今日は焼き菓子カーニバルです。
これだけ上質なものをお手頃な値段で買えるのですよ。これを企業努力と呼ばずしてなんと呼ぶ。蒼山日菜切り絵デザインのパッケージ。
方言の話をします。九州弁の話。
九州弁・・・と言っても、九州全土を含むのかどうかはわかりませんが、とにかく九州の広い地域に、「なおす」という方言があります。少なくとも、福岡と熊本では使われています。
なんという意味なのか、どんなときに使うのか。混乱が起きる一例をあげます。
九州出身の先生が、本州の小学校に赴任しました。授業中、先生が生徒に「教科書をなおしなさい」と言うと、生徒から「どこもやぶれていません」という答えが返ってきました。
どのような齟齬が起きたのか、おわかりでしょうか。
九州弁で「なおす」とは、「しまう」という意味なのです。先生は「教科書を(机に)しまいなさい」と伝えたかった。しかし九州以外で「なおす」は「修復する」という意味。だから生徒は、どこもやぶれていないのに、なぜなおさねばならないのか、と思ったのですね。
じゃあ、九州で「修復する」はなんと言うのか、と思われるでしょう。「修復する」も「なおす」なのです。「なおす」には、「しまう」と「修復する」の2つの意味があるのです。
どちらの意味も同じ「なおす」によって指し示されるのですが、九州人は、文脈によって2つの意味を判別することができるのです。この場合の「なおす」は「しまう」のことで、この場合の「なおす」は「修復する」のことだ、と。
僕は以前、イベント運営の仕事をしていたのですが、そこでも同様の混乱が見られました。福岡で開催されたコンサートに、九州外のお客さんが来たとき、「ケータイを(鞄に)なおしてください」とお願いして、意味が通じないことがあったのです。
この方言の厄介なところは、明らかに方言とわかる方言ではないことです。例えば、「せからしか」という方言があります。「うるさい」とか「わずらわしい」という意味です。この「せからしか」であれば、九州外の人にとって聞いたことのない言葉なので、すぐに方言であることがわかります。「それどういう意味?」と質問すればいい。
でも「なおす」は、方言でもあり、標準語でもあるのです。だから方言なのだと気づかれず、誤解が長引きやすい。おおいに混乱を招く方言なのです。
そして、標準語でもあるからこそ、「なおす」を使っている当の九州人は、それが方言であると気づかない。標準語を話していると思い込んでいるのです。
「なおす」には、「しまう」と「修復する」の2つの意味があることはわかっているのですが、それが九州内のローカルルールであることを知らないのです。これが標準語でもあり、方言でもある言葉の、まぎらわしいところなのです。
ちなみに、九州人も「しまう」という言葉は一応知っており、使うこともあるにはあるのですが、「なおす」で代用できてしまうため、使用頻度はあまり高くありません。
九州の人は、「なおす」が方言であるという自覚をもって、本州の人との交流を図りましょう。本州の人は、九州人が「なおす」を「しまう」という意味で使うことを理解したうえで接してあげましょう。
おいでよ、九州!
