今日はそうなんです。
そう、爽。氷の粒入りアイス。氷によるサッパリ感で、夏でも冬でもいけちゃいます。
ロッテ・・・そう、ロッテ。ロッテの記事ですから、ビックリマンの話でもしましょうかね。
大流行しましたよね、ビックリマン。チョコを挟んだウエハースのお菓子にシールのおまけがついたビックリマンチョコ。値段は30円でしたか。
僕は1980年生まれでして、小学3~6年ごろに夢中になっていました。さすがに中学になったら買ってなかったと思いますが・・・。そのころにはなくなってたのかな?いつなくなったのか覚えてませんね。今復刻版が出てますけど、それまでずっと販売してない期間ありましたからね。
僕はピーナッツの入ったウエハースチョコもおいしくて好きだったんですけど、ビックリマンはとにかくシールですよね。いろんなキャラクターのシールが入ってて、第1弾、第2弾とシリーズが出ていました。そして、そのキャラクターたちが登場する、シールの背景となる物語があって、シールを手に入れた子供たちがそのストーリーを想像したり、あるいはアニメの視聴で世界像を把握したりしていたのです。
シールを1枚手に入れただけでは全体像がわからないようになっている、そのマーケティング戦略こそが大ヒットのカギでした。そのへんの詳細は大塚英志が『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』で論じてますので、ご参照ください。
しかし、今となってはなぜあれほど入れ込んでいたのかが思い出せないですね。「流行している」ことを知って、後追いでハマったのか。それとも、流行とは無関係に気に入ったのか。僕はけっこうコレクション願望がありますから、シールの種類が数多いという点に惹かれたのかもしれません。
1個30円だから、1度にもらえるお小遣い100円で3個買ってましたっけ。まだ消費税がなかった時代です。「ビックリマンチョコを扱ってる店はどこか」が、機密情報として子供たちの間を行き交っていました。
んでこのビックリマン、あまりに人気が出すぎてしまったために、社会問題も引き起こしていました。乱暴なヤツがシールをカツアゲしたり、シールだけ目的で購入したヤツがお菓子を捨てたり、あるいは万引きしたりなどの事件が起きていて、テレビでもさかんに報じられていました。
なので、子供たちの熱狂ぶりとは裏腹に、大人たちは「この騒動はいかがなものか」と、眉をひそめておりました。どちらかというと、子供がビックリマンチョコを買うのを快く思っておらず、流行を鎮静化させたいと思っていた人のほうが多かったような気がします。
その思いが、露骨に表れた出来事がありました。ある日、通ってた小学校の全校集会で、校長先生が、「この小学校の生徒は、ビックリマンチョコを買ってはいけません」と言い放ったのです。
ビックリマン禁止令です。体育館は悲鳴に包まれました。
ただ、校長の命令(学校の規則)だからといって素直に従っていた生徒は少数派で、僕は「買うのはいけないことなんだ」と思いつつも、欲望には勝てないとばかりに、後ろめたさを感じながら購入していたのですが、生徒の大半はそうしていたはずです。あたかも、薬物に手を出すがごとく。
それにしても。今にして思えば、学校が生徒の消費を規制するなんて、かなり乱暴なことだったのではないでしょうか。だって、学校外のことですよ。学校で使用する物品の購入であれば口をさしはさむのもわからなくはないのですが、お菓子ですよ。
学校が、生徒が購入するお菓子を選別するなんて、どう考えても越権行為でしょう。企業から文句言われてもしかたない暴挙ですよ。
校長の狙いはわかります。ビックリマンが原因となる混乱を排除したかったのです。僕の小学校では、その時点ではまだ目立った事件は起きていませんでしたが、何か問題が起こる前に、あらかじめ芽を摘んでおきたかったのでしょう。
しかし、それにしても。「禁止する」という選択は、正解だったのでしょうか。
僕はそうは思いません。ほかにもっとやりようがあった、と思います。
問題となっていたのは、シールのカツアゲや、チョコのポイ捨て、万引きなどです。なら、それらがいかに良くないことなのかを、子供たちに説いて聞かせるべきだったのではないでしょうか。
人のものを奪う行為は、どれだけ相手に苦痛を与えるのか。食べ物を作るのに、どれだけ多くの人の手間暇がかかっているのか。万引きによる損失は、お店にどれほどの影響を及ぼすのか。
