徳丸無明のブログ

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ジャパンフリトレー チートス チーズ味・チェダーチーズ&ハラペーニョ味・バーベキュー味

2024-10-04 23:55:31 | 
今日はチー&スです。








世界で一番売れているパフスナックらしいですよ。キャラクターのトラはうさんくせえけど、おいしさは間違いなしです。
皆さんは、「食べ飽きたもの」ありますか?僕はいくつかあります。
ひとつは、エバラ焼肉のたれ。
子供のころ、焼肉が出たらエバラ焼肉のたれでした。焼肉以外でも、肉料理であればエバラのたれがかかってたり、からめてあったりしました。それらを食べ続けた結果、10代の半ばごろには食べ飽きてしまいました。
以前実家に里帰りしたとき、母親が焼いた肉にエバラ焼肉のたれを添えて出してくれたんですね。20年ぶりくらいで口にしたんですけど、それだけひさしぶりだったにもかかわらず、ウンザリしてしまいました。それほど「食べ飽き」は強固だったのです。

それと、麦茶。
子供のころ、夏と言えば麦茶でした。ばあちゃんがつねに、パックの麦茶を沸かして、ティーポットに入れてくれてました。冷蔵庫の扉を開けば、そこに必ず入っていました。のどが乾いたらガブ飲みしていたものです。
そしたら、いつの間にか飲み飽きていました。麦茶の独特のあの味わいに、ウンザリするようになっていたのです。
いつそうなったのか、ハッキリとは覚えていません。ですがたぶん、こちらも10代の終わりごろではないかと思います。
今でも麦茶は飲みづらいし、麦茶が混ざったブレンド茶にも抵抗があります。

あと、サツマイモ。
戦争の最中、イモばっか食べてたから嫌いになった、って戦中派の人けっこういますよね。僕もそれに近いのです。
子供のころ、ばあちゃんがしょっちゅうイモをふかして、おやつに出してくれていました。まあ昔の人ですから、おやつと言えばイモ、みたいに考えてたんでしょうね。
ちなみにばあちゃんは、サツマイモのことを「からいも」と呼んでいました。唐のいも、つまり中国のいもという意味なのでしょうか?それとも方言?詳細をご存じの方は情報提供してください。
それはともかく、僕は子供でしたので、イモのおやつを深く考えることなく、パクパク食べていたわけです。ばあちゃんは昔の人だから、ワンパターンで、イモばっかり出す。僕は子供で、単純だったから、食べ飽きるとか、もっとほかのものを食べたいとか、そーゆーことを考えることなく、出されるままにふかしイモを食べていた。
その結果、すっかりサツマイモを食べ飽きてしまいました。
ただこちらは、エバラ焼肉のたれや麦茶と違って、たまには食べるのです。イモを使ったスイーツなんか、けっこう好きですしね。スイートポテトとかね。
でも、少量しか食べられないのです。一定の量を超えると、「ウッ」となってしまう。用法用量を守って正しく摂取しなければならないのです。
それにしても、イモ嫌いの人多いのって、何かしら理由があるんでしょうか。食べ飽きやすいとか、嫌いになりやすいといった理由が。

それとそう、りんご。
子供のころは、晩ごはんのデザートに、しょっちゅうりんごが出てたんですよ。お菓子と違って、果物は健全で体にいいからたくさん食べさせたいっていう、母親の思惑があったのでしょうね。
りんごって保存がきくのか、1年中売ってるじゃないですか。だから食卓にもずーっと出てたんですよ。それで飽きちゃった。
りんごの食感って、やわらかくてボソボソッとしてるのと、固くてシャキッとしてるのに分かれるじゃないですか。僕ね、ボソボソしてるやつの口当たりがイヤでしてね。
シャキッとしてるなら、そんなに甘くなくてもいいんですよ。甘かろうがすっぱかろうが、歯ごたえがシャキッとしてたら、気持ちよくいただける。
でもボソボソしてたらダメ。「あーあハズレだ」という思いとともに、口の中で小さな粒に分解していくりんごを、事務的に胃に送り込むのです。
今は品種改良も進んでいるでしょうから、シャキッとしたりんごだけを買うのも難しくないのかもしれません。でも、あまり積極的に食べようとは思わないですね。
りんごジュースは好きですけどね。

