猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「分配」ウソでしょう?「再分配」ではないの?

2021-11-16 21:51:20 | 経済思想

今日の朝日新聞『(耕論)ばらまかない分配とは』では、3人の女性が論じていた。ライターの和田静香だけが、「分配」という言葉に違和感を訴えていた。

《 「分配」ってなに?・・・上からの施しのよう・・・でも元は税金でしょう。「再分配」だと少し印象は変わりますが。》

正確にいうと、今回の「分配」とは、政府が借金して選挙民にお金を配ると言う話しである。

もともとは、自民党の今回の選挙公約「経済には成長と分配が必要。成長に向けた大胆な危機管理投資・成長投資とともに分配によって所得を増やし、消費マインドを改善、日本経済を新たな成長軌道に乗せる」にある。

この「成長と分配」や「分配によって所得を増やし」が意味不明なのだ。

国税庁関係の論者はこれまで、安倍政権下でも、税制は「再分配」制度であると言ってきた。「再分配」とは、奪われた労働の成果を、雇われびとが、国を通して、奪い返すという意味である。

朝日新聞の表題の「ばらまく分配」とは一時的な給付金のことである。選挙の「買収」行為と同じことを、選挙に勝ったら行うと約束しているのである。

リベラルを自称する人も、「分配」は、社会保障なのか福祉なのか、それとも、「買収」なのかを真剣に考えないといけない。「社会保障」や「福祉」は持続的制度でないとおかしい。

「社会保障」は、運や不運に振り回される私たちを守るための社会制度である。新型コロナで仕事を失った人びとに、生きていくための生活費をとりあえず出すことである。宿泊・飲食業で雇われている人びとは、もともと賃金が極端に低い。非正規である。新型コロナ禍で、彼らに失業保険が支払われたのか。なぜ、彼らに支給がいかず、全国民への一律の新型コロナ給付金になったのか。

「福祉」は、理由を問わず、他よりも貧困に苦しんでいる人びとが、ひとなみの生活が送れるよう、支援する社会制度である。なぜ、新型コロナで生活費にこと欠く人びとを生活保護制度で救えなく、一律の国民給付金となったのか。

新型コロナ禍では、国会がそもそも開かれなかった。なぜ、臨時国会が開かれなかったのか。

自民党、公明党に今回投票したひとは自分を恥じるべきである。

和田静香はつぎのように書く。

《 コロナ対策で昨年、1人10万円が配られました。目の前で苦しんでいる人がいるとき、お金は必要です。でも「お金を配りま~す」だけでは再分配でありません。安心して暮らせる仕組みづくりを含めて再分配だと思います。》

《 公営住宅の整備や国が家賃を保障制度など、「死活問題」から抜け出せる一過性でない分配が必要です。》

ところで、「再分配」とは、金持ちから税をとって、奪われた賃金を雇用者に返すことである。金持ちが株式会社を資産隠しに利用している、この「資本主義社会」では、法人の利益にもしっかり課税して、「再分配」の資源にまわさないといけない。

「社会主義」社会になると、そのまえに、雇われた人びとが自分の給与を決めるのである。経営者や政府が決めるのではない。それでも、「社会保障」や「福祉」は必要だし、自然環境を守るために、集合型公営住宅が必要である。


資本主義は社会に雇用関係を通して人の上下を作る

2021-10-24 22:47:45 | 経済思想

岸田文雄は「新しい資本主義」と言う。それでは、「資本主義」とは何か。「新しい」という形容詞は、現在の「資本主義」のどこを変えると言うのか。彼自身は何も考えていなくて、口から出まかせをのべているのだろう。

マックス・ウェーバーは“Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus”(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)という本を出版している。彼の本では、「資本主義(Kapitalismus)」は無定義語である。「資本主義」として20世紀初頭のプロシア社会、アメリカ社会を想定し、「資本主義」の根本原理は、飽くなき金銭への追求であるとし、これを否定すべきものではなく、プロテスタンティズムの精神そのもので、崇高なものとする。ここでのプロテスタンティズムとは、彼はカルヴィニズムを想定しているが、これも、彼の思いこみと私は思う。

現在では、「資本主義」を経済システムの一形態と考えることが多いが、「共産主義」「社会主義」に対抗する政治システムと見なすことも依然として多い。カール・マルクスが哲学・経済・政治を一体のものとして扱ったことによる。

