猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

宇野重規は「民主主義への挑戦」より「政界への教団の浸透」を危惧すべき

2022-07-18 23:37:44 | 宗教

きょうの朝日新聞に、安倍晋三が殺されたことに対する宇野重規のコメントが載っていたが、その趣旨が私にはわからなかった。

彼は「新聞や政治家が示し合わせたように『民主主義への挑戦』と表明したことに違和感がある、というのは自然な感覚だ」と言う。ここまでは、理解できる。

しかし、彼が「個人的な一種の逆恨みであり、アクシデントだから、政治的な問題ではない、民主主義とは関係がないとする考えは、非常に表層的。そうした理解には異議を唱えたい」というところから、論点がおかしくなっている。

「アクシデントだから」の意味が良くわからないが、「恨み」による殺人はくだらないと彼が思っているのではないかと思う。殺人の多くは「恨み」であり、「恨み」を招いた事実があることをバカにすることはできないと思う。

私が彼に期待していたのは、旧統一教会の政界浸透を問題視することである。安倍晋三が2013年に再び首相に返り咲いたとき、新宗教が安倍の心の支えになった、とNHKが特集番組で報じていたが、それが旧統一教会とは私は知らなかった。

日本の憲法は、「信仰」の自由を保障する。しかし、「信仰」とは、特定の教義や崇拝対象に忠誠を誓い、疑わないことである。ということは、自己を放棄することである。非理性的になることである。したがって、「信仰」をもった集団や組織にとっては「正義」であっても、その外の人にとっては「脅威」になりうる。したがって、宗教団体が権力をもって教義、崇拝、献金を社会に強要しないように、憲法はタガをはめている。

-------------------------------

憲法20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

○2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

○3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 -------------------------------

宇野重規は「投票を通じて意思を表明したり、不当にお金を取られたなら世論や裁判所に訴えたり、といった行動をとることができたはず」と安倍殺害の犯人を攻撃する。ずいぶん上から目線でものを言うのだと、私は驚く。

現実問題として、犯人はツイッターに統一教会の批判を書きつづる以上のことができただろうか。SNSに多数の人が投稿するから、なかなか社会的インパクトは持ちにくい。有名人のツイッタ―以外はなかなか読まれないのである。安倍殺害ではじめて犯人の言い分が多くの人に伝わったのである。

つづけて宇野は「なによりもまず、安全の回復が急務です。自分の意見を言っても危害が加えられることはないという、民主主義の基盤が揺るがされています」という。

確かに、自由に意見が言えるためには、言ったことで危害が加えられないことが原則である。それを保障するのは法に基づく警察権力の仕事である。しかし、警察権力のトップが旧統一教会に配慮していたらどうなるだろうか。

宇野は「日本は、成熟した民主主義国家です」というが、民主主義国家とは、みんなが政治に参加でき、そして、実際に参加している国家であって、誰かが誰かを一方的に統治するなんてありえないはずである。とすれば、教祖さまがいて、教団組織が信者を指導して、献金や選挙運動の奉仕をせまったり、また、教団組織と政治家がgive-and-giveの関係にならないはずである。日本は、まだ成熟した民主主義国家ではなく、これから、みんなの努力で民主主義を実現しないといけないのが実情と思う。


トーマス・レーマーの『ヤバい神』(1996年)をいま日本で出版する意義

2022-07-18 00:21:58 | 宗教

きのうの朝日新聞読書面にトーマス・レーマーの『ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門』の柄谷行人による紹介がのっていた。原著は1996年のフランス語版の"Dieu obscur : Le sexe, la cruauté et la violence dans l’Ancien Testament“で、柄谷は、「わかりにくい神」の意味の”Dieu obscur“を日本語版で「ヤバい神」と訳したのは適確だと思うと書いていた。推測するに、「わかりにくい」は社会的反発を避けるための著者の遠慮で、本当は「ヤバい神」が著者の本音だというのが柄谷の読後感であろう。