それから、食べ飽きたというのとはちょっと違いますけど、ポン酢もダメなんですね。
子供のころはコドモ舌で、すっぱいものがあまり好きじゃなかったんですよ。そんな僕が、苦痛に感じていたのが冬の鍋。冬はよく晩ごはんが鍋だったのです。
母親が楽をしようとしていたのでしょうね。鍋ってほぼ具材を刻むだけですからね。
いや、楽をするのはいいんですよ。ウチは共働きで、仕事から帰って料理するのは大変だったでしょうからね。父親は昭和の人間らしく、料理をいっさい手伝ってませんでしたし。
だからこれは、たまに世間をにぎわせる、「主婦の手抜き料理論争」のたぐいではありません。一度も料理をしたことがなく、その苦労も知らない男が、「主婦は手抜きすんな」って知ったような説教をかまし、それに大きな反発が起きる、という例のアレではないのです。
なので、僕は母親の手抜きを告発しているわけではない。問題は、その種類の乏しさ、ワンパターンさです。
ウチの鍋は、ほとんどが水炊きでした。水炊きっつーのも、地域によって形は様々なようですが、ウチの水炊きは、昆布でダシを取ったスープに、一般的な肉と野菜と、あと豆腐や春雨なんかを入れ、ポン酢で食べるというものでした。
このね、ポン酢で食べる鍋ってのがね、子供の僕にとってはただひたすらすっぱいだけでしてね、全然おいしくなかったんですよ。
白菜だのネギだの水菜だのエノキだの、子供にとってはまったく魅力のない食材です。豆腐、春雨もしかり。唯一の好物は肉ですが、鍋の肉ってのが、むやみに固くて骨のついた鶏肉だったんです。噛んでも旨みは出てこないし、口当たりの悪いパサパサした身で、ポン酢の味がするだけ。
僕にとっての水炊きは、ひたすらすっぱいポン酢で、ひたすらすっぱい肉や野菜を食べなきゃならない、なんの喜びもない料理でした。鍋と一緒に食べるよう、白米も出されていましたが、すっぱい味ではご飯がまったく進みませんでした。
鍋も、1杯だけ食べて、すぐごちそうさましていました。食が異様に細くなっていたのです。
ああ、こうやって文章書いているだけで口の中がすっぱくなってくる・・・。
僕は、今にして思うのです。せめて、タレだけでも工夫してもらえなかっただろうかと。
手抜きで鍋料理を頻発するのは別にいいし、具材がワンパターンなのもいい。でも、タレを変えることは簡単にできたはずです。
ポン酢みたいな、ただすっぱいだけのタレじゃなく、子供が好みそうな、甘辛系のタレを用意してくれていたら。そうしたら、僕はもっとぱくぱく食べていたはずです。
なぜ母親はポン酢にこだわっていたのか。「鍋=ポン酢」という固定観念にとらわれていたのか。
せめてタレだけでも、子供向けのやつにしてくれていたら。僕は何度も、「すっぱいだけで全然おいしくない」と訴えていました。なのに母親は、笑ってやり過ごすばかりで、鍋料理もポン酢も変えてはくれませんでした。
たまにすき焼きが出ることもありましたが、それはごく稀なことで、あとの鍋料理はすべて水炊きでした。水炊き、水炊き、水炊きの連続だったのです。
そんなことが冬のたびにくり返されました。「すっぱい、全然おいしくない」と思いながら鍋料理を食べ続けた結果、僕はすっかりポン酢が苦手になってしまったのです。
大人になった今でも好きではありません。すっぱいもの全般も苦手です。多少は食べますけどね。餃子の酢胡椒とか、試したことないんです。
もし子供のころ、あれだけポン酢の鍋料理を食べさせられることがなければ、僕は今頃ポン酢が好きになっていたかもしれません。幼いころではなく、ある程度歳がいってから(つまり、コドモ舌じゃなくなってから)ポン酢に親しんでいれば、ポン酢をおいしいと思うようになっていたかもしれないのです。
ですがもう、後の祭りです。僕はおそらく、ポン酢が苦手なまま一生を終えることでしょう。

あとそう、大判焼きね。
地域によって、今川焼きとか回転焼きとか、いろんな呼び名があるようですが、小麦粉の生地であんこを包んだ、円盤状のお菓子です。その大判焼きも苦手なのです。
子供のころ、どこかにお出かけしたとき、ばあちゃんが大判焼きを買ってくれたんですね。
僕は甘いものは好きでしたけど、慣れ親しんでいたのは、チョコレートとかプリンとか、ほぼ洋菓子。和菓子はあまりなじみがありませんでした。
そしてなにより、子供のころは、あんこがやたらと甘く感じていたのです。
たぶん、時代もあったんじゃないかと思います。昔は「甘さひかえめ」みたいな考えがなかったから、あんこに砂糖がたっぷり入っていたのではないかと。
しかし、それにしても、子供の僕には、あんこは異常なほど甘かったのです。チョコはバクバク食べていたのに、あんこはひとくちでさえ耐えられなかった。
そんな僕に、ばあちゃんが大判焼きを買ってくれたことがあったのです。世代的に、お菓子と言ったらあんこもの、もしくは和菓子という固定観念があったのでしょう。
僕は大判焼きをかじると、そのひとくちだけで強烈な甘さに打ちのめされてしまいました。甘さでお腹いっぱいになるというか、もうこれ以上は絶対に食べられないというくらい、甘さにやられてしまったのです。
それに、大判焼きはあんこの量が多い。その量の多さに、視覚的にもやられてしまいました。
僕が「もういらん」と言うと、ばあちゃんは「食べなっせー!」と強要してきました。
なんか、ある種のご年配って、やたらと若者に何か食べさせようとするじゃないですか。隙あらば「食え食え」って勧めてくる人、いますよね。僕のばあちゃんがまさにその典型なのです。
とにかくたくさん食べれば食べるほどよくて、少しでも多くの食事を提供しようとする。たくさん食べさせるのを無上の喜びとしている。ばあちゃんはそんな人でした。
そして、子供の舌にはあんこが甘すぎるということを理解できず、全部食べて当たり前なのに、ひとくちだけなんてとんでもない、と考えていたのです。
僕はばあちゃんの強要によって、あんこに対する苦手意識がより強くなりました。「あんこ=甘すぎる」というイメージが固定化し、和菓子を避けるようになったのです。
ですが、大人になった今、わりと和菓子を食べるようになりました。大判焼きはやっぱりあんこ多すぎるなって思いますけど、どら焼きとか、あんバターとか、抹茶のスイーツにあんこ混ざってるやつとかは大好きですね。
なぜあんこは食べられるようになったかっつーと、自分でもよくわからんのですが、たぶん味覚の変化と、あとあんこ全般が、昔より砂糖ひかえめになってきたからではないかと思います。

しかし、昔からずっと食べてるのに、食べ飽きたものもあれば、そうでないものもあるんですよね。お米とかチョコレートとかずっと食べてますし、牛乳やコーヒーもずっと飲んでるのに、全然飽きていない。それは何が違うのでしょうか。
一時的に食べ飽きることはあっても、時間が経てばまた食べたくなるものもありますしね。ほんと、何が違うのでしょうか。


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