今回はソシオ工房の堅あげポテトチップスです。北野エースっつーちょっといいお店で入手。カルディでも売ってるようです。
2018年の10月に、北九州の砂防ダムの中に2頭のイノシシが転落して出られなくなったっていう出来事がありましたよね。覚えてます?
あんとき役所に「はやく助けてやれ」って苦情の電話が相次いだそうですけど、そのほとんどが市外からの声だったんですよね。イノシシって地元じゃ畑荒らしたり人間襲ったりする害獣で、あんまり可哀想なんて思われてないけど、何も事情を知らないヨソの人たちは単純に同情しちゃったんでしょうね。
苦情の電話に対応した人たちは、「じゃあ助けたイノシシが農作物荒らしたり子供襲ってケガさせたりしたらお前責任取れんのかよ!」って反論したかったことでしょう。
んでね、僕もイノシシに関する思い出がありまして。
以前草刈りのバイトをしたことがありました。夏季限定の短期の仕事で、福岡市内の公共施設の敷地がおもな草刈り場でした。その中のひとつがゴミ処理場で、リサイクルセンターやテニスコートも併設されている、けっこう広いところでした。
草を刈るのは電動の草刈り機を使います。僕は草刈り機は使わせてもらえず、搔き棒という道具で、他の人が刈った草を掻き集める役目を仰せつかってました。
先に草刈り機を持った人たちがバリバリ刈っていき、僕はそのあとを追いかけて掻き集める。その流れの中で、草刈り機の人たちが遠くへ行ってしまい、僕はひとり取り残されてしまった時がありました。
そこは両脇を駐車場と道路に挟まれた細長い草地で、駐車場は土地が低くなっていて、草地からは飛び降りられないほどの高低差があり、道路と草地の間には植え込みがあって、行き来ができないようになっていました。
ずっと無心で掻き集めていたのですが、ふと顔を上げると、ずっと遠くで何かユラユラ動いているものがありました。僕は鳥かなと思って、そのまま作業を続けました。
するといつの間にか、その「何か」が、すぐ目の前に迫ってきていました。
それは、3頭のイノシシでした。うり坊よりは大きく、しかし成体には育っていない、言うならば「中高生」くらいのサイズの3兄弟でした。
3頭は食べ物を探しているのか、鼻を地面すれすれに寄せ、フンフンとにおいを嗅ぎながら歩いています。僕は突然のことに、強烈な感動に包まれて、固まってしまいました。恐怖は感じませんでした。
目線が低いためか、こちらが硬直しているせいか、3頭は僕に気づいていない様子でした。そして、僕の足元を横切り、そのまま歩き去っていきました。
そのゴミ処理場は小さな山に隣接されており、敷地内には「イノシシ注意」の看板もありました。イノシシと遭遇したときは背を向けたり走って逃げたりしてはならず、向き合ったままゆっくり後ろに下がらないといけないそうです。
敷地内にはほかにも、張りめぐらされた鉄柵が1カ所ひん曲がってるところがありました。イノシシが無理矢理くぐって通り道にしていたようです。草刈りで滞在してた期間中には、大人の大きなイノシシを目撃したこともあります(そのときはけっこう離れていました)。
まーなんつーか、福岡は都心ではあるんですけど、中央をちょっと離れると自然が割といっぱいなんですね。
命を大事に!ボクらはみんな生きている!ラブ&ピース!・・・という話だったかどうかは定かではないけど信じるか信じないかはあなた次第だというのは言われるまでもなく当たり前の話だと僕は思うんですけどあなたはどうですか?
