群雄割拠の幕末で、剣の達人でありながら一度も人を切らなかった人物が二人いる。
ひとりは桂小五郎(木戸孝允)、そしてもうひとりが坂本龍馬。
坂本龍馬は桶町千葉道場(通称小千葉/北辰一刀流)で塾頭、桂小五郎は練兵館(神道無念流)で塾頭。
塾頭ってことは二人ともかなり剣の達人で強いんだが、一度も刀で人を斬り殺したという逸話が無い。
これって凄い事だよ。あの幕末の混乱の中で一度も人を斬って殺してないって。
脱藩者であり好き勝手行動してた竜馬の事だ。狙われる事も多々あっただろう。京の町には新撰組もいたし、幕府派か攘夷派かって狂信的な殺戮が多かった。薩摩、長州、越前、長崎等飛び回ってた竜馬が狙われる事は多々あっただろう。実際寺田屋騒動の際、伏見奉行所の人間に囲まれた事もあった。この時も銃を片手に応戦し逃げ切った。誰も殺してないのよね。剣は使ってないのよね。本当に強い奴はむやみに殺生を好まないってことかな。
桂小五郎は神道無念流の免許皆伝だが、「逃げの小五郎」と迄言われたくらい争うごとを嫌ったらしい。龍馬と違って小五郎は長州藩の幹部だから、おいそれと攘夷に浮かれた浪人衆ごとぎが切り掛かれはできなかっただろうけど、それでも狙われたりした事は多々あっただろう。新撰組の局長近藤勇が「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」って語った逸話が残ってる。
でも、本当に龍馬は強かったのか?北辰一刀流の免許皆伝者なのか?司馬遼太郎の創作じゃないのか?剣の達人が何故銃を持っていた?って。
結構幕末マニアの間でもこの疑問は浸透してる。一般的な龍馬像は司馬遼太郎の「竜馬がいく」の影響が大きい。この中でも竜馬(司馬遼太郎は龍ではなく竜で描いてた)は一度も人を切ってない。福山雅治主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」でも斬り殺すシーンは無い。武田鉄矢原作小山ゆう画の「おーい竜馬」でも描かれてない。
この二人の剣術修行やその後の活躍や葛藤は、桂小五郎を主役にした漫画、石渡治さんの「HAPPY MAN」でも描かれてる。マキノノゾミの劇団公演を漫画にした異色作だが、そこでもこの二人が剣を抜いて人を切らず、倒幕を成し遂げる事が描かれてる。名作だよ。
その坂本龍馬の北辰一刀流の免状がこのたび高知で見つかり、京都国立博物館が本物であると認定した。
今回見つかったのは「北辰一刀流長刀兵法目録」という長刀(なぎなた)の免状。長さ270センチの巻物仕立てで、書かれた時期は安政五(1858)年。「駒返」「金剛剣」など、長刀の技と思われる21項目。
長刀とは一般にいう剣術では無く薙刀術で、北辰一刀流「初目録」であるから、免許皆伝とははちょっと違う。けど、これは当時の身分制度とかが絡んでるんじゃないのかな。
幕末当時土佐藩では武士でも上士と郷士に分けられてた。これは戦国時代に四国を統一した長宗我部一族に代わり、秀吉の命で山内一豊が支配した時に決めた身分制度。元々いた地元の武士が郷士、新しく支配する他から入ってきた武士が上士。同じ武士でも扱いや報録が全然違ったらしい。幕末当時の土佐藩主山内容堂はこの子孫で、後藤象二郎や板垣退助は上士。龍馬は郷士。(ちなみに関ジャニの錦戸君主演で今やってるドラマ、サムライ先生の武市半平太は郷士だけど上士格)
だからじゃないかな。土佐藩で誰も受け取ってない免許皆伝を郷士に与えるのは、いろんな影響があったから目録になったんじゃないかな。
龍馬が塾頭をつとめた桶町千葉道場(通称小千葉)は北辰一刀流開祖の千葉周作の弟、千葉定吉の道場。周作の「玄武館」(通称大千葉)は江戸三大道場(士学館、練兵館)とよばれた名門。小千葉道場は玄武館と一体のものであるけど、当時は身分制度が厳しく玄武館は上級武士、千葉道場は下級武士と別れていた。こんなところも皆伝ではなく長刀目録になったのは。
でも特筆したいのは、今回見つかったこの目録には師匠千葉定吉だけでなく、本家の千葉周作の名が記されている。身分制度や政治的なしがらみややっかみを別にして、剣を極めた、強い、そして人格を認めたから、皆伝は与えられないけど目録にして与えたんじゃないかな。
だって周作や定吉以外にも小千葉師範の重太郎(定吉の息子)、龍馬の許嫁と言われている千葉佐那(定吉の娘)の名前までも記されているもの。
まぁ免状や皆伝、目録があろうが無かろうが、龍馬が剣の達人であった事はまぎれも無い事実だろう。
龍馬は最期暗殺されちゃうけど桂小五郎は明治政府の重鎮として活躍する。
立場は違えど共に目指したのは身分の差別無く、外国の脅威におびえる事無い新しい日本。
格差社会だとか、民主主義がどうとか、安保本案改正がどうとか言ってる奴らは是非、この幕末の争乱時の二人の生き様を読んで、勉強してほしい。