私は「資本主義」を「雇う者」と「雇われる者」とからなる社会システムと考える。政治ステムと経済システムとに分けず、一体となったものと考える。

私の世代は、「資本主義」を悪の根源と考えるのが普通であった。「資本主義社会だからしかたがない」ということは、「自分だけのことを考えて何が悪いのか」という意味であった。悪の社会にいるのだから自分がちょっと悪いことをしたって大目にみろという意味である。私の周りの「資本主義」擁護者はマックス・ウェーバーの支持者だったので、ウェーバーの著作を読むたびに私は怒りがこみ上げる。

きのう図書館で「資本主義」について書いた本がないか見渡したら、フィリップ・コトラーの『資本主義に希望はある 私たちが直視すべき14の課題』(ダイヤモンド社)が見つかった。2015年出版の本だから、1931年生まれのコトラーが、84歳の著作である。

原題は“Confronting Capitalism: Real Solutions for a Troubled Economic System”である。読んでみると、マーケティング論を教えてきた老人が、資本主義システムに希望があるというより、こんなに欠点があると、本音を述べている書である。

資本主義システムが、「私有財産」「契約」および「法の支配」という3つの基本理念に基づく社会を前提としているとコトラーは言う。イギリスで始まるリベラリズムの祖、ジョン・ロックは「私的所有」を守るために「法」「政府」があるという。資本主義は、欧米では、個人主義、リベラリズム(自由主義)を前提としてしている。

リベラリズムからみると、資本主義は、「みんなのモノ」いう考え方を否定し、「これはわたしのモノ」という考え方である。「わたし」「わたし」である社会が混乱を招かないように、コミュニティに自分の権利をゆだね、代わりに、「法」の保護を受けるという考え方である。

コトラーは、だれかが権力を握って自分の好き勝手をしないように、つぎのように言う。

《立法、行政、司法の三権をもち、法の支配を実現できる力を持つ立憲政治がなければ、資本主義は成立しない。国を統治する権力こそ、法を執行し、刑罰を使って法の後ろ盾となることができる。》

権力の分割はリベラリズムの考えだした工夫で、有用なところである。しかし、それぞれの権力に大衆(people)がどれだけ参加できているかは疑わしく、現実は理念にすぎない。

コトラーは、資本主義システムとは、起業したいと思う人が自由に起業できるシステムであるという。これは定義とは言えない。親が金持ちでない限り、現実に簡単に起業できるわけではない。

私は、資本主義システムとは、雇用という関係をもとにした、新たな奴隷制であると思う。安倍晋三は、「一億総活躍社会」「女性が輝く社会」と言って、すべての国民を「被雇用者」にしようとしている。女性を家庭から引き出し「賃金労働者」にしようとするが、スーパで毎朝仕入れ野菜の種分けをし、昼や夕にレジで客が買ったものの合計金額を求めることが、家で家族のために料理を作ることより、特に素晴らしいと思わない。料理を作る方が個人のもつ創造力をずっと満足させる。

リベラリズムは職業の選択の自由をと言うが、実際には多くの人は喰うために、着るものを買うために、住む所を求めて、働く。人は、もともと、喰うために、寒さをしのぐために、安心して眠るために、働く。私は、そのこと自体は、喜びを与えるものだったと思う。

いっぽう、現代人は文化的なものを求めているのではないかとも思う。おしゃれも文化であり、美味しいものを食べるのも文化であり、音楽を聴くのも文化であり、本を読むのも文化である。私が研究するのも文化だと思う。働くことと文化活動とは、同時間になすことができなくても、働いた後、文化的生活を送るという意味で、両立できるはずである。職業選択の自由を求めているというより、文化的生活を送りたいという問題である。

私は、働くことや文化活動から、雇用・被雇用という関係をとりのぞかないといけない。これは資本主義の否定を意味する。現在、雇われた者から雇う者に変わるには資本(カネ)がいる。資本が起業の自由を妨げている。資本主義システムは自由な起業を妨げている。

コトラーは、雇う者と雇われる者との間の差に目を向けていない。また、雇われている者の間にも上下関係があることも論じていない。

外国から来た人のための日本語教科書に、部下は上司に「ご苦労様」とは言ってはいけない、と書いてあった。「ご苦労様」とは上司が部下にいう言葉であるらしい。資本主義は、現実に、日本社会に身分差を作っている。