ただ、旧約聖書のもとになるヘブライ語聖書は、現代人の感覚の宗教書というより、ユダヤ人コミュニティが歴史的にいかに古いかを示す聖なる書物と考えるべきである。メソポタミアやエジプトは幾多の民族の興亡があった。国を失った民にとって、古い歴史をもつことを示す書物をもつことは、コミュニティの存続のために重要である。したがって、人はどう生きるべきかを道徳的観点から述べる現代の宗教書や自己啓発書と比較して、批判するのはいささか酷だと私は思う。

当時は、文字を読める人はある程度裕福な人に限られており、中身より量が一般の人を圧倒したと思われる。それでなんでもかんでも集めたので、聖書が全体としての整合性はまったくなくなったのは当然である。現在の書物というより、ヘブライ語聖書を「持ち歩き出来る図書館」と考えたほうが良いと思う。

ヘブライ語聖書の『創世記』は天と地に始まりがあるとするが、『コヘレトの言葉』は「すでにあったことはこれからもあり、すでに行われたことはこれからも行われる。太陽の下、新しいことは何一つない」と、始まりのない世界を主張する。『創世記』『出エジプト記』の神は専制君主の似姿である。『ヨブ記』は神の義を疑う。

しかし、いっぽうで、本書のような聖書批判が重要なのは、現代のトンデモナイ自己啓発本や宗教本が、その権威を旧約聖書や新約聖書に求めているからである。統一教会の原理講もそうである。聖書に限らす仏典もふくめて、権威を昔の書物に求めるような自己啓発本や宗教本は、インチキだと思った方が良い。昔の書物の価値は、古代人の精神構造や社会構造を知り、現代人の精神構造や社会構造を相対化し批判することにある、と、私は思う。

また、日本語のタイトル『ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門』の「旧約聖書入門」も不適切である。英語翻訳版“Dark God: Cruelty, Sex, and Violence in the Old Testament”のように、現代に沿ったタイトルが適当だったと思う。


宗教は「共同体」願望から生まれたものでないだろうか

2021-12-30 22:36:51 | 宗教

市川裕の『ユダヤ人とユダヤ教』は、異なった価値観の世界を体系的に見せることで、私たちの社会を根底から考え直す機会を与える。

ユダヤ系の学者によっては「ユダヤ教は宗教でない」と本に書いているという。

キリスト教を基盤とした現代の欧米社会では、「宗教」は「世俗社会」から切り離された精神世界を律するもので、「信仰対象としての唯一神、世界観を含めた教義体系、礼拝行為を定めた儀礼体系、明確な信徒集団などの諸要素を備えたもの」を指しているという。

ユダヤ教やイスラム教では「啓示法」をもち、「宗教」と「世俗社会」と分離できない。「啓示法」とは、理念上は、人間が定めてた「法」でなく、超越的権威の「神」が与えた「法」のことである。じっさいには、権威をもつ法学者が「啓示法」を解釈して、「世俗社会」を律するという。

これは、「法」を社会の成員である人間たちが立案し施行するという、近代の民主制社会と合わない。

市川は、「ユダヤ教」を、エレサレム神殿がローマ軍に破壊されるなかで、ギリシア哲学に対抗することで成立したものとする。

ここでのキリスト教的「宗教」か否かは、「世俗社会」での生活を律するか否かにある。たぶん、キリスト教がローマ帝国の国教になったことで、世俗的権威の皇帝と宗教的権威の教会との両立をはかることで、「宗教」と「世俗」との分離がなされたのであろう。

じつは、私は別の見方から「宗教」をみている。市川は「宗教共同体」という言葉を、ユダヤ世界やイスラム世界に当てはめているが、「宗教」が成立する要因に「共同体」の維持あるいは構築の願望があるのではないか、と思う。キリスト教の教会も、同じ役割を果たしてきたのではないか、と思う。「唯一神」であるかどうかは重要な問題でない。教義も礼拝儀礼も後からついてきたものだろう。