ひとりは桂小五郎(木戸孝允)、そしてもうひとりが坂本龍馬。
坂本龍馬は桶町千葉道場(通称小千葉/北辰一刀流)で塾頭、桂小五郎は練兵館(神道無念流)で塾頭。
塾頭ってことは二人ともかなり剣の達人で強いんだが、一度も刀で人を斬り殺したという逸話が無い。
これって凄い事だよ。あの幕末の混乱の中で一度も人を斬って殺してないって。
脱藩者であり好き勝手行動してた竜馬の事だ。狙われる事も多々あっただろう。京の町には新撰組もいたし、幕府派か攘夷派かって狂信的な殺戮が多かった。薩摩、長州、越前、長崎等飛び回ってた竜馬が狙われる事は多々あっただろう。実際寺田屋騒動の際、伏見奉行所の人間に囲まれた事もあった。この時も銃を片手に応戦し逃げ切った。誰も殺してないのよね。剣は使ってないのよね。本当に強い奴はむやみに殺生を好まないってことかな。
桂小五郎は神道無念流の免許皆伝だが、「逃げの小五郎」と迄言われたくらい争うごとを嫌ったらしい。龍馬と違って小五郎は長州藩の幹部だから、おいそれと攘夷に浮かれた浪人衆ごとぎが切り掛かれはできなかっただろうけど、それでも狙われたりした事は多々あっただろう。新撰組の局長近藤勇が「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」って語った逸話が残ってる。
でも、本当に龍馬は強かったのか?北辰一刀流の免許皆伝者なのか?司馬遼太郎の創作じゃないのか?剣の達人が何故銃を持っていた?って。
結構幕末マニアの間でもこの疑問は浸透してる。一般的な龍馬像は司馬遼太郎の「竜馬がいく」の影響が大きい。この中でも竜馬(司馬遼太郎は龍ではなく竜で描いてた)は一度も人を切ってない。福山雅治主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」でも斬り殺すシーンは無い。武田鉄矢原作小山ゆう画の「おーい竜馬」でも描かれてない。
この二人の剣術修行やその後の活躍や葛藤は、桂小五郎を主役にした漫画、石渡治さんの「HAPPY MAN」でも描かれてる。マキノノゾミの劇団公演を漫画にした異色作だが、そこでもこの二人が剣を抜いて人を切らず、倒幕を成し遂げる事が描かれてる。名作だよ。
その坂本龍馬の北辰一刀流の免状がこのたび高知で見つかり、京都国立博物館が本物であると認定した。
今回見つかったのは「北辰一刀流長刀兵法目録」という長刀(なぎなた)の免状。長さ270センチの巻物仕立てで、書かれた時期は安政五(1858)年。「駒返」「金剛剣」など、長刀の技と思われる21項目。
長刀とは一般にいう剣術では無く薙刀術で、北辰一刀流「初目録」であるから、免許皆伝とははちょっと違う。けど、これは当時の身分制度とかが絡んでるんじゃないのかな。
幕末当時土佐藩では武士でも上士と郷士に分けられてた。これは戦国時代に四国を統一した長宗我部一族に代わり、秀吉の命で山内一豊が支配した時に決めた身分制度。元々いた地元の武士が郷士、新しく支配する他から入ってきた武士が上士。同じ武士でも扱いや報録が全然違ったらしい。幕末当時の土佐藩主山内容堂はこの子孫で、後藤象二郎や板垣退助は上士。龍馬は郷士。(ちなみに関ジャニの錦戸君主演で今やってるドラマ、サムライ先生の武市半平太は郷士だけど上士格)
だからじゃないかな。土佐藩で誰も受け取ってない免許皆伝を郷士に与えるのは、いろんな影響があったから目録になったんじゃないかな。
龍馬が塾頭をつとめた桶町千葉道場(通称小千葉)は北辰一刀流開祖の千葉周作の弟、千葉定吉の道場。周作の「玄武館」(通称大千葉)は江戸三大道場(士学館、練兵館)とよばれた名門。小千葉道場は玄武館と一体のものであるけど、当時は身分制度が厳しく玄武館は上級武士、千葉道場は下級武士と別れていた。こんなところも皆伝ではなく長刀目録になったのは。
でも特筆したいのは、今回見つかったこの目録には師匠千葉定吉だけでなく、本家の千葉周作の名が記されている。身分制度や政治的なしがらみややっかみを別にして、剣を極めた、強い、そして人格を認めたから、皆伝は与えられないけど目録にして与えたんじゃないかな。
だって周作や定吉以外にも小千葉師範の重太郎(定吉の息子)、龍馬の許嫁と言われている千葉佐那(定吉の娘)の名前までも記されているもの。
まぁ免状や皆伝、目録があろうが無かろうが、龍馬が剣の達人であった事はまぎれも無い事実だろう。
龍馬は最期暗殺されちゃうけど桂小五郎は明治政府の重鎮として活躍する。
立場は違えど共に目指したのは身分の差別無く、外国の脅威におびえる事無い新しい日本。
格差社会だとか、民主主義がどうとか、安保本案改正がどうとか言ってる奴らは是非、この幕末の争乱時の二人の生き様を読んで、勉強してほしい。
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