「昔は良かった」式の話をする人がいる。
「昔の日本は良かった。人々は礼節をわきまえて互いに助け合い、貧しいながらも逞しく生きていた。それが今では…」っていうやつ。
極度に美化されている、という点もそうだが、この手の議論に共通して感じるのは、「射程の短さ」である。「昔は良かった」の「昔」は、自分が幼かった頃か、せいぜいその人のおじいちゃんの時代までしか含まれていない。それよりも昔の時代は、まるで存在しなかったかのように切り捨てられている。
中には、「昔は良かった」の「昔」を、自分の生きた時代ではなく、自分が理想とする時代に求める人もいる(特に江戸時代が人気)。しかし、そのタイプの人達とて、「それよりも昔」を無きものとしている、という点では同等である。
まあ、この種の議論というのは、失われたものに対するノスタルジーとして語られることが多いわけで、その限りであれば、さほど問題はない。失われたものの良さを再確認する、という意味では良いことだとも言える。
だが、これが若者や現代社会を批判するために用いられると、「ちょっと待ってよ」と言いたくなる。
「あなたの言う、その『昔』こそが、唯一無二の、理想社会なの?」と。
一コずつ例を挙げてみる。
まずは、「性の低年齢化」について。
「若者の性は乱れている。若いうちから簡単に体の関係を持つようになった。昔はこうではなかった。皆、貞操観念があった」
かつて日本には、「夜這い」という習慣があった。夜中に、男が女のもとを訪れる、というやつだ。この習慣がいつ生まれたか、は小生は知らない。では、いつまであったか、だが、少なくとも江戸時代までは当たり前のものとしてあった。
それが明治以降、開国し、西洋の習慣や学問が流入してくると、変容を迫られることになる。大日本帝国は和魂洋才を掲げたので、西洋的見地から、日本の恥と映るものを排除してゆく。キリスト教道徳に基づいた、貞操観念の感覚に反する夜這いの習慣も、当然改められる。それまでにあった習わしを、すぐになくすことはできなかったろうが、時間をかけて、少しずつ終わらせていったものと思われる。
この夜這いについて調査した、赤松啓介の『夜這いの民俗学』なる本がある。この本によれば、夜這いは村単位で行われており、村の中で、一定の年齢に達した男女は、皆一斉に初体験を済ませる決まりになっていたという。
いつ初体験を行うか、というデータも、各村ごとに、赤松が調べた範囲で載っているのだが、ザッと目算したところでは、平均して大体13歳くらいで済ませているのである。
13歳。今の中一。それくらいで初体験を済ませるのが、当たり前の時代があったのだ。
ただし、これはあくまで村社会の話である。都市部においても同じ事が言えるかどうかはわからないし、江戸以前には身分もあったので、身分ごとの習慣の違いもある。皆が皆、13歳くらいで初体験を済ませていた、とは言えない。
それから、これは特に強調しておかねばならないのだが、だからと言って、「性の低年齢化には何の問題もない」というわけではない。昔、13歳くらいで初体験を済ませていたのは、それなりの事情、背景がある。
現代の日本には、結核や破傷風のような伝染病、感染症のワクチンがある。夜這いの習慣があった時代には、それがなかった。なので、子供がコロコロ死んでいた。
そんな時代において、子孫を確実に残すためにはどうしたらいいか。なるだけ早いうちからセックスをし始め、ひとりでも多く子供を設けねばならないだろう。大人だって、今と比べればだいぶ寿命が短かった。平均13歳くらいで初体験を済ませるというのは、そのような歴史的背景があればこそ、だ。今はもう、事情が違う。
ただ、日本人に貞操観念があったのは、明治以降の教育によるもので、ずっと昔からそうだったわけではない、というのはお分かりいただけるだろう。
では「お前は要するに、性の低年齢化に対して、どう考えるべきだというのか」と尋ねられたら…。
うーん……。何とも言えない。
「ごく一部に過ぎないんだから、やりたい奴は好きにやらせとけばいいんじゃないの」という気もするけど、かと言って、低年齢化を推奨するのはちょっと違うんじゃないかとも思うし、道徳教育を強化したほうがいいような気もする。何とも、判然としないのである。
ただ、射程を長くとってみれば、様子が違って見えてくることは間違いないだろう。性の低年齢化は「絶対に解消すべき大問題」としか思えなかったのが、少し違ったものに見えてくるはずだ。
射程を長くとってみることの大切さというのは、そういうことだ。
(②に続く)
オススメ関連本・高橋秀実『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』新潮文庫
