夏の始めの旅の途中で、宿場町に立ち寄った。
20年くらい前に誰かからもらった、地味なお菓子。地味だが品が良い。なんとなく「関宿」というところにいつか行ってみたい、また、この菓子を買いたいと思っていた。
今回そんな思いを持って、初めて訪れることができた。道の曲がり加減がいい感じ。人も少なくて、情緒がある。
東海道、江戸から数えて47番目の宿場町。三重県の関宿だ。
逢坂、不破(美濃)と、こちらの鈴鹿関で三関。
この三関の東側が関東、西側が関西なのだそうだ。関東と関西の境は三重県で、伊勢神宮は既に関東ということらしい。
行きたかったのはこの店。深川(ふかわ)屋だ。
店主は代々、服部吉左衛門を名乗り、現在の店主は14代目。
寛永年間に作られた「関の戸」という餅菓子を、今も作り続けている。京都御所にも出入りを許され、陸奥大掾(むつだいじょう)の名を賜っている、と看板に書いてある。
関の戸、というのはこんなお菓子だ。
家に帰って、皿に載せてみた。
とても素朴である。そして小さい。
一口食べると、こんな感じネ。
外側は餅というが、つきたての餅よりさっぱりしている。中は漉し餡だ。
詳しく教えてくれたのは、この人。14代店主の服部吉右衛門亜樹さんだ。
店の中には、歴史のあるものがいろいろ展示されている。
トークが本当に面白くて、暑さの中、汗を拭きながらつい話し込んでしまった。こう見えて、この方は本物の忍者の末裔なのだそうだ。
だって、名前も服部じゃん!
服部半蔵の直接の子孫ではないが、親戚筋だということだった。
話しながら思い出したのだが、私はこの人をTVで見たことがあった。忍者の古い文書がこの家から見つかった、というものだった。
「もしかしたら、あの方ですか?」と聞いたら「そうです」とにこにこ笑って言う。本物だった。。。
忍者といっても、「身体能力の高い人」というより、この宿場町で400年間も代々餅屋をやり、そこを通る人をじーっと見続け、「こんな人が通った」「こんなことがあった」なんて、時には江戸に報告する。そんな役目だったのではないか、と言われた。
御所にも出入りしていた訳なので、奥まで餅菓子を納めながら、御所の情報も得ていたことだろう。
家の中には、どんでん返しや抜け道なども実際にあるのだと言う。「今は使ってませんけどね」なんて、にこにこ笑って言うのだ。
「忍者は普通、証拠を残さない。古文書が残っている時点で、忍者としては失格だ。」とも言う。なるほど。
これまで、家の中で「うちは忍者だ」という伝承はあったのですか?と聞くと、真顔で「実はありました」と言われる。
「でも、外には言えなかった」「証拠がないから」「今回、古文書が出てきて、やっと我が家は忍者から廃業ができた」と言う。
歴史家の磯田道史氏が、実際にこの家を訪れた場面もTVで見た。
「磯田さんはねー、しつこいんですよ。何回言っても、来るという。何かピンときたのでしょうかねー」と、やはりにこにこ笑いながら、14代目は言った。
「実は、今も我が家は忍者の技術を伝え続けているんです」
「この菓子の中に、それが入っている」
「この菓子は、創業当時からずっと作り方を変えてないんですよ」
「普通、小豆を煮たらすぐ悪くなる。でもこれは不思議に、どれだけおいても大腸菌群が増えないんです。保健所の指導があるから、賞味期限を書いてありますけど、これはそう言う菓子なんです」
「だからこれを持って、戦争なんかに行ったらしいです。情報を届けるために江戸に行く時なども、これを持っていれば生き延びられますからね」
そんなことを聞いてから食べると、この小さくて地味な菓子は、一段と味わい深くなる。
面白かったなー。
またいつか、この菓子を食べてみたくなった。
少し行くと、二階の屋根の高さから街並みが見られる場所があった。
東海道のこの宿場町に、どんなドラマがあったのかなぁと思わずにはいられない夕暮れだった。
やっぱり旅は面白い。