こういった倫理・道徳を教えるべきだったのではないでしょうか。それこそが、教育機関の本来あるべき姿のはずです。考えようによっては、ビックリマンは生徒の教育のためのいい機会になるはずだったのです。
なのに、校長はそうしなかった。超法規的に購入を禁止して、それで事足れりとしたのです。
僕は、愚かな判断だったと思います。倫理や道徳を説くこともせず、「禁止」という、もっとも楽な対処を選択したのですから。
それに、禁止というのは、言い逃れの手段にもなるのです。
どういうことかというと、もし今後、生徒がビックリマン絡みで問題を起こしたとしても、学校側は、「我々は買ってはいけないと言っていました。なのにあなたは買った。規則を破ったのです。そのうえで問題が起きたのであれば、我々の責任ではありません。あなたがどんな損害を被ろうが、我々の知ったことではない。自分でなんとか解決しなさい」という弁解ができるということです。
禁止は、責任逃れのための免罪符にもなるのです。だから、なおさらズルいと思うのです。
たぶん5,6年生のときだったと思いますけど、「トイレの花子さん」が生徒の間で話題になったことがありました。みんなが「北棟の2階の女子トイレの窓ガラスに、花子さんが映ってる」と言い出し、生徒たちがこぞって見物しに行ったのです。
花子さん、説明しなくてもわかりますよね?学校の女子トイレに出没するという幽霊。有名な学校の怪談です。
僕もつられて見に行きました。窓ガラスはトイレの突き当たりにあったので、廊下から眺めることができたのです。見たかんじは、ガラスの反射の加減で、人の顔が映っていると言えば言えなくもない、という具合でした。見ようによっては人の顔のようにも見える。だからこそみんな信じて、「映ってる」と言っていたんでしょうね。
たぶん最初に言い出したヤツは、ほんとに花子さんが見えたのではなく、愉快犯だったのだと思います。狙いは見事に的中したわけです。
それはともかく、校長はこの件でも禁止令を出しました。やはり全校集会で、「トイレの花子さんを見に行ってはいけません」と言い放ったのです。
なんと安易なやり口でしょう。ビックリマンのときと同じように、教育のいい機会にしようとはせず、禁止という上からの命令によって鎮火させようとしたのです。
そもそも、トイレの花子さんを見物したとして、何が問題なのでしょうか。誰か困る人がいたでしょうか。女子生徒がそこのトイレを利用しづらくなっていたかもしれませんが、トイレはほかの場所にいくらでもありましたし、たいした被害ではなかったはずです。
子供が面白半分に流したデマが騒ぎとなった。そんなのは一時的な流行に過ぎず、放っておいても自然に終息したはずです。教師側がいちいち口をさしはさむようなことではない。
なのに、校長はわざわざ口を出したのです。「禁止」という、教育からもっともかけ離れたやり方によって。
なんでもかんでも禁止するのは、教育ではありません。教育の放棄です。
禁止という、もっとも楽なやり方によって、校長は教育を投げ出したのです。なんと愚かなことでしょう。
禁止が一概に悪いとまでは思いません。どう考えてもやってはいけないことというのはある。
ですが、本当に禁止すべきか否かを考えずに下される禁止は、安易です。禁止に値するかどうかを検討していないということは、何が子供のためになるかを考えていないということですから。
禁止は、楽なのです。何も考えなくていいし、教育もしつけも必要ありませんから。
ですが、そんな安易な禁止を命じられ続けた子供は、どのように成長するのでしょう。
本来なら教えられるべき倫理や道徳を学ぶことなく、思考停止的な禁止だけを命じられる。そうなれば、なぜ禁止されるのかすら理解できず、自らも思考停止に追い込まれてしまうのではないでしょうか。禁止されれば、それが「いけないこと」だということは理解できても、「なぜいけないのか」まではわからないのですから。
安易な禁止は、子供のためにならないのです。教育の機会が失われ、悪くすると思考停止に陥ってしまう。
僕の小学校の校長がしていたのは、そういうことだったのです。
子供に教育を施したいなら、楽をしてはいけません。禁止すれば、自分は楽です。でも、子供のためにはならない。
子供のことより、保身を第一に考える大人が「禁止」を選ぶのです。
なんでもかんでも禁止していた校長・・・ネロ魔身に吸い込まれなさい。