日本での「新宗教」(新興宗教)について書かれた本を読むと、困窮に陥って入信した人たちが、そこから抜け出れないとある。それは、超越的権威に頼ろうとして入信したが、そこに同じような困窮に陥っている人たちとの共同体を見いだし、孤立を感じなくて済むからではないか、と思う。入信した人は帰属先をもち、孤独でなくなるのだ。

オウム真理教もそういう「新宗教」の1つである。「世俗」の学歴に劣等感を感ずることなく、権威をもった幹部を除き、みんなが平等であるという世界が実現される。

「共同体」の問題は、1つは、「共同体」の外に対して、被害者意識から、攻撃的になりがちである。1つは、本当の平等ではなく、内部に権威をもつもの、持たないものの上下関係が生じやすい。このような問題は、「新宗教」だけでなく、キリスト教の教会でも、生じる。

「信仰」は、個人の判断を排除し、権威に判断を預けがちになる。ということは、「信仰」を核とする「宗教」が個人にとって居心地がよくても、人間社会の問題を解決するのはどだい無理ではないかと私は思う。


ユダヤ教は「宗教」というより持ち運びできる「国家」と市川裕は言う

2021-12-26 23:30:41 | 宗教

(タルムード)

きのう、図書館で、約3年前に出版された市川裕の『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書)に気づいた。新書本ながら、「ユダヤ教」について体系的に書かれた本である。自分のこれまでのステレオタイプ的なユダヤ人理解を壊す衝撃的本である。

通常のユダヤ教の解説本は、旧約聖書の世界について書かれているのだが、市川裕は、旧約聖書以降の世界について、ユダヤ人の歴史、信仰、学習と探求、社会を書く。彼は、日本におけるユダヤ教の理解は、西欧のキリスト教中心の史観にもとづくものであるという。

市川は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)に書かれた世界が歴史的事実かどうかは問題にしない。彼の主張を私なりに延長すれば、キリスト教はギリシア語で書かれ、ギリシア的な世界観に基づくことになる。

新約聖書には、日常生活に対する規定がない。新約聖書の提示する世界は、ヘレニズム的普遍的である。私が読み取るのは貧困に苦しむ人びとの叫びである。金持ちを憎みながら金持ちの施しを期待せざる得ない人びとの声である。関心は精神的なものにある。

市川によれば、ユダヤ教はふつうの宗教ではない。精神的なものに限定されず、日常生活を含め、ユダヤ人が生きていくうえの指針であり、守るべき規範であるという。すなわち、ユダヤ人は、ヘブライ語聖書より、「ミシュナ」にもとづいて、生きてきたのである。ユダヤ人にとって、「ミシュナ」は持ち運び可能な「国家」であると市川は言う。

彼によれば「ミシュナ」は全6巻63篇からなる口伝律法集である。第1巻、第2巻、第5巻、第6巻は、神とユダヤの民と関係を律するが、第3巻は家族法で、第4巻はユダヤ社会維持の法で、裁判に関する規定、経済的紛争の法規定を含む。「タルムード」は、ラビ(律法学者)による解釈を添えた「ミシュナ」のことを言う。

J. D. サリンジャーの作品を理解するうえでも、なぜ20世紀に生まれたユダヤ人の国が「イスラエル」と命名されたのかを誓いする上でも、市川裕の『ユダヤ人とユダヤ教』は助けてくれる。


鬼神、魔人、神、守り神、神様

2021-07-05 22:34:03 | 宗教

どうして、明治時代にキリスト教はGodを神と訳したのか、私にはわからない。戦国時代の終わりには、日本にきたカトリックの司祭はラテン語の デウス(Deus)をそのまま使ったようだ。したがって、日本語では「デウス様」だった。