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
巣篭り消費が習慣として定着したのか、ウーバーイーツもだいぶ増えましたね。一度の外出につき、少なくとも1人は見かけます。なんかウーバーイーツの人たちって、「オレってかっこいいべ?」ってオーラをプンプン出してますよね。スタイリッシュな自転車乗ってね。でもママチャリでやってる人もいますね。
日本でコロナが急増した頃から、「医療関係者の人たちに感謝しよう」という呼びかけが起こりました。それ自体は、すごくいいことだと思います。最前線でコロナの対応にあたっていた人たちは、自分の命も危うい中で、心身ともにすり減らしながら勤務していたはずですから。
でもこのような呼びかけは、「わざわざ呼びかけないと感謝を表明することがない」という日本人の習性を表しているように思えるんですよね。
感謝して当然の人、敬意を表して当然の人に対して、通常は感謝もしないし敬意も表さない。だからこそ「感謝しよう」という呼びかけをあえて行わなければならなかったのではないか、と思うのです。なぜ日本人はそうなのでしょう。
ひとつの大きな原因として、「お客様は神様意識」があるのではないか、と思います。客を絶対者としてあがめたてる態度。この言葉を最初に発したとされる三波春夫は、それとは違う意味で言っていたらしいのですが、とにかくこの国においては、客は絶対的なものとされています。
僕も以前接客業をやってましたが、客の中には、こちらが絶対に逆らわないのをいいことに、高圧的・侮蔑的な態度で接してくるろくでもないのがいました。社員からは「どんなことをされても客に逆らってはいけない」と教えられていました。何を言われてもハイハイと答え、理不尽な苦情にもスミマセンと頭を下げる。それが接客の絶対条件だったのです。
医者や看護師ってのは接客業ではないのですが、そのシステムや、金を払っているという状況が、接客業と同じであるとの類推をもたらし、高圧的な態度をとる利用者(患者)もいる。だから医療をサービスと誤解し、「金払ってるんだから医療行為たるサービスを受けられて当然」などと思い込んでしまう。
日本の接客(サービス)は質が高いとよく言われます。でもそれが客を増長させ、悪質なクレーマーを誘発している側面もある。
「覆面調査員」みたいなのもありますよね。普通の客を装って店に行き、従業員の態度や店内の衛生状態をチェックする、という仕事。
たしかに、それは接客の質の向上にはプラスに働くでしょう。でも、そこまで多くを望むべきでしょうか。
覆面調査のチェック項目には、「トイレの清掃が行き届いているか」というのもあります。しかし、従業員の数ギリギリで仕事を回していたら、キッチンとフロアだけで手いっぱいで、トイレまで見るゆとりがないということもあり得ます。事細かにチェックを入れていくと、「できるのにやらない」ことだけでなく、「ゆとりがないからできない」ことにもバツをつけられてしまう。
接客業は、「人に見られる」仕事です。だから完璧を求め、働きぶりを逐一チェックしていれば、いくらでも穴を見つけることができる。人に見られない仕事であれば、そんなことはありません。力を入れるところは入れ、適度に手を抜いて、緩急をつけることができます。仕事というのは、そちらの方が普通のはずです。ちょこちょこ手を抜かないと、やっていけない。
どうして接客業だけが、完璧を求められないといけないのでしょうか。
僕は福岡ドームでバイトをしていた時、1000円か2000円程度の入場料しか払ってない人が威張り散らしてくるのを相手にするにつけ、「わずかな金しか払ってないくせに神様ヅラすんじゃねーよ」と思ってました。
コロナが流行り出したばかりのころ、「マスクをつけて接客をするのはアリかナシか」という議論が起こりましたよね。その中で、「マスク姿で客に対応するのは失礼」という意見がありました。これなどは客の美意識の一方的な押し付けであり、いかにこの国で客が増長してきたかを表す言い分であると思います。さいわいと言うべきか、コロナ患者が急増する中で、マスクを認めないのは合理的でないとの考えが大勢になったこともあり、なし崩し的に店員のマスク着用は自明のものとなっていきました。
コンビニで買い物をするとき、バイトの子から不愛想な対応をされることがあります。僕はそんなとき、ムッとすると同時に、「でも接客なんてこの程度でいいよな」とも思います。
日本人は、サービスの質をひたすら向上させてきました。それは世界が称賛する、だれもが気持ちのいい接客の現場を築き上げました。
でも、気持ちがいいのはあくまで「受け手」の側です。サービスの担い手のほうは、その質の高さを維持するために、つねに汲々としていなくてはならない。だからそれについていけない人や、クレーマーの対応で心を病んでしまう人を生み出しているのです。
コロナをきっかけに、世界はそのありかたを大きく変えようとしている、と言われています。ならついでに、接客に対する意識、「お客様は神様意識」もまた考え直してくれないかな、と思います。
金を出してればそれだけで偉い、というのではなく、いろんな人がいろんなところで働いているからこの社会はまわっているのだという「おかげ様意識」。そんな、だれに対しても感謝の気持ちを忘れない心がけがあれば、世の中はもっと柔らかく、居心地のいいものになるはずです。
2018年の10月に、北九州の砂防ダムの中に2頭のイノシシが転落して出られなくなったっていう出来事がありましたよね。覚えてます?