日本に限らず、自由主義陣営の国家の政府は、賃金を通して、解雇を通して、社会に上下関係をもたらし、雇われる者の自由を奪っている。リベラリズムは雇う者(ブルジョアジー)の自由(liverty)であって、雇われる者から自由と尊厳と働いた成果とを奪っているのだ。一時的給付に騙されてはいけない。


宮本太郎の『新自由主義と社会保障』ー岸田文雄のウソ

2021-10-21 23:00:01 | 経済思想

きのうの朝日新聞の宮本太郎の『新自由主義と社会保障』は問題の本質をついている。それに対し、きょうの飯田康之の『富裕な高齢者への増税 議論を』も、大沢真理の『下位層への再分配 道筋示して』も、論点がそれている。

岸田文雄も枝野幸雄も「成長と分配」に言及している。

私から見れば、「成長と分配」ではなく、経営者や株主(金融)が奪ったものを働く者に返せということであって、曖昧な「分配」の問題ではない。まして、それは、「成長」がなければ「分配」できないという問題ではない。 

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こう言うと、私がマルクス主義者であるように聞こえるかもしれないが、「お金儲けとは働くものから奪うことである」というのは、ビジネス界では昔から常識である。私は商店街に生まれてこの教えを叩きこまれている。

問題は所得の格差はどこから生まれるかである。ビジネスでお金が儲かるのは、買い手を騙すのではなく、ビジネスの規模を多くし、働くものから奪うからである。

子どものときから聞かされた話は、自分一人で焼き鳥屋をやっているなら、鶏の肉を切り、串にさし、焼くにさける労働時間の限界から、売ることのできる焼き鳥の量の限界が決まる。買い手を騙すというのにも限界がある。買い手のしっぺ返しが怖いからあまり騙せない。したがって、一人で働く儲けは たかが知れている。

人を雇って焼き鳥屋をやれば、売り上げは増える。チェイン店を経営すれば、もっと売り上げが増える。人を雇うからこそ、1臆円、10臆円、100臆円の所得が生まれる。

では、みんながそうできるのか。雇われるものと雇うものとの差異はどこからくるか。仕事のノウハウもあるが、一番重要なのは資本である。生産手段である。

私の住んでいるところに、昔フジテレビの『料理の鉄人』の挑戦者に出たじいさんが創作中華の店を出している。じいさんになって、約10年だが、 ようやく独立して小さな店を出して、それから、もうちょっと大きな店を出した。料理長をやらしても独立させないというのが、資本の論理である。

私はマルクスの著作を読む気がしないのは、彼は悪いのは社会制度であるとし、人間そのものが悪いことに目を向けないのである。多くの人間はとんでもない悪人である。資本主義を維持しようとする人間の底意地の悪さに怒るべきだと思っている。「新しい資本主義」とかいう岸田は大悪人である。

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宮本太郎は言う。

《思い返せば、アベノミクスでも『分配』が言われました。……しかし、株価が3万円台を回復しても、円安が進んで実質賃金が低下し、働き手への労働分配率は下落し続けています。この間、格差が拡大したことは はっきりしています。》

自民党の政策は、経営者や株主に優しすぎる。円安になれば、働く者の実質賃金が下がる。円安にしなくても、ものを売るのが経営者の腕ではないか。誰でもが、経営者になれないのは、資本がいるという、現在の資本主義社会の問題のためではないか。企業内で派閥争いに勝ったものが企業の経営者になる現状では、まともな企業経営なんてできっこない。傾いた製造業の会社には いつも自分の手柄だけを求める無能な経営トップが存在する。

だいじなことは、分配に期待することではなく、奪われたものを奪い返すことである。

宮本は、いまの日本には、安定就労層と福祉受給層に加え、新しい生活困難層がいるという。

《新しい生活困難層には非正規雇用、フリーランス、一人親世帯などが多く、老後の介護や自らのメンタルヘルス、子どもの発達障害など複合的な困難を抱える人も少なくありません。……コロナ禍の打撃もこの層に集中しており、どう支えるかが喫緊の課題です。》