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
最近中国じゃコロナに感染したことのある人しか雇用しないっつー職場が増えてるそうですね。すでに感染していれば免疫ができてるから再感染する確率低いし、仮に感染しても症状が軽くて済むから、感染経験者のほうが安全だという判断です。
なんか中国って、そのへんすごく合理主義的ですよね。ひたすら感染を避けようとする日本とは違います。
日本では、コロナが流行りだしてから、人々が除菌を強く意識するようになりました。その結果、インフルエンザの感染者まで激減するという、副次的影響まで起きています。
んで、お医者さんが言うには、感染者が激減したせいで、日本人全体のインフルの抵抗力が弱まってるそうなんですね。感染すれば免疫ができるけど、感染者数が減少しているぶん、免疫がある人も減っていると。
そーすっと、感染者が減れば減るほど、いずれ反動で大きな流行がくる、ってことですよ。インフルエンザがなくならない以上、これは避けられないことです。今現在の感染者を減少させれば、反動で翌年以降の感染者が増える。ということは、どのような対策を採ろうと、トータルでの感染者数はほぼ変わらないということです。
なら、一定の感染者・一定の致死者が出るのはやむを得ないものと割り切るしかありません。コロナにかんしてもそうでしょう。
感染症って、人口の問題でもありますよね。人口、および人口密度。
現在の世界人口、約80億人ですか。去年80億を突破したそうですね。感染症は、人と人との接触によって引き起こされます。だから、パンデミックの大きさは、人口の多さと比例しているわけです。人口が多ければ多いほど感染の規模が大きくなる。だからこそ中国の感染が際立つのですね。
公衆衛生が劣悪だったり、ウイルスの知識がなかったり、ワクチンが発明されていなかった時代であれば、それらが感染の大きな要因になっていたでしょうけど、今やそれらの要素は取り除かれています(そうじゃない国もありますけど)。人の数の多さ、不特定多数の人々が接触する機会の増加が感染のおもな要因になっているのです。
神様目線で言うならば、「お前らちょっと増えすぎてんだよ」ってことですね。人口が増えることそれ自体は、いいことでも悪いことでもありませんけど、このまま増え続ければ食料不足・水不足・資源不足・エネルギー不足が起きるという警鐘もずっと前から鳴らされてますし、「いかにして人口を抑制するか」を地球規模で真剣に考えなくてはいけない時期にさしかかっているのではないでしょうか。
「コロナは神様が人間を減らすためにもたらされた」ということではないですよ。もう感染症として定着してしまった以上、避けることはできないのだから、人口政策を見直すためのファクターとして取り入れるべきではないか、ということです。
これだけ上質なものをお手頃な値段で買えるのですよ。これを企業努力と呼ばずしてなんと呼ぶ。蒼山日菜切り絵デザインのパッケージ。
方言の話をします。九州弁の話。
九州弁・・・と言っても、九州全土を含むのかどうかはわかりませんが、とにかく九州の広い地域に、「なおす」という方言があります。少なくとも、福岡と熊本では使われています。
なんという意味なのか、どんなときに使うのか。混乱が起きる一例をあげます。
九州出身の先生が、本州の小学校に赴任しました。授業中、先生が生徒に「教科書をなおしなさい」と言うと、生徒から「どこもやぶれていません」という答えが返ってきました。
どのような齟齬が起きたのか、おわかりでしょうか。
九州弁で「なおす」とは、「しまう」という意味なのです。先生は「教科書を(机に)しまいなさい」と伝えたかった。しかし九州以外で「なおす」は「修復する」という意味。だから生徒は、どこもやぶれていないのに、なぜなおさねばならないのか、と思ったのですね。
じゃあ、九州で「修復する」はなんと言うのか、と思われるでしょう。「修復する」も「なおす」なのです。「なおす」には、「しまう」と「修復する」の2つの意味があるのです。
どちらの意味も同じ「なおす」によって指し示されるのですが、九州人は、文脈によって2つの意味を判別することができるのです。この場合の「なおす」は「しまう」のことで、この場合の「なおす」は「修復する」のことだ、と。
僕は以前、イベント運営の仕事をしていたのですが、そこでも同様の混乱が見られました。福岡で開催されたコンサートに、九州外のお客さんが来たとき、「ケータイを(鞄に)なおしてください」とお願いして、意味が通じないことがあったのです。
この方言の厄介なところは、明らかに方言とわかる方言ではないことです。例えば、「せからしか」という方言があります。「うるさい」とか「わずらわしい」という意味です。この「せからしか」であれば、九州外の人にとって聞いたことのない言葉なので、すぐに方言であることがわかります。「それどういう意味?」と質問すればいい。
でも「なおす」は、方言でもあり、標準語でもあるのです。だから方言なのだと気づかれず、誤解が長引きやすい。おおいに混乱を招く方言なのです。
そして、標準語でもあるからこそ、「なおす」を使っている当の九州人は、それが方言であると気づかない。標準語を話していると思い込んでいるのです。
「なおす」には、「しまう」と「修復する」の2つの意味があることはわかっているのですが、それが九州内のローカルルールであることを知らないのです。これが標準語でもあり、方言でもある言葉の、まぎらわしいところなのです。
ちなみに、九州人も「しまう」という言葉は一応知っており、使うこともあるにはあるのですが、「なおす」で代用できてしまうため、使用頻度はあまり高くありません。
九州の人は、「なおす」が方言であるという自覚をもって、本州の人との交流を図りましょう。本州の人は、九州人が「なおす」を「しまう」という意味で使うことを理解したうえで接してあげましょう。
おいでよ、九州!