「昔の日本は良かった。人々は礼節をわきまえて互いに助け合い、貧しいながらも逞しく生きていた。それが今では…」っていうやつ。
極度に美化されている、という点もそうだが、この手の議論に共通して感じるのは、「射程の短さ」である。「昔は良かった」の「昔」は、自分が幼かった頃か、せいぜいその人のおじいちゃんの時代までしか含まれていない。それよりも昔の時代は、まるで存在しなかったかのように切り捨てられている。
中には、「昔は良かった」の「昔」を、自分の生きた時代ではなく、自分が理想とする時代に求める人もいる(特に江戸時代が人気)。しかし、そのタイプの人達とて、「それよりも昔」を無きものとしている、という点では同等である。
まあ、この種の議論というのは、失われたものに対するノスタルジーとして語られることが多いわけで、その限りであれば、さほど問題はない。失われたものの良さを再確認する、という意味では良いことだとも言える。
だが、これが若者や現代社会を批判するために用いられると、「ちょっと待ってよ」と言いたくなる。
「あなたの言う、その『昔』こそが、唯一無二の、理想社会なの?」と。
一コずつ例を挙げてみる。
まずは、「性の低年齢化」について。
「若者の性は乱れている。若いうちから簡単に体の関係を持つようになった。昔はこうではなかった。皆、貞操観念があった」
かつて日本には、「夜這い」という習慣があった。夜中に、男が女のもとを訪れる、というやつだ。この習慣がいつ生まれたか、は小生は知らない。では、いつまであったか、だが、少なくとも江戸時代までは当たり前のものとしてあった。
それが明治以降、開国し、西洋の習慣や学問が流入してくると、変容を迫られることになる。大日本帝国は和魂洋才を掲げたので、西洋的見地から、日本の恥と映るものを排除してゆく。キリスト教道徳に基づいた、貞操観念の感覚に反する夜這いの習慣も、当然改められる。それまでにあった習わしを、すぐになくすことはできなかったろうが、時間をかけて、少しずつ終わらせていったものと思われる。
この夜這いについて調査した、赤松啓介の『夜這いの民俗学』なる本がある。この本によれば、夜這いは村単位で行われており、村の中で、一定の年齢に達した男女は、皆一斉に初体験を済ませる決まりになっていたという。
いつ初体験を行うか、というデータも、各村ごとに、赤松が調べた範囲で載っているのだが、ザッと目算したところでは、平均して大体13歳くらいで済ませているのである。
13歳。今の中一。それくらいで初体験を済ませるのが、当たり前の時代があったのだ。
ただし、これはあくまで村社会の話である。都市部においても同じ事が言えるかどうかはわからないし、江戸以前には身分もあったので、身分ごとの習慣の違いもある。皆が皆、13歳くらいで初体験を済ませていた、とは言えない。
それから、これは特に強調しておかねばならないのだが、だからと言って、「性の低年齢化には何の問題もない」というわけではない。昔、13歳くらいで初体験を済ませていたのは、それなりの事情、背景がある。
現代の日本には、結核や破傷風のような伝染病、感染症のワクチンがある。夜這いの習慣があった時代には、それがなかった。なので、子供がコロコロ死んでいた。
そんな時代において、子孫を確実に残すためにはどうしたらいいか。なるだけ早いうちからセックスをし始め、ひとりでも多く子供を設けねばならないだろう。大人だって、今と比べればだいぶ寿命が短かった。平均13歳くらいで初体験を済ませるというのは、そのような歴史的背景があればこそ、だ。今はもう、事情が違う。
ただ、日本人に貞操観念があったのは、明治以降の教育によるもので、ずっと昔からそうだったわけではない、というのはお分かりいただけるだろう。
では「お前は要するに、性の低年齢化に対して、どう考えるべきだというのか」と尋ねられたら…。
うーん……。何とも言えない。
「ごく一部に過ぎないんだから、やりたい奴は好きにやらせとけばいいんじゃないの」という気もするけど、かと言って、低年齢化を推奨するのはちょっと違うんじゃないかとも思うし、道徳教育を強化したほうがいいような気もする。何とも、判然としないのである。
ただ、射程を長くとってみれば、様子が違って見えてくることは間違いないだろう。性の低年齢化は「絶対に解消すべき大問題」としか思えなかったのが、少し違ったものに見えてくるはずだ。
射程を長くとってみることの大切さというのは、そういうことだ。
(②に続く)
オススメ関連本・高橋秀実『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』新潮文庫
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます