今日はチョコの赤ちゃんです。
「アポロ!マーブル!チョコベビー!」ってCMありましたね。明治の3大幼児向けお菓子。
僕が子供のころからありますけど、アポロやマーブルと違って、あまり食べていた記憶がありません。なんででしょうか。見た目ちょい地味で、子供心を惹きつけないからでしょうか。味は間違いないんですけどね。
チョコレートは甘い。そう、甘い話をいたしましょう。考えが甘いんじゃねーかって話。
今、「あざとい」が女性のあいだを席巻しています。あざとさを身につけることで男性を落とすのが主流になりつつあるのです。
この流れを決定づけたのは、テレビ朝日の「あざとくて何が悪いの?」だったでしょうか。田中みな実さんと弘中綾香さんという、毀誉褒貶ありながらも、その才覚でたくましくのし上がっている2人がMCであったことの影響力も大きかったと思います。
世の中、変われば変わるものです。昔とは価値観がおおいに変わっている。
「あざとい」って言い方も、以前はあまりしませんでしたからね。ひと昔前(いや、ふた昔になるでしょうか)は、「ぶりっ子」と言っていました。
昔ぶりっ子、今あざとい。言い方は違えど、やってることはほぼ同じです。肯定的か否定的かの違いがあるだけ。
アイドル時代の松田聖子さんの言動がきっかけで生まれたというぶりっ子は、否定的扱いを受けていました。
わざとらしく可愛い子ぶることで、恥も外聞もなく男に好かれようとしている。それがぶりっ子でした。
アイドルであれば、あくまで仕事としてそれをやっているわけだから、見世物の一種、パフォーマンスの一部として許容できなくもない。だけど、一般女性がそれをやるのは見苦しい。そんな考えが支配的だったように思います。
それから10~20年。ぶりっ子は死語となり、男にわざとらしく媚態で接するのはみっともないという常識は変わらぬまま、新しい世紀を迎えました。
そして現在、ぶりっ子はあざといと名を変え、肯定的に日本社会に膾炙しています。今やあざといは、市民権を得ているのです。
ぶりっ子は、男には好かれるけど、女には嫌われるものでした。でも今は、男より女のほうがあざといに肯定的です。隔世の感があります。
あざとい振る舞いが肯定的に受け入れられているのは、多様な価値観が許容されるようになったという、時代の変化もあります。とは言え、ぶりっ子は否定的な意味合いにまみれているうえ、言葉としてすでに死んでいます。
なので、新時代の要請として「あざとい」という言葉が求められたのです。否定的意味合いが檻のようにこびりついたぶりっ子は、どう磨き上げようとも肯定的には使うことができない。それに、語感が古くさい。だから、手垢の付いていない新しい言葉が必要だった。その求めに応じて生まれてきたのがあざといだったのです。
誕生の瞬間から肯定的意味合いをまとい始めた「あざとい」。それは暗に、ぶりっ子を止揚しています。「私たちはぶりっ子とは違う。もっと洗練されている」と、ぶりっ子を過去のもの、もしくは土台とすることで、否定的なものを肯定的に乗り越えたとアピールしているのです。
もちろんそのように、ハッキリと断言している人はいません。暗黙の了解としてそれは認識されているのです。
まあ、肯定的なのは別にいいんですよ。やりたい人は好きにやればいいんですからね。
でも僕は、「それってどうなんだろう」と思うんです。「それ、アホな男しか釣れないよ」って。
以前、「男に好かれる女性らしいしぐさ」というのを見たことがあります。そーゆーしぐさをまとめた、モテるためのハウツー本があって、その一部が雑誌に抜粋されていたんですね。宣伝のために紹介されていたのです。当時は、ぶりっ子が死語になって、あざといがまだ生まれていない中間期(移行期?)でした。
それを読んでみたんですけど、「ワザとらしいなぁ」って思うものばかりでした。たとえば、「自分で自分を抱きしめるしぐさをしましょう。男性は思わず守ってあげたくなります」って書いてあったんですね。
でも、普通そんなしぐさしないし、やったらどうしてもワザとらしくなってしまいます。明らかに、「ワザとやってんなコイツ」ってわかるしぐさなのです。
そのほかのしぐさというのも、いかにも可愛いと思われたくてやってますっていうのが、丸わかりなものばかりでした。
こんなワザとらしいしぐさ、やってたらすぐ、「あ、やってるな」って気づきます。少なくとも、僕はわかる。
わからないのは、アホな男だけです。アホだから、意図的な可愛いしぐさを見抜けない。
計算ずくでやってるしぐさを、能天気に「ああ、カワイイなぁ」なんて思っちゃうんです。僕からしたら、「いやいや、ワザとだろ」っていうような、露骨にやってるしぐさでも、アホ男は見抜くことができないのです。そして、コロッとだまされる。
つまり、あざといで釣れるのはアホだけなのです。マトモな男は引っかからない。
だから、「それでいいんですか?」って思うのです。「あなたたちがあざといをやったとしても、それで釣れるのはアホだけですよ」って。「寄ってくるのはアホばっかりになるけど、それでいいんですか」って。アホでもいい、むしろアホがいいと言うなら、それ以上何も言うことはありませんけれども。
あざと女とアホ男のカップリング。けっこうお似合いなのかもしれません。
