。
小住さんの消息は不明のままで、拉致されたのか、
亡くなったのかも含め、真相は藪の中だ。
チェ容疑者の2つの背乗り事件は、
容疑者の住んでいた地名にちなみ「西新井事件」といわれている。
補助工作員とは、チェ容疑者や辛容疑者がスパイ活動をするにあたって、
補助工作員の存在は重要だった。活動拠点や協力者の確保は欠かせない。
小住健蔵(51)として、チェ容疑者が暗躍していたころ、
東京都内のアパートを借りる際に保証人になったのは、
「宮本明」こと「李京雨(イ・ギョンウ)」という在日工作員だった。
この男もまた昭和53年に起きた日本人拉致事件に
関与していたことが公安当局の調べで分かっている。
1987年11月(昭和62年11月)に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯、
金賢姫元工作員に日本人化教育をさせられた田口八重子さん(22)に近づき、
誘い出し、工作員らに引き渡したとみられている。
爆破事件のもう一人の実行犯、金勝一工作員(事件直後に服毒自殺)が使用した
「蜂谷真一」名義の偽造旅券の入手にも強く関与していた。
工作員と「戦闘員」、補助工作員らの非公然ネットワークが
蜘蛛の巣状に張り巡らされていた実態が浮かぶ。
日本社会はそうしたことを知る由もなかった。
警視庁公安部が昭和60年3月、西新井事件の摘発に踏み切った際、
チェ容疑者と「李京雨」はすでに行方をくらましていた。
チェ容疑者が配下に置いた大阪の補助工作員を逮捕し、
非公然活動に使用していた機器類などを押収するだけにとどまった。
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