そう、爽。氷の粒入りアイス。氷によるサッパリ感で、夏でも冬でもいけちゃいます。
ロッテ・・・そう、ロッテ。ロッテの記事ですから、ビックリマンの話でもしましょうかね。
大流行しましたよね、ビックリマン。チョコを挟んだウエハースのお菓子にシールのおまけがついたビックリマンチョコ。値段は30円でしたか。
僕は1980年生まれでして、小学3~6年ごろに夢中になっていました。さすがに中学になったら買ってなかったと思いますが・・・。そのころにはなくなってたのかな?いつなくなったのか覚えてませんね。今復刻版が出てますけど、それまでずっと販売してない期間ありましたからね。
僕はピーナッツの入ったウエハースチョコもおいしくて好きだったんですけど、ビックリマンはとにかくシールですよね。いろんなキャラクターのシールが入ってて、第1弾、第2弾とシリーズが出ていました。そして、そのキャラクターたちが登場する、シールの背景となる物語があって、シールを手に入れた子供たちがそのストーリーを想像したり、あるいはアニメの視聴で世界像を把握したりしていたのです。
シールを1枚手に入れただけでは全体像がわからないようになっている、そのマーケティング戦略こそが大ヒットのカギでした。そのへんの詳細は大塚英志が『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』で論じてますので、ご参照ください。
しかし、今となってはなぜあれほど入れ込んでいたのかが思い出せないですね。「流行している」ことを知って、後追いでハマったのか。それとも、流行とは無関係に気に入ったのか。僕はけっこうコレクション願望がありますから、シールの種類が数多いという点に惹かれたのかもしれません。
1個30円だから、1度にもらえるお小遣い100円で3個買ってましたっけ。まだ消費税がなかった時代です。「ビックリマンチョコを扱ってる店はどこか」が、機密情報として子供たちの間を行き交っていました。
んでこのビックリマン、あまりに人気が出すぎてしまったために、社会問題も引き起こしていました。乱暴なヤツがシールをカツアゲしたり、シールだけ目的で購入したヤツがお菓子を捨てたり、あるいは万引きしたりなどの事件が起きていて、テレビでもさかんに報じられていました。
なので、子供たちの熱狂ぶりとは裏腹に、大人たちは「この騒動はいかがなものか」と、眉をひそめておりました。どちらかというと、子供がビックリマンチョコを買うのを快く思っておらず、流行を鎮静化させたいと思っていた人のほうが多かったような気がします。
その思いが、露骨に表れた出来事がありました。ある日、通ってた小学校の全校集会で、校長先生が、「この小学校の生徒は、ビックリマンチョコを買ってはいけません」と言い放ったのです。
ビックリマン禁止令です。体育館は悲鳴に包まれました。
ただ、校長の命令(学校の規則)だからといって素直に従っていた生徒は少数派で、僕は「買うのはいけないことなんだ」と思いつつも、欲望には勝てないとばかりに、後ろめたさを感じながら購入していたのですが、生徒の大半はそうしていたはずです。あたかも、薬物に手を出すがごとく。
それにしても。今にして思えば、学校が生徒の消費を規制するなんて、かなり乱暴なことだったのではないでしょうか。だって、学校外のことですよ。学校で使用する物品の購入であれば口をさしはさむのもわからなくはないのですが、お菓子ですよ。
学校が、生徒が購入するお菓子を選別するなんて、どう考えても越権行為でしょう。企業から文句言われてもしかたない暴挙ですよ。
校長の狙いはわかります。ビックリマンが原因となる混乱を排除したかったのです。僕の小学校では、その時点ではまだ目立った事件は起きていませんでしたが、何か問題が起こる前に、あらかじめ芽を摘んでおきたかったのでしょう。
しかし、それにしても。「禁止する」という選択は、正解だったのでしょうか。
僕はそうは思いません。ほかにもっとやりようがあった、と思います。
問題となっていたのは、シールのカツアゲや、チョコのポイ捨て、万引きなどです。なら、それらがいかに良くないことなのかを、子供たちに説いて聞かせるべきだったのではないでしょうか。
人のものを奪う行為は、どれだけ相手に苦痛を与えるのか。食べ物を作るのに、どれだけ多くの人の手間暇がかかっているのか。万引きによる損失は、お店にどれほどの影響を及ぼすのか。