「アポロ!マーブル!チョコベビー!」ってCMありましたね。明治の3大幼児向けお菓子。
僕が子供のころからありますけど、アポロやマーブルと違って、あまり食べていた記憶がありません。なんででしょうか。見た目ちょい地味で、子供心を惹きつけないからでしょうか。味は間違いないんですけどね。
チョコレートは甘い。そう、甘い話をいたしましょう。考えが甘いんじゃねーかって話。
今、「あざとい」が女性のあいだを席巻しています。あざとさを身につけることで男性を落とすのが主流になりつつあるのです。
この流れを決定づけたのは、テレビ朝日の「あざとくて何が悪いの?」だったでしょうか。田中みな実さんと弘中綾香さんという、毀誉褒貶ありながらも、その才覚でたくましくのし上がっている2人がMCであったことの影響力も大きかったと思います。
世の中、変われば変わるものです。昔とは価値観がおおいに変わっている。
「あざとい」って言い方も、以前はあまりしませんでしたからね。ひと昔前(いや、ふた昔になるでしょうか)は、「ぶりっ子」と言っていました。
昔ぶりっ子、今あざとい。言い方は違えど、やってることはほぼ同じです。肯定的か否定的かの違いがあるだけ。
アイドル時代の松田聖子さんの言動がきっかけで生まれたというぶりっ子は、否定的扱いを受けていました。
わざとらしく可愛い子ぶることで、恥も外聞もなく男に好かれようとしている。それがぶりっ子でした。
アイドルであれば、あくまで仕事としてそれをやっているわけだから、見世物の一種、パフォーマンスの一部として許容できなくもない。だけど、一般女性がそれをやるのは見苦しい。そんな考えが支配的だったように思います。
それから10~20年。ぶりっ子は死語となり、男にわざとらしく媚態で接するのはみっともないという常識は変わらぬまま、新しい世紀を迎えました。
そして現在、ぶりっ子はあざといと名を変え、肯定的に日本社会に膾炙しています。今やあざといは、市民権を得ているのです。
ぶりっ子は、男には好かれるけど、女には嫌われるものでした。でも今は、男より女のほうがあざといに肯定的です。隔世の感があります。
あざとい振る舞いが肯定的に受け入れられているのは、多様な価値観が許容されるようになったという、時代の変化もあります。とは言え、ぶりっ子は否定的な意味合いにまみれているうえ、言葉としてすでに死んでいます。
なので、新時代の要請として「あざとい」という言葉が求められたのです。否定的意味合いが檻のようにこびりついたぶりっ子は、どう磨き上げようとも肯定的には使うことができない。それに、語感が古くさい。だから、手垢の付いていない新しい言葉が必要だった。その求めに応じて生まれてきたのがあざといだったのです。
誕生の瞬間から肯定的意味合いをまとい始めた「あざとい」。それは暗に、ぶりっ子を止揚しています。「私たちはぶりっ子とは違う。もっと洗練されている」と、ぶりっ子を過去のもの、もしくは土台とすることで、否定的なものを肯定的に乗り越えたとアピールしているのです。
もちろんそのように、ハッキリと断言している人はいません。暗黙の了解としてそれは認識されているのです。
まあ、肯定的なのは別にいいんですよ。やりたい人は好きにやればいいんですからね。
でも僕は、「それってどうなんだろう」と思うんです。「それ、アホな男しか釣れないよ」って。
以前、「男に好かれる女性らしいしぐさ」というのを見たことがあります。そーゆーしぐさをまとめた、モテるためのハウツー本があって、その一部が雑誌に抜粋されていたんですね。宣伝のために紹介されていたのです。当時は、ぶりっ子が死語になって、あざといがまだ生まれていない中間期(移行期?)でした。
それを読んでみたんですけど、「ワザとらしいなぁ」って思うものばかりでした。たとえば、「自分で自分を抱きしめるしぐさをしましょう。男性は思わず守ってあげたくなります」って書いてあったんですね。
でも、普通そんなしぐさしないし、やったらどうしてもワザとらしくなってしまいます。明らかに、「ワザとやってんなコイツ」ってわかるしぐさなのです。
そのほかのしぐさというのも、いかにも可愛いと思われたくてやってますっていうのが、丸わかりなものばかりでした。
こんなワザとらしいしぐさ、やってたらすぐ、「あ、やってるな」って気づきます。少なくとも、僕はわかる。
わからないのは、アホな男だけです。アホだから、意図的な可愛いしぐさを見抜けない。
計算ずくでやってるしぐさを、能天気に「ああ、カワイイなぁ」なんて思っちゃうんです。僕からしたら、「いやいや、ワザとだろ」っていうような、露骨にやってるしぐさでも、アホ男は見抜くことができないのです。そして、コロッとだまされる。
つまり、あざといで釣れるのはアホだけなのです。マトモな男は引っかからない。
だから、「それでいいんですか?」って思うのです。「あなたたちがあざといをやったとしても、それで釣れるのはアホだけですよ」って。「寄ってくるのはアホばっかりになるけど、それでいいんですか」って。アホでもいい、むしろアホがいいと言うなら、それ以上何も言うことはありませんけれども。
あざと女とアホ男のカップリング。けっこうお似合いなのかもしれません。
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