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教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO4

2022年10月03日 | #日本政府と拉致問題

教科書が教えない 北朝鮮:拉致問題 NO4

(4)女工作員が主導 被害者リストになかった曽我さん

産経新聞:編集局次長・社会部長 中村将

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2002年(平成14年)9月17日夜、日朝首脳会談を終えた北朝鮮・平壌で、

政府関係者のブリーフィング(状況説明)が始まった。


「生存しているのは蓮池薫さん、奥土祐木子さん、地村保志さん、浜本富貴恵さん、

それにこちら(日本)から所在確認を依頼していない方1人…」

記者らは慌てふためいた。

 

日本政府が認定する拉致被害者リストに入っていない人物が含まれていたからだ。

その被害者が新潟県真野町(現・佐渡市)出身の曽我ひとみさんだ

と確認するまでに2、3日はかかったと記憶している。

 

 

佐渡島で暮らしていた当時19歳だった曽我さんと、

母、ミヨシさん(46)は1978年(昭和53年)8月12日夜、

自宅近くの商店に買い物に出かけ、その帰りに失踪した。

 

北朝鮮側から拉致の事実を知らされるまで、

誰も北朝鮮の犯行と気づくことはできなかった。

 

海上警備は突破され、地域の治安も守られなかった。

失踪から時間がたつにつれて薄れる社会の関心。

北朝鮮が悪いことに疑いはないが、

長きにわたり抑留され続けた曽我さんを思うと、

申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

ミヨシさんの消息はいまだに不明だ。

 


最初の声と同じ

曽我さんらが拉致された昭和53年夏は、各地で日本人拉致が頻発していた。

 

午後7時過ぎ、自宅から約500メートルのところにある商店に、

母子は夕飯のおかずを買いに歩いて出かけた。

 

店にいた時間は約10分。来た道と同じ道を戻った。

道路側に曽我さんが、海側にミヨシさんが、並んで歩いていた。


辺りは暗く、車通りも少なかった。

背後が気になり振り向くと、男3人が横一列にくっつくようにして歩いていた。


20~30メートル後方だっただろうか。

不気味に感じ足早に歩き始めようとした瞬間、背後から口をふさがれ、

道路わきの民家の敷地に引きずり込まれた。

曽我さんはこの時、ミヨシさんも同じように襲われたのを見た、と証言している。

 

その後、手ぬぐいのようなものを口に詰められ、手足はひもで縛られた。

大きな麻袋のようなものに足の方から入れられ、頭の上で縛られ、袋詰めにされた。

手口は蓮池さん夫妻や地村さん夫妻の拉致事件と共通する。

特殊訓練を受けた「戦闘員」と呼ばれる北朝鮮工作員たちの仕業だ。

 

通常はゴムボートに乗せられ、工作子船、工作母船と海上で乗り継ぎ、

北朝鮮に連れ去られるが、曽我さんが運び込まれたのはゴムボートではなく、木造船。

 

船床に置かれた感覚が「板張り」だったという。

その際、「女性の小さな声」を聞いた。低い穏やかな口調。

何を言っているかは聞き取れなかったが、たどたどしい日本語だった。

ミヨシさんの声ではない。

 


犯人側の女が日本語で話していたということは、

日本語を理解できる人物がその場にいたことになる。

戦闘員らと話すのに日本語は使わないだろう。

ミヨシさんに、何かを語りかけていた可能性がある。

 

船が動き始めた。エンジンの音は聞こえない。

波の音も聞こえない。川を下り、海に向かっていた。

 

しばらくすると、沖でエンジン音がする船に袋詰めのまま移された。

ようやく袋から出され、手足の拘束や口をふさいでいたものがはずされた。


船内の小部屋で目にしたのは、作業着風の服装の中年女の姿だった。

「私をどこへ連れて行くのですか」

曽我さんはたずねたが、女は無視して出ていった。

 

長い時間が過ぎた。

曽我さんはこの間、おかゆのような食事を提供されたという。

食事を持ってきた女に再びたたみかけた。

「お母さんはどこにいるの。私を帰して」。

 

女は言い放った。「甲板に出て外の空気を吸え」

最初の船で聞いた「たどたどしい日本語」と同じ声だった。

 