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
最近中国じゃコロナに感染したことのある人しか雇用しないっつー職場が増えてるそうですね。すでに感染していれば免疫ができてるから再感染する確率低いし、仮に感染しても症状が軽くて済むから、感染経験者のほうが安全だという判断です。
なんか中国って、そのへんすごく合理主義的ですよね。ひたすら感染を避けようとする日本とは違います。
日本では、コロナが流行りだしてから、人々が除菌を強く意識するようになりました。その結果、インフルエンザの感染者まで激減するという、副次的影響まで起きています。
んで、お医者さんが言うには、感染者が激減したせいで、日本人全体のインフルの抵抗力が弱まってるそうなんですね。感染すれば免疫ができるけど、感染者数が減少しているぶん、免疫がある人も減っていると。
そーすっと、感染者が減れば減るほど、いずれ反動で大きな流行がくる、ってことですよ。インフルエンザがなくならない以上、これは避けられないことです。今現在の感染者を減少させれば、反動で翌年以降の感染者が増える。ということは、どのような対策を採ろうと、トータルでの感染者数はほぼ変わらないということです。
なら、一定の感染者・一定の致死者が出るのはやむを得ないものと割り切るしかありません。コロナにかんしてもそうでしょう。
感染症って、人口の問題でもありますよね。人口、および人口密度。
現在の世界人口、約80億人ですか。去年80億を突破したそうですね。感染症は、人と人との接触によって引き起こされます。だから、パンデミックの大きさは、人口の多さと比例しているわけです。人口が多ければ多いほど感染の規模が大きくなる。だからこそ中国の感染が際立つのですね。
公衆衛生が劣悪だったり、ウイルスの知識がなかったり、ワクチンが発明されていなかった時代であれば、それらが感染の大きな要因になっていたでしょうけど、今やそれらの要素は取り除かれています(そうじゃない国もありますけど)。人の数の多さ、不特定多数の人々が接触する機会の増加が感染のおもな要因になっているのです。
神様目線で言うならば、「お前らちょっと増えすぎてんだよ」ってことですね。人口が増えることそれ自体は、いいことでも悪いことでもありませんけど、このまま増え続ければ食料不足・水不足・資源不足・エネルギー不足が起きるという警鐘もずっと前から鳴らされてますし、「いかにして人口を抑制するか」を地球規模で真剣に考えなくてはいけない時期にさしかかっているのではないでしょうか。
「コロナは神様が人間を減らすためにもたらされた」ということではないですよ。もう感染症として定着してしまった以上、避けることはできないのだから、人口政策を見直すためのファクターとして取り入れるべきではないか、ということです。
直すと治すを書き間違えそうになります
間違えても意味通じるでしょ。
方言とかかわる機会もないですか。
ひとつ思い出しました
固いのをこわいっていうのがマジで混乱しましたね
何がこわいんだ?って
あと、なんか注文した後で、以上をときにっていう人がいて
毎回イライラしてました
ときにってのは聞いたことないですね。
どこの方言ですか。
長野の飲食店で働いていたときに
注文は以上で?みたいなことを聞くと高確率で
ときに
と言われてイライラしてました
なんでか分からないけど、ときにがめっちゃ嫌いだったのを思い出しました
なんでときになのか、ちょっとわかりませんね。