今日は柔らかなアメリカンです。
大きめのチョコチップとマカデミアナッツ(マカダミアじゃなくて、マカデミアなんですね)がしっとり生地にベストマッチ。アメリカの風を感じながら敗戦をかみしめましょう。ああ、「リンゴの唄」が聴こえてくる。
あ、ちなみにこれ余談なんですけどね、僕、以前介護施設に勤めてまして、お年寄りと一緒に歌えるようにと思って「リンゴの唄」の歌詞を覚えたんですよ。「リンゴの唄」、4番まであるんですけどね。
ですけどね、お年寄りって、ほとんど1番しか知らないんですよ。僕が接した中で、2番以降を歌える人はいませんでした。せっかく覚えたのに、役に立たなかったのです。
なんででしょうね?理由をご存じの方、いらっしゃったら教えてください。
これね、僕が小学生のころ、たしか3,4年生だったと思いますけど、夏の暑い日に授業が行われていた時の話です。当時は教室にエアコンも付いてないので、窓を開け放って風を入れるしかありませんでした。
かなり暑かったので、何人かの生徒が、下敷きをうちわ代わりにしてあおいでいました。教室には、下敷きがクニャクニャいう音が、かすかに鳴っていたと思います。
すると突然、それまで淡々と授業を進行していた男の先生が、「下敷きであおぐのはやめなさい。先生だってガマンしながらやってるんだ。君たちもガマンしなさい」と言いました。教師と生徒の上下関係が絶対で、厳しい先生が多かった時代でしたし、その先生の言い分ももっともらしかったので、みんな下敷きであおぐのをピタリとやめました。そして、音がやんだ教室には、先生の声だけが響いていました。
この先生の指示、今となっては明らかにおかしいと言えます。
なぜ下敷きであおいではいけないのでしょうか。
それは、先生が勝手に定めたマナーでしかありません。下敷きであおいだら、何か問題が起こるでしょうか。ほんの些細な下敷きの音が起こるだけで、それ以外、これといった害は発生しないでしょう。
では、下敷きであおぐことを禁止したらどうでしょうか。生徒たちは暑さにやられてしまい、集中力がいくらか低下するでしょう。
教師の話を真面目に聞き、授業内容のよりよい理解を求めるならば、下敷きであおぐのを容認すべきなのです。それが合理的な判断というものです。先生だって、うちわや扇子であおげばいい。
しかし、その先生はそうは考えなかった。暑さをガマンし、下敷きであおがないという、授業態度の外的な美観を第一とし、生徒の集中力の低下のおそれを気にかけることはなかった。たぶん、生徒がちゃんと自分の話を聞いているかどうかや、授業の内容を理解できているかどうかといった、本当に重要なことのほうに思いをいたすことはなかったのでしょう。
また、これはどこかの記事で読んだ話で、たしかアメリカのハイスクールの出来事だったと思いますけど、日本から留学していった女の子が、学校の授業形式に驚いたという、文化の違いを示すカルチャーショック的な話なんですけど、アメリカのハイスクールは、授業中に飲食してもいいらしいんですね(その子の留学先の学校だけがそうだったのかもしれませんが)。
授業中にポップコーンを食べたり、ジュースを飲んだりしてる生徒がいた。女の子は驚いたけど、それが当たり前の光景で、みんな平然としている。ただ、飲み食いしながらも、すごく授業に集中していて、真剣に教科書を眺め、教師の話に聞き入っていたそうです。
僕はこのハイスクールに、合理主義の理想形を見ます。なぜ授業中の飲食が許されているのか。それは、飲み食いすることで集中力が高まるなら、飲み食いを認めたほうがいいという、合理的な判断によるものです。水分補給や栄養補給で頭がより回るようになるならば、それを認めるべき、ということです。
もちろんお国柄というのもあります。あちらさんは西部開拓時代からの伝統で、自主独立の国。自分のことは自分で決めるという気風で、国にせよ学校にせよ、上から決まりを過剰に押しつけられることを好まない。
ロックダウンやらワクチン接種の義務化やら、昨今のコロナ政策に対する反発も、「自分のことは自分で決めさせろ」という国民性の表れなのです。だから授業中に飲食できるのは、できるだけ校則を緩くしておこうという、自由を重んじる精神の産物でもあります。しかし、自由を尊重したうえで合理主義的に考えると、授業中に飲食できるほうが学びの質が上がるという結論が出ます。
それは、何が一番重要であるかの共通認識が出来上がっている、ということでもあります。大切なのは、授業態度という「見た目」ではない。教師が教えている内容を理解できているかどうかです。
ところが日本の教育現場は、往々にしてそうはなっていない。どうでもいい外観ばかりを過剰にこだわり、生徒の理解の度合いは意識の埒外にある。これは倒錯にほかなりません。
必要のないこまごまとした校則で生徒を縛りつける、いわゆる「ブラック校則」も、この倒錯の産物でしょう。どうでもいい外観ばかりを取り締まり、生徒の内面や、いじめが起きているかどうかにはまったく気づけていないでいる。
本当に大切なものは何なのか?日本の教育現場が思考停止から脱却し、真に守るべきものを守れるようになるのは、いつの日になるのでしょうか。
大きめのチョコチップとマカデミアナッツ(マカダミアじゃなくて、マカデミアなんですね)がしっとり生地にベストマッチ。アメリカの風を感じながら敗戦をかみしめましょう。ああ、「リンゴの唄」が聴こえてくる。
