怪しい俗説。
巷間まことしやかに囁かれているものの、何の科学的実証も、根拠も、裏付けもないもの、それが俗説である。
小生にも、胡散臭く感じている説がある。
それは、人は死を意識すると、種を残す本能が働き、セックスがしたくなる、というもの。
まず、死を意識すると本能が働く、という点。これはまあ、ありそうな気がする。
しかし何故「種を残す本能」になるのだろうか。
自分の身に危険が及んでいるのであれば、個体維持の本能が働くべきで、行動としては、その場から速やかに逃げるべきではないのか。
考えてもみてほしい。セックスにより受精に成功したとしても、母体が死んでしまえば無意味ではないか。セックスした男女のうちの、女だけでも生き延びることができれば、生殖を果たしたことになるが、そうそう都合よくいくとは限らない。
ということは、やはりこれはただの俗説であり、デタラメに過ぎないのか。
元外務省外交官の佐藤優は、三等書記官として1988年よりモスクワに赴任し、ソ連の体制が崩壊する様を、内側から目の当たりにすることになる。その崩壊の過程で、91年1月に、リトアニアの首都ビリニュスで、独立派とソ連軍との衝突が起きる。情報を収集すべく現地入りした佐藤は、独立派が立て籠っている最高会議建物へと向かう。以下はその記述である。
その夜、私は再びあごひげ外交官とともに最高会議建物に入った。ランズベルギス議長にひとこと挨拶をしないかと言われたからだ。議長執務室の前はジャーナリストや面会希望者であふれかえっていたが、あごひげ外交官は私の手を引き、会談の中に割り込んで、議長と引き合わせてくれた。
(中略)
議長執務室に向かうときは気が急いていたためか気付かなかったが、至るところにガスマスクを詰めた箱が置いてある。あごひげ外交官に理由を尋ねると、ソ連軍が突入するときは、恐らく運動機能が麻痺する毒ガスを打ち込んでくるので、それに対処するためにガスマスクを持ち込んだのだという。
(中略)
ふと、バリケードの隅の暗闇で何かが動く気配がした。よく見ると、毛布にくるまった男女がセックスをしている。注意深く観察すると、そこここで、毛布や寝袋に入った男女がセックスをしているのがわかった。私が驚いている様子を見て、あごひげ外交官が言った。
「そろそろ緊張が限界に達しているのだよ。緊張が高まると子孫を残したいという本能が刺激されてものすごくセックスをしたくなる」
(佐藤優『自壊する帝国』新潮社)
さて、この時の佐藤の体験が事実だとすると、俗説は真理ということになるのだろうか。
どうしても腑に落ちない。別の角度から考えてみたい。
オーガズムとは、小さな死、だという。
この小さな死というのは、どういう意味か。様々な解釈があると思うが、独自の見解を述べてみたい。
人は、普段は確固とした自己を持っている。こっからここまでが自分で、そこから外は外界(他人および世界)という認識。その認識が精神的安定をもたらし、平穏な社会生活を営むための条件となっている。
しかし、セックス時にオーガズムを迎える刹那には、その自己が揺らぐ。明瞭なものであったはずの自己の境界線が崩れる。自己は溶解し、相手の自己、もしくは世界と混じり、絡み合い、不可分なものとなる。
確固としたものとして存在していたはずの自己、外界との間に境目を築いていたはずの自己。それが曖昧になってしまう瞬間。それが小さな死。
それはやがて必ず訪れるであろう本当の死(=大きな死)を、小規模ながら先取りして体験している、ということだ。小さな死を経験することにより、大きな死を部分的に捉えることができる。その積み重ねにより、大きな死の仮のデータを集積し、足りないところは想像で補い、大きな死を、大づかみで把握する。
そうすることで、大きな死に備えることができる。
死ぬというのは、恐ろしいことだ。誰もが死にたくないと思っている。だが、その死が、どうしても避けられないものとなった時、人はどうするか。小さな死を体験することにより、大きな死を迎えるための心構えを作りたい、となるのではないか。小さな死は、大きな死を受け入れるための練習なのではないか。
もちろん大きな死がどのようなものであるか、というのは、実際にその時を迎えてみないとわからない。小さな死に基づく仮体験、推測は、全て的はずれで、それらとは全くの別物である可能性は、大いにある。
しかしそれでも、こういうものではないか、という推測は、心構えを生む。心構えは、恐怖心を和らげてくれる。推測が当たっていようがいまいが、大きな死を受け入れる覚悟ができる。
大きな死に対する恐怖を和らげるために小さな死を味わいたい、つまりはセックスしたい、となるのではないだろうか。
この仮説も俗説の域を出ないものだが、少なくとも「種を残す本能が働く」という説明よりは説得力があると思うが、どうか。
オススメ関連本・岸田秀『ものぐさ精神分析』中公文庫
巷間まことしやかに囁かれているものの、何の科学的実証も、根拠も、裏付けもないもの、それが俗説である。
小生にも、胡散臭く感じている説がある。
それは、人は死を意識すると、種を残す本能が働き、セックスがしたくなる、というもの。
まず、死を意識すると本能が働く、という点。これはまあ、ありそうな気がする。
しかし何故「種を残す本能」になるのだろうか。
