気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

けいおん!の聖地をゆく15 その5 モケジョさんからの質問

2018年01月16日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2017年12月13日、四条河原町OPA西の「柳小路TAKA」にて開かれた模型サークルの定期会合にて、モケジョのレイコさんに「四条のめやみ地蔵、って知ってます?」と訊かれました。「けいおん」の聖地に関しての話題で盛り上がっている最中にいきなり出された問いかけでしたので、面食らいました。

「・・・ああ、四条大橋の東にある仲源寺のことですな・・・」
「ええ、そうですそうです、仲源寺です。やっぱり御存知なんですね」
「四条通の八坂往来を行き来していれば、いやでも目に入ってきますからね。由緒ありげな室町期の門構えですからねえ」
「あ、あの門って、室町時代のものなんですか、知らなかった・・・」
「その仲源寺が、何か?」
「私、小学三年の時に眼疾になりまして、医者に通ったんですけど、祖母が「絶対にめやみ地蔵に参らねばなんねえ」と毎週の月曜日に連れていってくれたお寺なんです」
「ほう、すると参拝の効験はあらたかであったわけですか」
「はい、医者が驚いたぐらいに治りが早かったらしいんです。それ以来、毎月お礼のお参りを心がけているんですけど・・・」
 その信仰ぶりは本物だな、と感心しつつ、レイコさんの澄んだ瞳に、病気からの奇跡的な恢復が示されているのを改めて悟りました。医学が全てを解決するわけではないのかもしれない、とも感じました。

「その本尊は地蔵さんなんですけど、それよりも横のお堂にまつってある観音さんの方が立派なんですよね」
「そうです、千手観音菩薩坐像ですな」
「あ、そうです、千手観音でした。あの観音さん、宇治の平等院の阿弥陀さんに似てるなあ、って思うんですけど・・・」
 この言葉ほど、鋭く私の学究心を強く揺さぶったものは、ここ数年久しく無かったのでした。

 

 そこで、翌朝は早起きして四条河原町に向かい、四条大橋東詰の南座の前にてレイコさんと待ち合わせて、「四条のめやみ地蔵尊」こと仲源寺に行きました。四条大橋から、八坂神社に向かって南側歩道を歩くこと数分の位置です。

 

 四条通に面する山門は、室町時代末期頃の様式を示しますが、それ以上に唐門の形式をとっていることが重要です。唐門は格式の上では最上であり、一般的には皇族一統が使用する門とされています。かつては朝廷から重要視された寺院であったことがうかがえます。
 そして文学史のうえでは、門に架かる「雨奇晴好」の額もまた重要です。

 

 上図の説明文のとおり、志賀直哉の「暗夜行路」の一節に、この寺の額のことが出てくるからです。周知のように、志賀直哉は結婚後の新居を京都に構えており、衣笠、三本木、南禅寺北ノ坊などに住所を替えた経緯が知られます。南禅寺北ノ坊時代には、たびたび三条から四条あたりに出かけていたといい、この仲源寺にも何度か訪れていたようです。

 

 門脇に立つ解説板です。寺の草創は藤原時代の治安二年(1022)、開基は定朝とされますが、本尊像が地蔵菩薩であった事以外の詳細は伝わらず、鎌倉時代の安貞二年(1228)に防鴨川使であった中原為兼が中興して寺地を現在地に定めたことが知られるのみです。

 かつて定朝とその仏像を研究していた私は、当然ながらこの寺にも何度か足を運び、当時の住職に話を伺い、古文献なども見せていただいたことがありますが、いまに明らかな歴史の上限を中原為兼の時期より遡ることは不可能でした。

 

 要するに、京洛では稀な、定朝開基の寺院でありながら、その由緒は殆ど伝承の域を出ていません。度重なる鴨川の氾濫により、藤原期の寺観は失われて久しく、中原為兼が赴いた時点では廃寺同然であったものと思われます。定朝が手掛けた最初の本尊像も、いつしか失われて、現在は室町時代末期の再興像に替わっています。

 かつては広大な敷地を有したのでしょうが、現在の境内地は僅かで、本堂以下の諸施設が小さくまとめられて街区の中に埋没しつつあります。まっすぐに本堂に向かって合掌礼拝するレイコさんの後姿が、縮小されてもなお存続するこの寺の信仰力の一端を示しているかのようでした。

 

 本堂です。内陣の本尊地蔵菩薩像をじっと見上げるレイコさん。

 

 本堂の扁額です。目疾地蔵尊の俗称が、いつしか正式名称同然になっています。地元の方でも仲源寺の寺号を知らない人が居る、というのも仕方無いかもしれません。

 

 微動だにしない、レイコさんのお祈りが念仏と共に静かに続いていました。子供の頃に患った大病から救ってくれた地蔵尊への、尊敬と憧憬と感謝の心を常に忘れていないのでしょう。聞けば、模型サークルの定期会合に行く前にも、必ず立ち寄って手を合わせるそうです。

 

 さて、問題のお堂です。レイコさんが「宇治の平等院の阿弥陀さんに似てるなあ」と言った千手観音像がまつられています。

 

 京洛でも類例が稀な、藤原時代の丈六の千手観音菩薩坐像です。従来は十二世紀代に置かれて当時の観音信仰の一端を物語る遺品とされてきましたが、最近の研究成果を反映させてみると、もう少し古く見積もっても良さそうに思われます。十一世紀には含まれるでしょう。

 

 かつて、私はこの像も定朝の作ではないかと考えたことがありました。ですが、やや鋭さと明朗さを加味した作風は、どちらかといえば、定朝嫡流の系譜に置いてみるのが適切であろうかと拝察します。可能性の第一候補としては、定朝の嫡男の覚助、が挙げられるかもしれません。表情の柔和さを重く捉えた場合は、嫡孫の頼助のほうを作者に想定したほうが良いかもしれません。

 いずれにせよ、定朝開基の寺院でありましたから、その法灯は息子や孫が受け継いでいた筈です。したがって、定朝が本尊像の地蔵菩薩を彫ったのに倣い、息子や孫もそれぞれに仏像を彫って寺に奉納していてもおかしくありません。
 いまに伝わる千手観音菩薩坐像は、そうした寺の歴史と作善の流れの一コマ、として理解するのが良いでしょう。

 礼拝を終えたレイコさんに、これらの見解を簡単に説明しました。優れた仏像の多い京都でも、これだけの優品は珍しい旨を話すと、「定朝さんの開いたお寺の仏像なんですから、立派なんじゃありません?」と言われました。確かに、その通りです。
 そして、「宇治の平等院の阿弥陀さんに似てるなあ」という感慨も、ある意味正しい、と話しておきました。平等院も仲源寺も、定朝とその一門の造仏の系譜のなかに在った点では共通するからです。  (続く) 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする