きのう、NPOで、私の教え子に泣かれた。
抱きしめてあげたかった。
涙と鼻水にぐちゃぐちゃになった顔をふいてあげたかった。
「ばすのせいそうが大変なのです。あすは、せいそうの班のリーダにならないといけないのです。先生、泣いてもいいですか」
「ばすのせいそう」は「風呂の掃除」のことか、と初め思ったが、乗り物のバスの内と外をマニュアルにしたがって班で清掃するのだという。ここ毎日、特別支援学校高等部で、1 限目から4 限目まで、ずっとバスを清掃しているらしい。
歌手の八代亜紀も最初に勤めたバスガイドの仕事で、毎日、バスの清掃をしていたという。しかし、時間はそんなに長くなかった。
学校で、どうして、毎日班で1台のバスを清掃していて、そんなに時間がかかるのだろうか。
時間がかかるようにマニュアルができているのではないだろうか。
しかられるのだろうかと聞くとそうでないと言う。しかし、泣いていけないと言われているという。耐えないといけないと言われているという。
泣くほどつらいのなら、「いじめ」の定義に該当し、横浜市の特別支援学校で公然と虐待が行われていることになる。
その女の子は、今年、中学を卒業し特別支援学校に入学してから、私がほめても「ありがとうございます」しか言わない子になった。私は、これは変だ、と思っていた。
学校は、雇用主に絶対服従しないと生きていけない、と教えているのだろうか。
横浜市の別の特別支援学校高等部の男の子も、入学してから「はいそうです」しか言わなくなった。「はいそうです」では会話にならない。
親から聞くと、職業訓練と称して、環境園芸では畑仕事、流通サービスでは清掃、情報文化ではパソコン入力か社内便の配送、人間福祉では介護労働を教えているらしい。
私は園芸が楽しいことと思っていたら、親から聞くと、子供たちは、みんな、つらい、いやだと思っているとのことだ。
労働がつらいこと、耐えることと教えて、何の意味があるのか。労働は生きることの一環で、楽しいことではないか。
ホームページを見ると、特別支援学校は軽度の知的障がいの子が行くこととなっている。しかし、なぜ、知的障がいの子は雇用主の奴隷にならないといけないのか。
しかも、「ありがとうございます」しか言わない子も、「はいそうです」しか言わない子も、私から見れば、知的障がいではない。
手間のかかる子として、いじめられっ子として、普通級から締め出されただけで、私が教えれば、普通に勉強でき、豊かな言葉と感性を持った子たちである。
パソコン検定や漢字検定にも、うかるのである。
そんな子たちが、なぜ、知的障がい者として、自分のプライドをぼろぼろにして、「ありがとうございます」「はいそうです」とだけ言って、生きていかなければ ならないのだろうか。
泣いていいんだよ、と私は女の子に言った。
嫌なことは、やらなくていいんだよ、と私は言いたい。
人間には基本的人権が生まれながらにしてあるんだ。
だれにも人間の心を破壊する権利はない。