自分の身に危険が及んでいるのであれば、個体維持の本能が働くべきで、行動としては、その場から速やかに逃げるべきではないのか。
考えてもみてほしい。セックスにより受精に成功したとしても、母体が死んでしまえば無意味ではないか。セックスした男女のうちの、女だけでも生き延びることができれば、生殖を果たしたことになるが、そうそう都合よくいくとは限らない。
ということは、やはりこれはただの俗説であり、デタラメに過ぎないのか。
元外務省外交官の佐藤優は、三等書記官として1988年よりモスクワに赴任し、ソ連の体制が崩壊する様を、内側から目の当たりにすることになる。その崩壊の過程で、91年1月に、リトアニアの首都ビリニュスで、独立派とソ連軍との衝突が起きる。情報を収集すべく現地入りした佐藤は、独立派が立て籠っている最高会議建物へと向かう。以下はその記述である。
その夜、私は再びあごひげ外交官とともに最高会議建物に入った。ランズベルギス議長にひとこと挨拶をしないかと言われたからだ。議長執務室の前はジャーナリストや面会希望者であふれかえっていたが、あごひげ外交官は私の手を引き、会談の中に割り込んで、議長と引き合わせてくれた。
(中略)
議長執務室に向かうときは気が急いていたためか気付かなかったが、至るところにガスマスクを詰めた箱が置いてある。あごひげ外交官に理由を尋ねると、ソ連軍が突入するときは、恐らく運動機能が麻痺する毒ガスを打ち込んでくるので、それに対処するためにガスマスクを持ち込んだのだという。
(中略)
ふと、バリケードの隅の暗闇で何かが動く気配がした。よく見ると、毛布にくるまった男女がセックスをしている。注意深く観察すると、そこここで、毛布や寝袋に入った男女がセックスをしているのがわかった。私が驚いている様子を見て、あごひげ外交官が言った。
「そろそろ緊張が限界に達しているのだよ。緊張が高まると子孫を残したいという本能が刺激されてものすごくセックスをしたくなる」
(佐藤優『自壊する帝国』新潮社)
さて、この時の佐藤の体験が事実だとすると、俗説は真理ということになるのだろうか。
どうしても腑に落ちない。別の角度から考えてみたい。
オーガズムとは、小さな死、だという。
この小さな死というのは、どういう意味か。様々な解釈があると思うが、独自の見解を述べてみたい。
人は、普段は確固とした自己を持っている。こっからここまでが自分で、そこから外は外界(他人および世界)という認識。その認識が精神的安定をもたらし、平穏な社会生活を営むための条件となっている。
しかし、セックス時にオーガズムを迎える刹那には、その自己が揺らぐ。明瞭なものであったはずの自己の境界線が崩れる。自己は溶解し、相手の自己、もしくは世界と混じり、絡み合い、不可分なものとなる。
確固としたものとして存在していたはずの自己、外界との間に境目を築いていたはずの自己。それが曖昧になってしまう瞬間。それが小さな死。
それはやがて必ず訪れるであろう本当の死(=大きな死)を、小規模ながら先取りして体験している、ということだ。小さな死を経験することにより、大きな死を部分的に捉えることができる。その積み重ねにより、大きな死の仮のデータを集積し、足りないところは想像で補い、大きな死を、大づかみで把握する。
そうすることで、大きな死に備えることができる。
死ぬというのは、恐ろしいことだ。誰もが死にたくないと思っている。だが、その死が、どうしても避けられないものとなった時、人はどうするか。小さな死を体験することにより、大きな死を迎えるための心構えを作りたい、となるのではないか。小さな死は、大きな死を受け入れるための練習なのではないか。
もちろん大きな死がどのようなものであるか、というのは、実際にその時を迎えてみないとわからない。小さな死に基づく仮体験、推測は、全て的はずれで、それらとは全くの別物である可能性は、大いにある。
しかしそれでも、こういうものではないか、という推測は、心構えを生む。心構えは、恐怖心を和らげてくれる。推測が当たっていようがいまいが、大きな死を受け入れる覚悟ができる。
大きな死に対する恐怖を和らげるために小さな死を味わいたい、つまりはセックスしたい、となるのではないだろうか。
この仮説も俗説の域を出ないものだが、少なくとも「種を残す本能が働く」という説明よりは説得力があると思うが、どうか。
オススメ関連本・岸田秀『ものぐさ精神分析』中公文庫
実はこの俗説、自分はかなり信じ込んでいました。というのも、かつて自分が大げさながら死を覚悟した病に見舞われた時、むしょうに自慰にのめりこんだことがあったものですから(笑)現実逃避したかったと言えば、それまでですが、不思議と気持ちが落ち着き心身の苦痛も和らぎました。
生物の中には熱狂的な交尾の後に個体の死を迎えるものも少なくありません。やはり死と性は隣り合わせであるような気がしています。
にほんブログ村の「最初に書いたブログトーナメント」、これヨミトさんが作成されてたんですね。
作成者名の表示がないのでわかりませんでした。
本論ではセックスにのみ焦点を当てて理論を展開していますが、セックスと自慰の相違について考えてみるのも面白いかもしれませんね。
それにしても、この古い記事にコメントつけていただけるとは思ってもみませんでした。嬉しいです。