今日はごっつではなくごつ盛りです。

「大きいことはいいことだ」「大は小を兼ねる」といった重厚長大主義は高度経済成長の終焉とともに過去のものとなったはずですが、しかしこと食においては大盛りであるのはありがたいことであり、集客狙いで食べきれるはずもないメガ盛りを提供している飲食店は例外として、基本的には肯定的にとらえるべきではないかと思うのですが、これは高度に政治的かつ哲学的な命題なので、これ以上深入りするのは得策ではなく、ただこの送り仮名の「き」が付いていない塩焼そばはおいしいとだけ強調しておきましょう。
ちょっとした格言みたいなものを疑問に思うことがあります。たとえば、「向こう3軒両隣」。これは、自分の家の前を掃除するときは、両隣の3軒先までキレイにしましょう、という意味。そうすればお隣さんに喜んでもらえるし、気づかれなかったとしても、徳を積むことになるからいいことだ、という考えです。
すごく前向きな考え方だし、人を喜ばせる行為は、疑問の余地がないくらいいいことのように思えます。
ですが、僕は「ちょっとまてよ」と思うのです。3軒隣まで掃除をすれば、3軒目までのお隣さんは喜ぶでしょうけど、4軒先のお宅は、「なんでウチの前は掃除してくれないの?」と思うはずです。「3軒隣までは掃除する、でもウチの前は掃除しない。それって、ウチに対して何か思うところがあるってことじゃない?」となってしまいかねない。ご近所トラブルにつながりかねない行為だと思うのです。
じゃあ4軒先まで掃除すればいいかというと、そんなことはありません。5軒隣のお宅が「なんでウチの前は・・・」となるからです。だから、いくら掃除する範囲を拡大しても同じことです。
このようなトラブルを起こさないためには、掃除の範囲を自宅の前までに限定するしかありません。ご近所さんのお役に立てなくなりますが、トラブル回避のためにはそれが最善です。
考え方が神経質すぎると思われるかもしれませんが、何がトラブルの原因になるかわからない時代です。今この時代において、トラブルを避けるには、慎重のうえにも慎重であるべきでしょう。
なので、「向こう3軒両隣」は廃し、「掃除は絶対自宅の前だけ」とすべきです。
「早寝早起き」という格言もありますね。僕の母親がこれを理想としていたようで、子供のころに「そうしなさい」と言われました。それが健康の秘訣なのだと。
僕はそれに対し、「遅寝遅起きでも睡眠時間が同じなら問題ない」と返しました。すると母親は、苦笑しながら「ダメよ」とつぶやいたきり、何も言い返せませんでした。
当時僕は7,8歳くらいでしたが、見事に母親を言い負かしたのです。今思い返しても、絶妙な切り替えしだったと思います。
僕は今でも「遅寝遅起きでもいいんじゃね?重要なのは早さじゃなくてトータルの睡眠時間じゃね?」と考えています。
あと、「人という字は支え合っている」という言葉もありますね。金八先生発の有名な言葉。
最近になって武田鉄矢が、「人という字は2人の人間が支え合っているのではなく、1人が足を広げて立っているのだ」と言い出しました。これを告白と取るべきか、転向と取るべきかは判断が分かれるでしょうが、僕は子供のころから「人という字は支え合ってはいないよな」と思っていました。
だって、「人」一文字で1人の人間のことを指しているわけじゃないですか。「人」の複数形は「人々」であって、「人」だけで2人だったら矛盾してしまいますよ。
だから僕は、子供のころから人という字は1人の人間が足を広げている姿だと思っていました。金八っつぁんを信用していなかったのです。
武田鉄矢が「支え合っているわけではない」と言い出したときも、「やっと本当のことを打ち明けたか」と思いました。
まあ、格言もいろいろです。正しい格言、ためになる格言もあれば、眉唾な格言もある。
安易に真に受けるのではなく、いったん立ち止まって吟味してみましょう。