ところが、明治時代に「デウス様」が「神」となる。

白川静の『字通』によれば、象形文字の「神」は、いなずま(電光)の走るさまをあらわした「申」の字からくる。象形文字「鬼」の上部の「甶」は,もともとは、「申」と書いており、同じものである。「神」、「鬼」、「魔」は同じカテゴリーである。

古代のインド、中国において、「神」と「魔物」は同じもので、人々にとって、自然界の恐れるべき、あるいは、忌み嫌うべきものであった。

古代のエジプト、メソポタミア、地中海沿岸諸国にとって、「神」は、族長、王、共同体の「守り神」であった。都市国家が連合すると、「守り神」同士がお友達になる。キリスト教から見ると多神教に見えるが、多くの場合は、所属する一族、都市の中では、守り神は一人である。

日本の田舎に行くと村々に固有の「守り神」がいて、石だったり、岩だったり、巨木だったり、キツネだったりする。

2500年前のインドの知性を伝える原始仏教、『スッタニパータ「釈尊の言葉」全現代語訳』(講談社学術文庫)によれば、「おれは悟ったのだぞ、神や魔物なんて怖くない、おれの心を狂わせたり、心臓を引き裂いたり、両足をつかんでガンジス河の彼岸へ放り投げることができるなら、やってみろ」と釈尊は言ったとある。

どこかに、霊や神秘的な力の存在を教える僧侶がいれば、それは仏教哲学を捻じ曲げる詐欺師である。また、祖先を敬わないから不運に見舞われるなんて概念は、仏教にはない。

『論語』によれば、「孔子は怪力乱神について語らず」(述而篇)、そして、「弟子の季路に答えて、おれは人間に仕えることもできていないのに、鬼神にどう仕えるかなんて知ったことか、としかった」(先進篇)という。「神」は「怪」「力」「乱」と同じく、当時、知性のある者が恥ずかしくて口にできないあやしげな言葉だったのである。

中国も戦国時代が終わり、漢代にはいると、儒学は変質し、『礼記』では「鬼神」を「死んだ人の霊」とし、祭りごとの対象とした。孔子も老子も祠にまつられ、いつしか、「神様」になった。

一方、古代のエジプト、メソポタミア、地中海沿岸諸国にとって、「神」は「守り神」であったから、人間が神を「愛」し、神が人間を「愛」するのはあたりまえのことである。

旧約聖書の『創世記』の神は、絶対的力を持った乱暴者の「鬼神」という側面と慈悲深い「守り神」という側面がある。

『創世記』31章に、族長の「守り神」という例で、面白い話がある。

イスラエル部族連合の伝説の始祖、ヤコブは、妻のラケルとレアと家畜を連れて、妻の父である族長ラバンのもとから逃げる。このとき、ラケルは父の「守り神」を盗んで持ち去る。族長ラバンはそれに気づき一族郎党とともに追っかけてきて、「お前は私の守り神を盗んだやろう」とヤコブに言う。ヤコブは盗んだなんて身におぼえがないから、「やい探してみろ、盗んだやつがいるなら俺が殺してやる」と言い返す。駱駝の上のラケルは守り神をすぐ尻の下に隠し、「おとう様、今、生理中ですから立てないのを許してくださいね」とラバンに言う。ラバンはラケル、レアの天幕を調べるが、自分の守り神が見つからず、あきらめる。

ユダヤ人の社会で守り神ヤハウェが、ただ1つの絶対的な神となったのは、ユダ国がバビロニアに占領され、ユダヤ人が自分たちの王と国を失ったとき、「守り神」を自分たちが団結するための象徴とするしかなかったからだと思う。この意味でユダヤ人の一神教は特殊な事情で生まれたものだと思う。それ以外、一神教が多神教より優れているとかいう理由が特にあるように思えない。

モーセの五書、あるいは六書は、民族の危機の中で生まれた「偽書」(歴史の捏造)である。