こういった倫理・道徳を教えるべきだったのではないでしょうか。それこそが、教育機関の本来あるべき姿のはずです。考えようによっては、ビックリマンは生徒の教育のためのいい機会になるはずだったのです。
なのに、校長はそうしなかった。超法規的に購入を禁止して、それで事足れりとしたのです。
僕は、愚かな判断だったと思います。倫理や道徳を説くこともせず、「禁止」という、もっとも楽な対処を選択したのですから。
それに、禁止というのは、言い逃れの手段にもなるのです。
どういうことかというと、もし今後、生徒がビックリマン絡みで問題を起こしたとしても、学校側は、「我々は買ってはいけないと言っていました。なのにあなたは買った。規則を破ったのです。そのうえで問題が起きたのであれば、我々の責任ではありません。あなたがどんな損害を被ろうが、我々の知ったことではない。自分でなんとか解決しなさい」という弁解ができるということです。
禁止は、責任逃れのための免罪符にもなるのです。だから、なおさらズルいと思うのです。
たぶん5,6年生のときだったと思いますけど、「トイレの花子さん」が生徒の間で話題になったことがありました。みんなが「北棟の2階の女子トイレの窓ガラスに、花子さんが映ってる」と言い出し、生徒たちがこぞって見物しに行ったのです。
花子さん、説明しなくてもわかりますよね?学校の女子トイレに出没するという幽霊。有名な学校の怪談です。
僕もつられて見に行きました。窓ガラスはトイレの突き当たりにあったので、廊下から眺めることができたのです。見たかんじは、ガラスの反射の加減で、人の顔が映っていると言えば言えなくもない、という具合でした。見ようによっては人の顔のようにも見える。だからこそみんな信じて、「映ってる」と言っていたんでしょうね。
たぶん最初に言い出したヤツは、ほんとに花子さんが見えたのではなく、愉快犯だったのだと思います。狙いは見事に的中したわけです。
それはともかく、校長はこの件でも禁止令を出しました。やはり全校集会で、「トイレの花子さんを見に行ってはいけません」と言い放ったのです。
なんと安易なやり口でしょう。ビックリマンのときと同じように、教育のいい機会にしようとはせず、禁止という上からの命令によって鎮火させようとしたのです。
そもそも、トイレの花子さんを見物したとして、何が問題なのでしょうか。誰か困る人がいたでしょうか。女子生徒がそこのトイレを利用しづらくなっていたかもしれませんが、トイレはほかの場所にいくらでもありましたし、たいした被害ではなかったはずです。
子供が面白半分に流したデマが騒ぎとなった。そんなのは一時的な流行に過ぎず、放っておいても自然に終息したはずです。教師側がいちいち口をさしはさむようなことではない。
なのに、校長はわざわざ口を出したのです。「禁止」という、教育からもっともかけ離れたやり方によって。
なんでもかんでも禁止するのは、教育ではありません。教育の放棄です。
禁止という、もっとも楽なやり方によって、校長は教育を投げ出したのです。なんと愚かなことでしょう。
禁止が一概に悪いとまでは思いません。どう考えてもやってはいけないことというのはある。
ですが、本当に禁止すべきか否かを考えずに下される禁止は、安易です。禁止に値するかどうかを検討していないということは、何が子供のためになるかを考えていないということですから。
禁止は、楽なのです。何も考えなくていいし、教育もしつけも必要ありませんから。
ですが、そんな安易な禁止を命じられ続けた子供は、どのように成長するのでしょう。
本来なら教えられるべき倫理や道徳を学ぶことなく、思考停止的な禁止だけを命じられる。そうなれば、なぜ禁止されるのかすら理解できず、自らも思考停止に追い込まれてしまうのではないでしょうか。禁止されれば、それが「いけないこと」だということは理解できても、「なぜいけないのか」まではわからないのですから。
安易な禁止は、子供のためにならないのです。教育の機会が失われ、悪くすると思考停止に陥ってしまう。
僕の小学校の校長がしていたのは、そういうことだったのです。
子供に教育を施したいなら、楽をしてはいけません。禁止すれば、自分は楽です。でも、子供のためにはならない。
子供のことより、保身を第一に考える大人が「禁止」を選ぶのです。
なんでもかんでも禁止していた校長・・・ネロ魔身に吸い込まれなさい。