徳丸無明のブログ

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江崎グリコ ビスコ プレーン・発酵バター仕立て・香ばしアーモンド・焼きショコラ

2022-12-16 22:35:07 | 
今日はビス子ちゃんです。










僕が子供のころからありますが、今はこれだけ種類があるんですね。ネプチューンのホリケンさんは、お金がないときにビスコで食いつないでいたそうです。やさしい甘さにサクサク食感。
ファミレスに滞在中、隣の席に座った小さい子が、こちらをじいっと見つめてくることがあります。僕はちっちゃい子が好きなので、そういうときは積極的に微笑んだり話しかけたりします。子供はわりとすぐになついてくれて、おふざけで笑わせてあげたり、おしゃべりしたりして、楽しいひとときを過ごさせてもらえます。コロナが流行り出してからはあまりなくなりましたが、以前はそういうことがちょくちょくありました。
これらの経験から感じるのは、「最近の子供はものおじしない」ということ。
僕が子供のころ、1980年代ごろは、大人が怖かった。子供が気安く話しかけにくい雰囲気がありました。
個人的実感に過ぎないと言われればそれまでですし、大人全員が怖かったわけでもないのですが、それでも今よりはずっと怖かったと思うのです。
また、ものおじしない子供だって、昔はまったくいなかったということでもないでしょうけど、やはり今よりは少なかったと思います。
なんで昔の大人は怖かったかというと、よく怒っていたからですね。何かにつけ子供を叱っていた。昔の大人は、自分の子供じゃなくてもよく𠮟っていました。子供にとって大人は、怒りを表出させられるかもしれない相手だったのです。かかわると、怒りをぶつけられるかもしれない。それゆえ慎重に接しなければならず、気安く話しかけられるものではなかった。
昔は、喜怒哀楽の「怒」の感情しか持ちあわせていないような大人がいました。真顔がすでに怒り顔だった。
それに引き換え、今の大人はあまり子供を叱りません。だから今の子供にとって、大人は恐ろしい存在ではなくなっているのです。初対面の大人に対しても、同い年の友達と同じ感覚で話しかけてくる。

さて、このような話をすれば、「だから今の大人はダメなんだ」とか、「もっと子供を叱らなきゃいけない」などといった議論にもっていこうとする人がいます。「カミナリ親父を復活させろ」というね。「昔はよかった」式の議論ですね。でも僕は、そうは思いません。僕が言おうとしているのは、そういうことではない。
僕が思うのは、「昔の大人って、必要以上に怒ってなかった?」ということです。
怒る必要のないことまで怒ったり、ほんの些細なことでも過剰な大声で怒鳴っていなかったか、と思うのです。なんか、「とにかく子供は叱らなければならない」とか、「厳しくしつけなければならない」といった共通の観念があって、それで大人たちはみんな厳しく叱っていたけど、それらはすべて必要な「叱り」だったのか?と思うのですね。
「とりあえず子供は怒っときゃそれでいい」みたいな思い込みで、「これは本当に怒るべきなのか」と考えることなく、条件反射的に怒っていたことも数多くあったのではないでしょうか。
その当時の大人にとって、子供はとにかく抑えつけておくべき相手であって、ひとつの人格として尊重する相手ではありませんでした。今は違いますね。たとえ乳幼児であってもひとりの独立した人間として接しようとします。
子供を怒らなくなったのではありません。怒ることに慎重になったのです。本当に子供のためになるのか、怒るべき場面なのかどうかを考えて怒るようになったのです。昔の「考えなしの怒り」とは違います。
僕は今のほうが子供のためには望ましいと思っています。おかげで、子供が気安く話しかけてくれる。

少し前に、小学生の男の子たちが、大学生の協力を得て「さんぽセル」なる発明をしました。小学校の教科書は年々分厚くなっており、ランドセルはとても重く、登下校時にしんどい思いをしている小学生が増えているのです。体の不調を訴える児童もいるそうです。
そんな悩みを解決すべく作られたのがさんぽセルです。スティックとキャスターが付いており、キャリーケースのように引くこともできるし、背負うこともできるというランドセルです。実に画期的です。ご存じない方は画像検索してみてください。
このさんぽセルが象徴的ですが、最近創発的な子供が増えているように見えます。「子供がこんな発明をした」といったニュースをちょいちょい目にしますし、10代で起業した子供だって珍しくありません。幼いころから音楽活動をしたり、YouTuberとして活躍している子だっています。流行語にもなった「Z世代」だって、広告代理店がマーケティングとして仕掛けた感は否めませんが、それでも最近の若者が様々な能力を発揮していることの表れでしょう。
これら若い世代の変化を見ていると、「今の若い子は昔より創発的になっているのだ」と思えてきます。
しかし、子供たちは最近になって急に創発的になったのでしょうか。それは少し違うと思います。
昔の子供たちは、創発的ではなかったのではなく、創発性を抑え込まれていたのだと思うのです。
先に言いました通り、昔の大人は、よく子供を叱っていました。とにかく子供は抑え込むべき対象だった。
盲目的に子供を抑え込もうとしている大人にとって、子供の「目立つ行動」はすべて叱責の対象です。それには乱暴狼藉やマナー違反などの問題行動だけでなく、創発的な行為も含まれるでしょう。子供を抑え込もうとする大人にとって、創発的な行為は「悪目立ち」にしか映らなかったのではないでしょうか。だから、それらは抑え込まれてきた。大人に目をつけられたくないから、自発的に創発性を封じ込めていた子供もいたでしょう。
つまり、昔の子供は創発的ではなかったけど、最近になって創発的になってきたということではなく、昔は創発性のタネを大人に摘み取られていたのが、今は摘み取られず、しっかり育てられるようになってきた、というのが正確なところなのではないかと思うのです。

さんぽセルの発明に対しては、一部の大人たちから批判の声が上がりました。いわく、「楽することばかり覚えてはいけない」「体を鍛えるためにちゃんと背負うべきだ」。
この反応を見た僕は思いました。「ああ、この手の大人たちが僕ら世代の創発性を奪い取っていたんだな」と。
「抑え込む」というのはつまり、「型にはめる」ということです。人が社会で生きていくためのルールや常識、道徳や理想を教え込む、ということ。
ですから僕は、抑え込み全般を否定するわけではありません。必要不可欠な抑え込みもある。
しかし、昔の大人たちは、「何が必要な抑え込みか」をちゃんと考えていたのでしょうか。何も考えず、ひたすら抑え込むことを良しとしていたのではないでしょうか。
「普通はしないこと」を単なる悪目立ちととらえ、にらみを利かせていたのではないでしょうか。そのせいで「大人に叱られたくない子供たち」は、創発性を発揮したくても躊躇し、自らその能力を抑え込んできたのではないでしょうか。
ルール違反や問題行動の矯正とともに、創発性の芽まで摘み取られてしまっていたのです。
過度な抑え込みがなくなれば、子供は発明品を作れるし、起業だってできるのです。今、大人の過度な抑え込みがなくなってようやく、子供たちは本来の潜在能力を発現できるようになってきたのです。

子供が大人をむやみに怖がることなく、創発性を存分に発揮できる今の時代は素晴らしい。屈託なく話しかけてくる子供を見るにつけ、僕はそう感じるのです。