ラッピングバスを見た後、国道179号線を北上して清谷町2丁目の倉吉青果・魚市へ移動し、そこの「すずや食堂」に行きました。
この日は自宅を早朝に出てずっと走りっぱなしだったため、ここで朝食にしました。メニューを見ると、大体の品が揃っているようでした。先客が三人居ましたが、みんな牛骨ラーメンを食べていました。倉吉の朝ラー、というやつらしいです。
そこで、今回は私も朝ラーを楽しんでみることにしました。物流センター等の施設内にある食堂のメニューは、どこの地域でも美味しいと言われていますが、ここ倉吉の「すずや食堂」も例外ではないようで、牛骨ラーメンの味も独特の旨さに満ちていました。
白壁土蔵群エリアに戻る前に、久し振りに近くの波波伎神社に立ち寄ってみました。境内地付近の曲がりくねった道を進んで、鳥居前を少し過ぎた辺りの道端に車を停めました。向かいの家の方に挨拶して駐車の許可をいただきましたが、その際に「神社には東の山から回っていったら車でも入れますよ」と教えられました。
実は、その道は20年前に一度だけ通ったことがあります。神社の北側の宅地内の路地道からいったん東の山中に進み、ぐるりと回り込む形で神社境内地の東側に着いたのですが、大部分が未舗装の泥道で、当時の愛車エテルナZR-4がやっと通れる幅しかなく、時にドアミラーをたたまないといけない箇所もあり、ものすごく緊張したことを今でも鮮明に覚えています。
しかも、神社境内地の段差で車の底部をこすってしまい、鈍い音にドキッとしたのもつかの間、今度は向きを変えるのに充分なスペースが無く、本殿の横で苦労してUターンしたのでした。
なので、この神社には車で入らない方が賢明です。南の鳥居から参道を歩いていった方が楽です。
一帯は、倉吉市の保存林に指定されています。広い社叢の中心部にはスダジイの老木が数本聳えて神域を護るかのように並び立ちます。この神社には何度か来ていますが、建物よりもスダジイの印象が強いので、今回は木の写真は撮りませんでした。
長い参道の右手には広い空き地があって、かつてはなんらかの施設があったように思われますが、詳しい事はよく分かっていません。
社名の「波波伎」はハハキと読み、伯耆国の「伯耆」の古字体とされますが、史実であればこの神社が古代における伯耆国造の祭祀拠点であった可能性が考えられます。伯耆国造の祖は天穂日命ですが、波波伎神社の祭神は、かつて伯耆国造が祀っていた事代主命であるからです。境内に福庭古墳があり、七世紀に属する終末期の遺構である点から、伯耆国造氏の奥津城であった可能性が高いです。
したがって、本来はこの波波伎神社が伯耆国の中心的な古社であったものと思われます。延喜式神名帳にも記載がある式内社であり、その由緒は古代に遡ると推定されますが、神階の授与がなされたのは平安期に入ってからです。承和四年(837)に従五位下に叙されたのが初めで、極位の正五位上に達したのは貞観九年(867)のことでした。つまりは平安期の初め頃にこの神社の位置付けが確定したものと理解されます。
境内地は一段高い台地に設けられ、幣門が石段の上に見えますが、先日の地震によって多少の被害を受けたとみえ、屋根にブルーシートが懸けられていました。
拝殿です。神社の拝殿建築にしては、どこか寺院建築のような趣をただよわせています。江戸期までの神仏混交の状況を色濃く残しているようです。
本殿です。地震の被害がどこかにあったもののようで、周囲の玉垣には黄色の立ち入り禁止テープが巻かれていました。
一般的に、伯耆国の神社、といえば、まずは一宮の倭文神社、二宮の大神山神社などが思い出されますが、それらの序列は多分に中世から近世にかけての信仰の蓄積にもとづいており、古代に遡ればむしろ波波伎神社の方が上位もしくは古社として崇められた形跡がうかがえます。前述のように、祭神が事代主命であるので、古代の伯耆の国づくり、まつりごとを担った伯耆国造氏との関わりが知られるからです。
その場合、境内地にある福庭古墳の石室の造りが、倉吉市域でも大規模な古墳群である向山古墳群の盟主的存在の三明寺古墳のそれと共通するのが興味深く思われます。向山古墳群は約380基を数える群集墳で、その最終段階は八世紀に含まれるようなので、古代伯耆国の墓地的なエリアであったとみても間違いではないでしょう。
そして、波波伎神社の周辺にも幾つかの古墳があるようです。未調査未解明の部分が大きいので確かなことは分かりませんが、古墳が多いのであれば、周辺一帯がかつては伯耆国造氏の本願地であった可能性が指摘出来るでしょう。
伯耆国造氏は、先代旧事本紀収載の「国造本紀」によれば、成務天皇の治世期に出雲系の兄多毛比命(えたもひのみこと)の子の大八木足尼(おおやきのすくね)を国造に定めたことに始まるとされています。当時の伯耆は、古事記では「伯岐」と表記されていて、古くは表記が統一されていなかったことが察せられます。
現在の「伯耆」に表記が統一されたのは、律令政府が七世紀に国を規定して国府を整備してからのことでした。その国司に山上憶良や淡海三船らが任じられたのは、周知の通りです。
戻る前に、幣門両脇の狛犬を再び見ました。いずれも地震の被害が最も顕著で、向かって左側の吽形は、御覧のように基台の石が横ズレを起こして崩壊寸前の状態になっています。
右側の阿形は、さらにまずいことに獅子像の台座が割れてしまっています。基台石の横ズレは少ないものの、このままだと獅子像が倒壊する危険があります。早急な修復措置が望まれるところです。 (続く)