今日はブランのチュールです。
ホワイトチョコをラングドシャで挟んだもの。誰かクッキーとラングドシャの違いを教えてください。ホワイトチョコはたまに食べると非常に美味しいですね。
前々から考えていることを話します。ミュージシャンが使う定型的な歌詞ってあるじゃないですか。「面と向かうと好きだと言えない」とか、「ちっぽけな僕だけど」とか、「夢はゼッテーかなうぜ」とか。
それら定型文のひとつに、「教科書を批判する」のがありますよね。「教科書なんかどうでもいいんだ」とか、「教科書に従うな」とかね。
最近の音楽にはあまり使われていないのかもしれませんけど、1990年代にはよく耳にしました。
これは決まりきった形の否定、ならびに権力や権威への反発というメッセージです。そのような意味で「教科書のバカヤロー」と叫んでいるのです。「キミはもっと自由でいいんだよ」、「規則に縛られる必要なんかないんだよ」というわけです。すごく前向きで、力強いメッセージに聞こえます。
でも僕は「ちょっとまてよ」と思うのです。「教科書ばっかワルモノにして、かわいそうじゃない?」と。
なんか、安易だと思うんですよね。形式の否定、権威の否定のために教科書を悪く言う。そうすりゃ権力にとらわれない自由なミュージシャン一丁あがり、ってわけですよ。
そういうのがちょっとズルいというかね、「教科書ワルモノにしてればそれでいいと思ってんのか」って言いたくなるんですよね。少し教科書が不憫というかね。学校も勉強もそんなに好きだったわけではないんですけど、教科書をかばってやりたくなるんですよ。あまりにもミュージシャンに攻撃されるから。
定型とか権威を否定するのであれば、攻撃する対象はもっと他にあるんじゃないかって思うんですけど、教科書ばかりが集中砲火を浴びてますからね。都合のいいスケープゴートというかね。
もっと言うとですよ、「教科書に縛られるな」ってのは決まりきった形の否定ですけど、それが頻繁に使われるようになると、歌の定型文になるわけですよね。そしたら、「教科書批判」自体が決まりきった形になってしまうわけですよ。そうでしょ?
「形にとらわれるな」というメッセージを、形にとらわれながら発しているわけです。笑い話のような倒錯ではありませんか。
これは、権威を否定しても別の権威に寄りかからずにはいられないとか、自分自身がひとつの権威になってしまうという、厄介な問題とも絡んできます。
しかしなんにせよ、「形にとらわれるな」って言うのなら、まず自分がオリジナリティを追求しろって話ですよ。音楽市場がけっこう大きくなっているので、ミュージシャンの数も増えていて、なかなかオリジナリティを出すのも難しいっていう事情もあるんですけどね。
マキタスポーツやパーマ大佐がネタとしてやっていたのを、今じゃ岡崎体育が本格的に取り入れています。
とにかく教科書いじめはもうやめていただきたいですね。教科書は必要なものですよ。教科書になじめない人もいるでしょうけど、この世で生きていくうえでは、規範的な形を学んでいたほうがいいに決まっています。
ミュージシャンが教科書をワルモノにするのなら、僕は教科書を弁護しますよ。
そう、だからミュージシャンもね、オリジナリティを出したいのであれば、教科書を肯定するべきなんですよ。「教科書に従おう」「キミは形にはまったほうがいい」って歌うんです。
自由を否定するメッセージ。これは新しいですよ。そのミュージシャンは個性のかたまりと絶賛されるでしょう。
え?そんな歌売れるのかって?
売れるワケねーだろ!!
ホワイトチョコをラングドシャで挟んだもの。誰かクッキーとラングドシャの違いを教えてください。ホワイトチョコはたまに食べると非常に美味しいですね。
前々から考えていることを話します。ミュージシャンが使う定型的な歌詞ってあるじゃないですか。「面と向かうと好きだと言えない」とか、「ちっぽけな僕だけど」とか、「夢はゼッテーかなうぜ」とか。
それら定型文のひとつに、「教科書を批判する」のがありますよね。「教科書なんかどうでもいいんだ」とか、「教科書に従うな」とかね。
最近の音楽にはあまり使われていないのかもしれませんけど、1990年代にはよく耳にしました。
これは決まりきった形の否定、ならびに権力や権威への反発というメッセージです。そのような意味で「教科書のバカヤロー」と叫んでいるのです。「キミはもっと自由でいいんだよ」、「規則に縛られる必要なんかないんだよ」というわけです。すごく前向きで、力強いメッセージに聞こえます。
でも僕は「ちょっとまてよ」と思うのです。「教科書ばっかワルモノにして、かわいそうじゃない?」と。
なんか、安易だと思うんですよね。形式の否定、権威の否定のために教科書を悪く言う。そうすりゃ権力にとらわれない自由なミュージシャン一丁あがり、ってわけですよ。
そういうのがちょっとズルいというかね、「教科書ワルモノにしてればそれでいいと思ってんのか」って言いたくなるんですよね。少し教科書が不憫というかね。学校も勉強もそんなに好きだったわけではないんですけど、教科書をかばってやりたくなるんですよ。あまりにもミュージシャンに攻撃されるから。
定型とか権威を否定するのであれば、攻撃する対象はもっと他にあるんじゃないかって思うんですけど、教科書ばかりが集中砲火を浴びてますからね。都合のいいスケープゴートというかね。
もっと言うとですよ、「教科書に縛られるな」ってのは決まりきった形の否定ですけど、それが頻繁に使われるようになると、歌の定型文になるわけですよね。そしたら、「教科書批判」自体が決まりきった形になってしまうわけですよ。そうでしょ?
「形にとらわれるな」というメッセージを、形にとらわれながら発しているわけです。笑い話のような倒錯ではありませんか。
これは、権威を否定しても別の権威に寄りかからずにはいられないとか、自分自身がひとつの権威になってしまうという、厄介な問題とも絡んできます。
しかしなんにせよ、「形にとらわれるな」って言うのなら、まず自分がオリジナリティを追求しろって話ですよ。音楽市場がけっこう大きくなっているので、ミュージシャンの数も増えていて、なかなかオリジナリティを出すのも難しいっていう事情もあるんですけどね。
マキタスポーツやパーマ大佐がネタとしてやっていたのを、今じゃ岡崎体育が本格的に取り入れています。
とにかく教科書いじめはもうやめていただきたいですね。教科書は必要なものですよ。教科書になじめない人もいるでしょうけど、この世で生きていくうえでは、規範的な形を学んでいたほうがいいに決まっています。
ミュージシャンが教科書をワルモノにするのなら、僕は教科書を弁護しますよ。
そう、だからミュージシャンもね、オリジナリティを出したいのであれば、教科書を肯定するべきなんですよ。「教科書に従おう」「キミは形にはまったほうがいい」って歌うんです。
自由を否定するメッセージ。これは新しいですよ。そのミュージシャンは個性のかたまりと絶賛されるでしょう。
え?そんな歌売れるのかって?
売れるワケねーだろ!!
教科書よりも教師に従いたくないです
教科書よりも教師に従いたくないです
教師をほぼ知らない
従いたくないけど従って生きてます
あまりいないので、尊敬したことありません
普通に接してます
そうすると結構嫌われます