あんとき役所に「はやく助けてやれ」って苦情の電話が相次いだそうですけど、そのほとんどが市外からの声だったんですよね。イノシシって地元じゃ畑荒らしたり人間襲ったりする害獣で、あんまり可哀想なんて思われてないけど、何も事情を知らないヨソの人たちは単純に同情しちゃったんでしょうね。
苦情の電話に対応した人たちは、「じゃあ助けたイノシシが農作物荒らしたり子供襲ってケガさせたりしたらお前責任取れんのかよ!」って反論したかったことでしょう。
んでね、僕もイノシシに関する思い出がありまして。
以前草刈りのバイトをしたことがありました。夏季限定の短期の仕事で、福岡市内の公共施設の敷地がおもな草刈り場でした。その中のひとつがゴミ処理場で、リサイクルセンターやテニスコートも併設されている、けっこう広いところでした。
草を刈るのは電動の草刈り機を使います。僕は草刈り機は使わせてもらえず、搔き棒という道具で、他の人が刈った草を掻き集める役目を仰せつかってました。
先に草刈り機を持った人たちがバリバリ刈っていき、僕はそのあとを追いかけて掻き集める。その流れの中で、草刈り機の人たちが遠くへ行ってしまい、僕はひとり取り残されてしまった時がありました。
そこは両脇を駐車場と道路に挟まれた細長い草地で、駐車場は土地が低くなっていて、草地からは飛び降りられないほどの高低差があり、道路と草地の間には植え込みがあって、行き来ができないようになっていました。
ずっと無心で掻き集めていたのですが、ふと顔を上げると、ずっと遠くで何かユラユラ動いているものがありました。僕は鳥かなと思って、そのまま作業を続けました。
するといつの間にか、その「何か」が、すぐ目の前に迫ってきていました。
それは、3頭のイノシシでした。うり坊よりは大きく、しかし成体には育っていない、言うならば「中高生」くらいのサイズの3兄弟でした。
3頭は食べ物を探しているのか、鼻を地面すれすれに寄せ、フンフンとにおいを嗅ぎながら歩いています。僕は突然のことに、強烈な感動に包まれて、固まってしまいました。恐怖は感じませんでした。
目線が低いためか、こちらが硬直しているせいか、3頭は僕に気づいていない様子でした。そして、僕の足元を横切り、そのまま歩き去っていきました。
そのゴミ処理場は小さな山に隣接されており、敷地内には「イノシシ注意」の看板もありました。イノシシと遭遇したときは背を向けたり走って逃げたりしてはならず、向き合ったままゆっくり後ろに下がらないといけないそうです。
敷地内にはほかにも、張りめぐらされた鉄柵が1カ所ひん曲がってるところがありました。イノシシが無理矢理くぐって通り道にしていたようです。草刈りで滞在してた期間中には、大人の大きなイノシシを目撃したこともあります(そのときはけっこう離れていました)。
まーなんつーか、福岡は都心ではあるんですけど、中央をちょっと離れると自然が割といっぱいなんですね。
命を大事に!ボクらはみんな生きている!ラブ&ピース!・・・という話だったかどうかは定かではないけど信じるか信じないかはあなた次第だというのは言われるまでもなく当たり前の話だと僕は思うんですけどあなたはどうですか?