知っていた名字

キム・ミョンスク容疑者。

40歳代半ばぐらいで、所属は朝鮮労働党の工作機関「対外情報調査部」とみられる。

身長約150センチ。細目できつい目つき。髪はパーマ。

 


日本の警察当局は曽我さんら拉致事件を主導した実行犯とみて、

国外移送目的略取(拉致)容疑などで国際手配している。

キム容疑者は曽我さんが拉致された約1週間前に佐渡島に潜伏したとされる。


曽我さんに対し、

「浜辺の近くに電力関係の施設があり、そのあたりにいた」と告白している。

島という立地は、よそから来た人物は目立つ。

工作船など洋上で過ごせばさらに目を引く。

 

協力者が滞在するアジト(拠点)を用意していた可能性が高い。

現地に精通した補助工作員の影が見え隠れする。

北朝鮮側は、曽我さんの事件に関しては、

「日本国内の拉致請負機関から引き渡しを受けた」と伝えてきている。

 

北朝鮮の犯行に変わりはないが、不可解な説明であり、

事件の初動捜査ができなかった日本側にとっては痛い。

 


拉致された当時、准看護師だった曽我さんは平日は勤務先の病院の寮で生活していたが、

土曜の午後に実家に帰り、週末を過ごした。日曜日の午後には寮に戻った。

 

拉致されたのが土曜日だったことから、

キム容疑者らのグループが曽我さんの行動形態を把握していたのでは、

といった見方もあったが、

曽我さんとミヨシさんが突然買い物に出かけることは犯人側には予見できなかったはずだ。

 

 

 

曽我ひとみさんと母、ミヨシさんが拉致される前に買い物をした

商店付近で実況見分する新潟県警の捜査員=平成14年10月5日=

 


いまだに解明されていないのは、

キム容疑者は曽我さんが名乗る前から少なくとも名字を知っていたことだ。

曽我さんが拉致された際、名前を特定されるような物は持っていなかった。

 

「佐渡にいる。お金をたくさん置いてきたから、心配するな」。

北朝鮮に捕らわれた後もミヨシさんの所在をただす曽我さんに、

キム容疑者はそういってなだめたという。


曽我さんもそれを信じていたが、帰国を果たした後、

その言葉が噓だったことに気づいた。

 

久我良子とは…

その紙は、拉致被害者たちが暮らす平壌近郊の招待所の

備え付けの鏡台の引き出しの底板に、

小さく折りたたんで張り付けてあった。


見つけたのは地村さん夫妻。1980年代初めのことだ。

広げてみると、A4判ほどの紙にハングルで朝鮮人名が書かれ、


横には漢字で「久我良子」とあり、「くがよしこ」と読み仮名もふられていた。

こんなことも書かれていた。《1978年に革命のために朝鮮にきた》

《夫は交通事故で死亡》《娘は26歳で嫁いだ》。

 


地村さん夫妻が招待所の世話係の女性に紙に書かれていた朝鮮人名についてたずねると、

「あなたたちの前に住んでいた女性で、招待所を出て韓国人漁師と結婚した」

と説明されたという。

ほかにも記述があった。

「久我良子」が北朝鮮に来る前、

漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたことや、

新潟・佐渡島の住所。ボールペンで塗り消された跡もあった。

 

メモは自分の存在を誰かに知らせようとしていたようにも映る。

メモを残したことが北朝鮮当局に知られたら、ただではすまない。

「久我良子」という日本人名は偽名かもしれない。

 

北朝鮮に来た年や、娘がいること、佐渡に住んでいたことは、

ミヨシさんの境遇と重なる。

ミヨシさんが拉致された当時、

土管などを製造する「北越ヒューム管」の工場で勤務していたことも

「漢字と片仮名が入った名前の工場で働いていたこと」と一致する。

 

「ソガミヨシ」と「クガヨシコ」。

偶然にしては、共通点が少なくないが、ミヨシさんか否かを、

日本側から北朝鮮側にぶつける情報はそれ以上持ち合わせていない。

北朝鮮側はミヨシさんが入境したことさえもいまだに認めていない。

 

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