佐々木正人の『からだ――認識の原点』(東京大学出版会)を読んでの気付き。
これは認知心理学者の佐々木が、「誰もがこの手でふれることのできる日常的な「からだ」が、知ること、考えることといった認識の世界と深くかかわりあっていることを明らかにする」ために、「いつも分析の対象として「語られる」ものであった」からだ自身に、認識の世界について「語らせた」・・・平たく言えば「からだ感」の刷新を図った本である。
この中で、『百年の孤独』の作者ガルシア・マルケスのルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』に記された、映画監督ミゲル・リティンの事例が取り上げられている。リティンは、軍政下にあるチリに密入国するため、自分自身に徹底した身体加工を施した。さらに、チリの反体制組織から派遣された2人の心理学者らによって、「金持ちのウルグアイ人にふさわしい話し方、歩き方、身振りのすべて」をたたきこまれた。
外見上リティンはまったく別人になり、変装は成功したかに思えた。しかし変装のエキスパートたちは、リティンに「笑ったら死ぬぞ」と忠告する。
このエピソードの紹介のあとに佐々木は、我々が他者の顔に見ているものは、静止した顔ではなく、表情をつくりだす表面の動きのほうなのだとして、次のように述べている。
顔の印象にとってその動きの要素が、いかに本質的な部分を成しているかは簡単に内省することができる。毎日会っている家族、あるいは懐かしい誰かでもいい、いま目の前に居ない者の顔を思い出して見ると容易にわかることだが、我々が知識として持っている「顔」はいつも、いくばくかの表情を帯びている。表情のない顔と言うものを思い浮かべることはできない。たしかに無表情という表情もあるが、それも動きが顔につくりだす表情の一種だろう。顔の見えはいつも表情のなか、すなわち動きのなかにある。しかし、顔面の筋肉の表情をつくるための動きはあまりにも微妙である。通常、我々は顔を見るということが、その動きを見ることでもあることに気づかない。我々が表情と呼ぶ顔のもっとも本質的な特徴のひとつが、動きに他ならないことを忘れている。
僕は自分の写真を見るときに、いつも感じている違和感がある。そこに写っているのが自分自身であるのは理解できるのだが、しかし自分ではないような気もするというか、普段鏡で見る自分の姿とは決定的に異なっているように見えるのである。(厳密には鏡に映った顔も自分の顔ではないのだが、話がややこしくなるのでそこは措く)
顔というものが、佐々木が指摘するように、常に変転し続ける動的なものだとするならば、「動き」を剥奪された顔はすでに、顔の特徴を備えていないことになる。
世の中には、写真を撮られることをひどく嫌う人がいる。そして、「自分は写真うつりが悪い」と称する人もいる。これらの人々は、「動きを剥奪された顔」に、強い違和感を感じずにはいられないのではないだろうか。動きのない顔に、言いようのない不気味さを感じてしまい、それをうまく言語化できないから写真を遠ざけようとするのではないだろうか。
写真は不気味だ。「心霊写真」というジャンルもある。それは詐術者が日銭を稼ぐ手管として、あるいはひねくれ者の現実逃避の受け皿としてあるのかもしれない。3つの点の集合を人の顔と認識してしまうシミュラクラ現象で説明するのも可能だ。しかしひょっとしたら、写真の持つ本来的な不気味さが局所的に集約されたものが心霊写真であるのかもしれないのだ。
写真によって切り取られ、永遠の静止空間に閉じ込められた顔は、顔であって、顔ではない。しかし、それは一体なんなのだろう。
これは認知心理学者の佐々木が、「誰もがこの手でふれることのできる日常的な「からだ」が、知ること、考えることといった認識の世界と深くかかわりあっていることを明らかにする」ために、「いつも分析の対象として「語られる」ものであった」からだ自身に、認識の世界について「語らせた」・・・平たく言えば「からだ感」の刷新を図った本である。
この中で、『百年の孤独』の作者ガルシア・マルケスのルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』に記された、映画監督ミゲル・リティンの事例が取り上げられている。リティンは、軍政下にあるチリに密入国するため、自分自身に徹底した身体加工を施した。さらに、チリの反体制組織から派遣された2人の心理学者らによって、「金持ちのウルグアイ人にふさわしい話し方、歩き方、身振りのすべて」をたたきこまれた。
外見上リティンはまったく別人になり、変装は成功したかに思えた。しかし変装のエキスパートたちは、リティンに「笑ったら死ぬぞ」と忠告する。
このエピソードの紹介のあとに佐々木は、我々が他者の顔に見ているものは、静止した顔ではなく、表情をつくりだす表面の動きのほうなのだとして、次のように述べている。
顔の印象にとってその動きの要素が、いかに本質的な部分を成しているかは簡単に内省することができる。毎日会っている家族、あるいは懐かしい誰かでもいい、いま目の前に居ない者の顔を思い出して見ると容易にわかることだが、我々が知識として持っている「顔」はいつも、いくばくかの表情を帯びている。表情のない顔と言うものを思い浮かべることはできない。たしかに無表情という表情もあるが、それも動きが顔につくりだす表情の一種だろう。顔の見えはいつも表情のなか、すなわち動きのなかにある。しかし、顔面の筋肉の表情をつくるための動きはあまりにも微妙である。通常、我々は顔を見るということが、その動きを見ることでもあることに気づかない。我々が表情と呼ぶ顔のもっとも本質的な特徴のひとつが、動きに他ならないことを忘れている。
僕は自分の写真を見るときに、いつも感じている違和感がある。そこに写っているのが自分自身であるのは理解できるのだが、しかし自分ではないような気もするというか、普段鏡で見る自分の姿とは決定的に異なっているように見えるのである。(厳密には鏡に映った顔も自分の顔ではないのだが、話がややこしくなるのでそこは措く)
顔というものが、佐々木が指摘するように、常に変転し続ける動的なものだとするならば、「動き」を剥奪された顔はすでに、顔の特徴を備えていないことになる。
世の中には、写真を撮られることをひどく嫌う人がいる。そして、「自分は写真うつりが悪い」と称する人もいる。これらの人々は、「動きを剥奪された顔」に、強い違和感を感じずにはいられないのではないだろうか。動きのない顔に、言いようのない不気味さを感じてしまい、それをうまく言語化できないから写真を遠ざけようとするのではないだろうか。
写真は不気味だ。「心霊写真」というジャンルもある。それは詐術者が日銭を稼ぐ手管として、あるいはひねくれ者の現実逃避の受け皿としてあるのかもしれない。3つの点の集合を人の顔と認識してしまうシミュラクラ現象で説明するのも可能だ。しかしひょっとしたら、写真の持つ本来的な不気味さが局所的に集約されたものが心霊写真であるのかもしれないのだ。
写真によって切り取られ、永遠の静止空間に閉じ込められた顔は、顔であって、顔ではない。しかし、それは一体なんなのだろう。