あ、ちなみにこれ余談なんですけどね、僕、以前介護施設に勤めてまして、お年寄りと一緒に歌えるようにと思って「リンゴの唄」の歌詞を覚えたんですよ。「リンゴの唄」、4番まであるんですけどね。
ですけどね、お年寄りって、ほとんど1番しか知らないんですよ。僕が接した中で、2番以降を歌える人はいませんでした。せっかく覚えたのに、役に立たなかったのです。
なんででしょうね?理由をご存じの方、いらっしゃったら教えてください。
これね、僕が小学生のころ、たしか3,4年生だったと思いますけど、夏の暑い日に授業が行われていた時の話です。当時は教室にエアコンも付いてないので、窓を開け放って風を入れるしかありませんでした。
かなり暑かったので、何人かの生徒が、下敷きをうちわ代わりにしてあおいでいました。教室には、下敷きがクニャクニャいう音が、かすかに鳴っていたと思います。
すると突然、それまで淡々と授業を進行していた男の先生が、「下敷きであおぐのはやめなさい。先生だってガマンしながらやってるんだ。君たちもガマンしなさい」と言いました。教師と生徒の上下関係が絶対で、厳しい先生が多かった時代でしたし、その先生の言い分ももっともらしかったので、みんな下敷きであおぐのをピタリとやめました。そして、音がやんだ教室には、先生の声だけが響いていました。
この先生の指示、今となっては明らかにおかしいと言えます。
なぜ下敷きであおいではいけないのでしょうか。
それは、先生が勝手に定めたマナーでしかありません。下敷きであおいだら、何か問題が起こるでしょうか。ほんの些細な下敷きの音が起こるだけで、それ以外、これといった害は発生しないでしょう。
では、下敷きであおぐことを禁止したらどうでしょうか。生徒たちは暑さにやられてしまい、集中力がいくらか低下するでしょう。
教師の話を真面目に聞き、授業内容のよりよい理解を求めるならば、下敷きであおぐのを容認すべきなのです。それが合理的な判断というものです。先生だって、うちわや扇子であおげばいい。
しかし、その先生はそうは考えなかった。暑さをガマンし、下敷きであおがないという、授業態度の外的な美観を第一とし、生徒の集中力の低下のおそれを気にかけることはなかった。たぶん、生徒がちゃんと自分の話を聞いているかどうかや、授業の内容を理解できているかどうかといった、本当に重要なことのほうに思いをいたすことはなかったのでしょう。
また、これはどこかの記事で読んだ話で、たしかアメリカのハイスクールの出来事だったと思いますけど、日本から留学していった女の子が、学校の授業形式に驚いたという、文化の違いを示すカルチャーショック的な話なんですけど、アメリカのハイスクールは、授業中に飲食してもいいらしいんですね(その子の留学先の学校だけがそうだったのかもしれませんが)。
授業中にポップコーンを食べたり、ジュースを飲んだりしてる生徒がいた。女の子は驚いたけど、それが当たり前の光景で、みんな平然としている。ただ、飲み食いしながらも、すごく授業に集中していて、真剣に教科書を眺め、教師の話に聞き入っていたそうです。
僕はこのハイスクールに、合理主義の理想形を見ます。なぜ授業中の飲食が許されているのか。それは、飲み食いすることで集中力が高まるなら、飲み食いを認めたほうがいいという、合理的な判断によるものです。水分補給や栄養補給で頭がより回るようになるならば、それを認めるべき、ということです。
もちろんお国柄というのもあります。あちらさんは西部開拓時代からの伝統で、自主独立の国。自分のことは自分で決めるという気風で、国にせよ学校にせよ、上から決まりを過剰に押しつけられることを好まない。
ロックダウンやらワクチン接種の義務化やら、昨今のコロナ政策に対する反発も、「自分のことは自分で決めさせろ」という国民性の表れなのです。だから授業中に飲食できるのは、できるだけ校則を緩くしておこうという、自由を重んじる精神の産物でもあります。しかし、自由を尊重したうえで合理主義的に考えると、授業中に飲食できるほうが学びの質が上がるという結論が出ます。
それは、何が一番重要であるかの共通認識が出来上がっている、ということでもあります。大切なのは、授業態度という「見た目」ではない。教師が教えている内容を理解できているかどうかです。
ところが日本の教育現場は、往々にしてそうはなっていない。どうでもいい外観ばかりを過剰にこだわり、生徒の理解の度合いは意識の埒外にある。これは倒錯にほかなりません。
必要のないこまごまとした校則で生徒を縛りつける、いわゆる「ブラック校則」も、この倒錯の産物でしょう。どうでもいい外観ばかりを取り締まり、生徒の内面や、いじめが起きているかどうかにはまったく気づけていないでいる。
本当に大切なものは何なのか?日本の教育現場が思考停止から脱却し、真に守るべきものを守れるようになるのは、いつの日になるのでしょうか。
怒られたのを思い出しました
メタルギアソリッド失敗
あえて、ワンターン説明しない!!
何故なら、コメントのキャッチボールをしたい年頃だからさ
欲深い男なんですよ
とにかく隠れながら敵のアジトに潜入するゲームで
初めはとにかく、敵に見つからないように進むゲーム
見つかったら一瞬で死んで、1面もクリアできずに終了した思い出がある