「大きいことはいいことだ」「大は小を兼ねる」といった重厚長大主義は高度経済成長の終焉とともに過去のものとなったはずですが、しかしこと食においては大盛りであるのはありがたいことであり、集客狙いで食べきれるはずもないメガ盛りを提供している飲食店は例外として、基本的には肯定的にとらえるべきではないかと思うのですが、これは高度に政治的かつ哲学的な命題なので、これ以上深入りするのは得策ではなく、ただこの送り仮名の「き」が付いていない塩焼そばはおいしいとだけ強調しておきましょう。
ちょっとした格言みたいなものを疑問に思うことがあります。たとえば、「向こう3軒両隣」。これは、自分の家の前を掃除するときは、両隣の3軒先までキレイにしましょう、という意味。そうすればお隣さんに喜んでもらえるし、気づかれなかったとしても、徳を積むことになるからいいことだ、という考えです。
すごく前向きな考え方だし、人を喜ばせる行為は、疑問の余地がないくらいいいことのように思えます。
ですが、僕は「ちょっとまてよ」と思うのです。3軒隣まで掃除をすれば、3軒目までのお隣さんは喜ぶでしょうけど、4軒先のお宅は、「なんでウチの前は掃除してくれないの?」と思うはずです。「3軒隣までは掃除する、でもウチの前は掃除しない。それって、ウチに対して何か思うところがあるってことじゃない?」となってしまいかねない。ご近所トラブルにつながりかねない行為だと思うのです。
じゃあ4軒先まで掃除すればいいかというと、そんなことはありません。5軒隣のお宅が「なんでウチの前は・・・」となるからです。だから、いくら掃除する範囲を拡大しても同じことです。
このようなトラブルを起こさないためには、掃除の範囲を自宅の前までに限定するしかありません。ご近所さんのお役に立てなくなりますが、トラブル回避のためにはそれが最善です。
考え方が神経質すぎると思われるかもしれませんが、何がトラブルの原因になるかわからない時代です。今この時代において、トラブルを避けるには、慎重のうえにも慎重であるべきでしょう。
なので、「向こう3軒両隣」は廃し、「掃除は絶対自宅の前だけ」とすべきです。
「早寝早起き」という格言もありますね。僕の母親がこれを理想としていたようで、子供のころに「そうしなさい」と言われました。それが健康の秘訣なのだと。
僕はそれに対し、「遅寝遅起きでも睡眠時間が同じなら問題ない」と返しました。すると母親は、苦笑しながら「ダメよ」とつぶやいたきり、何も言い返せませんでした。
当時僕は7,8歳くらいでしたが、見事に母親を言い負かしたのです。今思い返しても、絶妙な切り替えしだったと思います。
僕は今でも「遅寝遅起きでもいいんじゃね?重要なのは早さじゃなくてトータルの睡眠時間じゃね?」と考えています。
あと、「人という字は支え合っている」という言葉もありますね。金八先生発の有名な言葉。
最近になって武田鉄矢が、「人という字は2人の人間が支え合っているのではなく、1人が足を広げて立っているのだ」と言い出しました。これを告白と取るべきか、転向と取るべきかは判断が分かれるでしょうが、僕は子供のころから「人という字は支え合ってはいないよな」と思っていました。
だって、「人」一文字で1人の人間のことを指しているわけじゃないですか。「人」の複数形は「人々」であって、「人」だけで2人だったら矛盾してしまいますよ。
だから僕は、子供のころから人という字は1人の人間が足を広げている姿だと思っていました。金八っつぁんを信用していなかったのです。
武田鉄矢が「支え合っているわけではない」と言い出したときも、「やっと本当のことを打ち明けたか」と思いました。
まあ、格言もいろいろです。正しい格言、ためになる格言もあれば、眉唾な格言もある。
安易に真に受けるのではなく、いったん立ち止まって吟味してみましょう。