《働けない人に限られていた福祉の給付を、働けても低所得の人たちに広げていくこと。さらに、安定就労層に限られていた就労の機会を、さまざまな困難を抱えている人にも広げることが必要です。》

さらに、岸田の「新自由主義から転換」を批判する。

《何を意味するか、意図的にぼかしているように見えます。》

《問われるべきは、アベノミクスからの転換か、継承か、ということをです。……アベノミクスは成長ありきで自助頼み、という点で『新自由主義的』だと思います。》

宮本は、財源問題で、福祉でお金が出ていくのだから、人々からお金をとらないといけないという。コロナ給付、減税というと、結局は、弱い人に出ていく福祉のお金が削られる。

ここで、誰からお金をとるかについて、宮本は明言していないが、私は奪われたものを取り返す、すなわち、人を雇う者、お金を貸す者から、お金を取り立てないといけないと思う。

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「新しい資本主義」ではなく、私たちは「資本主義」から決別すべきである。


マッチング理論もマーケティング理論も詐欺師たちの屁理屈

2021-06-08 23:02:22 | 経済思想


きょうの朝日新聞のオピニオン面は、東京大学マーケットデザインセンター長の小島武仁へのインタビュー、『社会変えるマッチング』であった。ヨイショ記事であったので、老婆心から言いがかりのような感想を述べたい。

マーケットデザインセンター(UTMD)は東京大学大学院経済学研究科・経済学部に敷設された研究センターの1つである。他につぎがある。

日本経済国際共同研究センター(CIRJE)
金融教育研究センター(CARF)
経営教育研究センター(MERC)
政策評価研究教育センター(CREPE)
不動産イノベーション研究センター(CREI)

驚くべきことに、すべて実用的な研究センターである。いま、「実用的な」といったが、「実業界のため」といったほうが適切である。どうも、卒業生のポストを作るために、自民党政権下の文科省の賛同を得やすい研究センターを粗製乱造したとしか、思えない。

私の学生時代の大学院経済学研究科は、緑色のヘルメットをかぶった構造改革派フロントの拠点であった。マルクス経済学の教授も多かった。そのころのマルクス経済学は、線形計画経済学とかいって実質的にはマクロ経済学が多かったように覚えている。そこが、いつの間にか、実業界(経営者の集まり)にうける研究をする人間たちが東大の実権をにぎるようになったようだ。

小島のいっていることは100年前からあることだ。東大は、アメリカで名声を得ると雇用したがるところがある。アメリカでの名声とは、反共産主義であって、実業界に有用な人間であることだ。

ただ、不思議なことに、私の学生時代には、アメリカの大学には教養主義的な雰囲気があって、学問が時の権力から独立しているところがあった。当時、アメリカの研究者たちから、日本は自由な研究の伝統を壊す、と苦情を言われることが、たびたび、あった。それらは、主として、企業の研究所の精神的風土のことをさしていた。

いま、私が気になるのは、どうも、日本の大学の研究者の精神的風土も変質したのではないか、ということである。教養主義や学問の自由が大学から消えうせているのではないか。

J・K・ガルブレイスは『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)で、実業界(大企業の重役)に沿う形で、経済学の通念がゆがめられていると、第9章、第10章、第11章、第12章で論じている。

第1の歪みは、「ものの生産の優位」である。必要だから生産するのではなく、生産するために生産するのである。国民総生産(GNP)の増加が政治で重視され、何が生産され、国民がどのように幸せになったかの議論がなされない。

第2の歪みは、「消費を煽るための宣伝と販売術」である。消費需要が生産限界を決めるというケインズの指摘が受け入れられると、消費欲望を煽るための宣伝と販売術が重視されるようになった。それまでは、競争相手に打ち勝つために、いち早く消費動向を知ることであったが、消費欲望を生産者側の大企業がつくるようになったのである。ガルブレイスは『ゆたかな社会』につぎのように書く。

《(近代的な)宣伝と販売術の目的は欲望をつくりだすこと》
《近代企業の戦術においては、ある製品の製造費よりもその需要をつくりだすための費用の方が重要である。》

私が外資系IT会社に務めたとき、電通や博文堂の人間が同じことを言っていた。また、トヨタから、宣伝費にお金をかけた方がよいか、それとも、販売店の報奨金を増やしたほうがよいかのために、効果の見積もり依頼が、コンサルタント会社にあった。