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
巣篭り消費が習慣として定着したのか、ウーバーイーツもだいぶ増えましたね。一度の外出につき、少なくとも1人は見かけます。なんかウーバーイーツの人たちって、「オレってかっこいいべ?」ってオーラをプンプン出してますよね。スタイリッシュな自転車乗ってね。でもママチャリでやってる人もいますね。
日本でコロナが急増した頃から、「医療関係者の人たちに感謝しよう」という呼びかけが起こりました。それ自体は、すごくいいことだと思います。最前線でコロナの対応にあたっていた人たちは、自分の命も危うい中で、心身ともにすり減らしながら勤務していたはずですから。
でもこのような呼びかけは、「わざわざ呼びかけないと感謝を表明することがない」という日本人の習性を表しているように思えるんですよね。
感謝して当然の人、敬意を表して当然の人に対して、通常は感謝もしないし敬意も表さない。だからこそ「感謝しよう」という呼びかけをあえて行わなければならなかったのではないか、と思うのです。なぜ日本人はそうなのでしょう。
ひとつの大きな原因として、「お客様は神様意識」があるのではないか、と思います。客を絶対者としてあがめたてる態度。この言葉を最初に発したとされる三波春夫は、それとは違う意味で言っていたらしいのですが、とにかくこの国においては、客は絶対的なものとされています。
僕も以前接客業をやってましたが、客の中には、こちらが絶対に逆らわないのをいいことに、高圧的・侮蔑的な態度で接してくるろくでもないのがいました。社員からは「どんなことをされても客に逆らってはいけない」と教えられていました。何を言われてもハイハイと答え、理不尽な苦情にもスミマセンと頭を下げる。それが接客の絶対条件だったのです。
医者や看護師ってのは接客業ではないのですが、そのシステムや、金を払っているという状況が、接客業と同じであるとの類推をもたらし、高圧的な態度をとる利用者(患者)もいる。だから医療をサービスと誤解し、「金払ってるんだから医療行為たるサービスを受けられて当然」などと思い込んでしまう。
日本の接客(サービス)は質が高いとよく言われます。でもそれが客を増長させ、悪質なクレーマーを誘発している側面もある。
「覆面調査員」みたいなのもありますよね。普通の客を装って店に行き、従業員の態度や店内の衛生状態をチェックする、という仕事。
たしかに、それは接客の質の向上にはプラスに働くでしょう。でも、そこまで多くを望むべきでしょうか。
覆面調査のチェック項目には、「トイレの清掃が行き届いているか」というのもあります。しかし、従業員の数ギリギリで仕事を回していたら、キッチンとフロアだけで手いっぱいで、トイレまで見るゆとりがないということもあり得ます。事細かにチェックを入れていくと、「できるのにやらない」ことだけでなく、「ゆとりがないからできない」ことにもバツをつけられてしまう。
接客業は、「人に見られる」仕事です。だから完璧を求め、働きぶりを逐一チェックしていれば、いくらでも穴を見つけることができる。人に見られない仕事であれば、そんなことはありません。力を入れるところは入れ、適度に手を抜いて、緩急をつけることができます。仕事というのは、そちらの方が普通のはずです。ちょこちょこ手を抜かないと、やっていけない。
どうして接客業だけが、完璧を求められないといけないのでしょうか。
僕は福岡ドームでバイトをしていた時、1000円か2000円程度の入場料しか払ってない人が威張り散らしてくるのを相手にするにつけ、「わずかな金しか払ってないくせに神様ヅラすんじゃねーよ」と思ってました。
コロナが流行り出したばかりのころ、「マスクをつけて接客をするのはアリかナシか」という議論が起こりましたよね。その中で、「マスク姿で客に対応するのは失礼」という意見がありました。これなどは客の美意識の一方的な押し付けであり、いかにこの国で客が増長してきたかを表す言い分であると思います。さいわいと言うべきか、コロナ患者が急増する中で、マスクを認めないのは合理的でないとの考えが大勢になったこともあり、なし崩し的に店員のマスク着用は自明のものとなっていきました。
コンビニで買い物をするとき、バイトの子から不愛想な対応をされることがあります。僕はそんなとき、ムッとすると同時に、「でも接客なんてこの程度でいいよな」とも思います。
日本人は、サービスの質をひたすら向上させてきました。それは世界が称賛する、だれもが気持ちのいい接客の現場を築き上げました。
でも、気持ちがいいのはあくまで「受け手」の側です。サービスの担い手のほうは、その質の高さを維持するために、つねに汲々としていなくてはならない。だからそれについていけない人や、クレーマーの対応で心を病んでしまう人を生み出しているのです。
コロナをきっかけに、世界はそのありかたを大きく変えようとしている、と言われています。ならついでに、接客に対する意識、「お客様は神様意識」もまた考え直してくれないかな、と思います。
金を出してればそれだけで偉い、というのではなく、いろんな人がいろんなところで働いているからこの社会はまわっているのだという「おかげ様意識」。そんな、だれに対しても感謝の気持ちを忘れない心がけがあれば、世の中はもっと柔らかく、居心地のいいものになるはずです。