60年前のガルブレイスの時代より、歪みは、現在、より激しくなっている。ネット上のビッグデータで個人の消費動向がさぐれるようになると、押し込み販売というアイディアが生まれた。その1つが、マッチングデザインである。

小島は、「マッチング理論」の価値を売り込むために、待機児童の問題を取り上げている。

《いまは、希望する認可保育園に子どもが入れない親がいる一方で、定員割れする園もあります。多くの自治体は、家庭の状況をポイント化した点数を基に決めています》
《決定方法には、各園ごとにその園を第1希望にした人から点数の高い順に選ぶ方法と、全申し込み者の中から点数の高い人をまず選び、次にその人の希望園を見る方法の2種類があります。マッチング理論で考えると、前者は不公平で、後者の方が公平といえます》

問題は、認可保育園の定員絶対数が少なすぎるということと、認可保育園に人気のありなしがあるということではないか。あるべき解決策は、全体の定員数を増やすこと、また、人気の差を分析し、保育園側に問題があるのか、希望者側に問題があるのか、に応じて、当事者に改善を勧告すべきである。人気がない理由が、保育士が園児を虐待するのなら保育園側に改善してもらうしかない。通う近さの問題なら、近い人を優先する制度にすればよい。

私の人生経験からすると、マーケティング理論を唱える人もマッチング理論を唱える人も詐欺師にすぎない。自分を売り込むために次々と流行のキーワードをつくりだすのである。現代の政治家や実業人はこの詐欺師たちが好きである。

資本(Kapital)はブラックホールか?『武器としての「資本論」』

2021-05-04 23:25:03 | 経済思想
 
上の写真は、ドイツ語版のウイキペディアから取ったものである。清貧に生きた頑固で誠実なカール・マルクスが写真からうかがえる。横にいるのが妻Jenny(イェニーと発音する)である。彼女は貴族の娘だから、誇り高いマルクスのそばにいて苦労したことと思う。
 
マルクスの『資本論(Das Kapital)』の無料写真版(facimile PDF)はネット上にいくつかあがっている。今回、はじめて、マルクスのドイツ語の文章をみたが、短い文がリズムカルに並ぶものである。ニーチェやヴェーバのように屈折した文章ではない。
 
さて、白井聡の『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)を読みだして半分をすぎた。ざっと読み終わるのに、あと2日はかかるだろう。
 
第5講で、映画「寅さん」が出てくるが。ここはわかりやすい。しかし、映画エッセイストの西口想の文を引用しているせいもある。
 
ここまでくると、白井はいまの日本人に怒って本書『武器としての「資本論」』を書いているのがわかる。
 
《新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。》
 
《それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。》
 
白井は『資本論』を読んで目を覚ませと叫んでいるのである。しかし、それなら、『資本論』をやさしい日本語で翻訳しなおしたほうが良いだろう。ここで「包摂」とは“Subsumtion”の訳で、「取り込むこと」をいう。
 
マルクスはKapitalistを主語にしたり、Kapitalを主語にしたりする。Kapitalに人格があるはずがないのに、意志をもった邪悪な偶像のように描く。ブッラクホールのように、人々を資本制の自己増殖運動に呑み込んでいくというのである。
 
しかし、私は、いけないのは強欲な人の心であると思う。責めるべき対象は人の心である。マルクスは優しすぎる。
 
私がNPOで取り組んでいるのは、競争社会からこぼれ落ちた子どもたちの指導である。私は競争社会に彼らを復帰させることをめざしているのではなく、競争社会の外でalternativeな生き方ができることを示したいからである。
 
偶像Kapitalを批判しても、それが、具体的な改革策に至らないといけない。Kapitalistは自分が確実に得するよう社会制度を変えていく。Kapitalistに逆らって、貧しい私たち弱者にとって有利な社会制度に変えていくようにしないといけない。
 
菅義偉は、新型コロナ禍を抑えるために、憲法を改正して、緊急事態事項を付け加えようとしている。叩き上げを称する菅義偉は、強い政府を主張することで選挙に勝ち、強い政府によって弱者を切り捨てようとしている。これがトンデモナイことであるのは、『資本論』を読んで資本制経済、貨幣、市場、剰余価値を理解しなくても、わかることではないか。