猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

白井聡の『武器としての「資本論」』を読む

2021-05-02 23:41:34 | 経済思想
 
きょう、図書館から白井聡の『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)を借りてきた。パンフレットのような12講からなる構成で、軽く読めるようになっているが、私にとっては読みづらい書き方である。
 
私より20年、30年若い人の本は、無知を責めるような書き方をする。これは読み手への恫喝である。白井のやっていることは、21世紀の状況に合うようにカール・マルクスの『資本論』を再解釈することである。だから、自分はこう考えると率直に言えばよいが、その前にお前は知らないだろうと恫喝することはない。
 
白井だけでなく、與那覇潤、加藤陽子もそういう書き方をする。これは、政府が教科書を検定して、ただ1つの真理しかないかのように、洗脳されている世代の欠陥だと思う。
 
そうはいっても、『資本論』は三巻からなるが、白井に教えられるまで、第1巻だけを読めば、いちおうそれでマルクスの思想を論じることができるとは、知らなかった。岩波文庫版で言うと、第1分冊から第3分冊まで読めばよいことになる。したがって、『資本論』を読む元気をくれる。
 
第1講で、白井は、突然、『資本論』第1巻の冒頭の向坂逸郎訳を掲げ、普通の人にはその含蓄がわからないだろう、言う。
 
《資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現れ、個々の商品は、この富の成素形態として現れる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。》
 
これって、日本語なのだろうか。私の学生時代の先生方は、普通の人にわからない日本語を書く。向坂だけでなく、丸山眞男もオカシナな日本語で書く。向坂も丸山も人々に知の明かりをともそうとするなら、やさしい日本語で話せと思う。
 
この部分は、
 
Der Reichthum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine „ungeheure Waare-sammlung“, die einzelne Waare als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Waare.
 
の翻訳にすぎない。白井は、向坂の権威にたよらず、自らやさしい日本語に訳せばよいだけだ。それでも、内容は難しいので、もったいぶらずに説明をすればよい。
 
歴史的に、マルクスにさきだって、ドイツ語では、GesellschaftとGemeinschaftとの使い分けがある。Gesellschaftenを「社会」と訳しているが、Gemeinschaft(共同体)と対立する現代社会を指している。
 
白井は、「商品」(Waare)は、現代社会の「個人」と「個人」とを結びつける唯一のもので、人間の労働力を含めすべてが「商品」されると、マルクスが考えているという。
 
私はマルクスの『資本論』を読んだことがないので、そうかもしれない、と思うだけである。私にとって、マルクスがどう考えるかでなく、白井はどう考え、それが、私にとって役立つかである。私は下町の商店街の生まれだから、商品しか人間と人間とを結びつけるものがないとは思わない。
 
私なりに問題整理をすれば、(1)現代社会のどのような問題が資本制社会によるものか、(2)資本制社会のどこをただせばよいのか、ということに興味がある。
 
本書のpage 134に、白井はイングランドでは「工場法を制定して労働者を保護した」ことに、マルクスのつぎの見解を添える。
 
《これをしなければ資本が搾取する相手である労働者がいなくなってしまうから、この法律が定められたのだ》
 
《これは資本主義の矛盾の現われであり、この矛盾から資本は自己規制しなければならなくなったのだ》
 
不可思議なのは「資本」が主語になっているが、搾取するのも自己規制するのも人間でないのか。そして、私が思うに、歴史上、人間は人間にずっと暴力をふるってきた。「共同体」が「現代社会」にとってかわり、「資本制の生産様式」になっても、新しい暴君がでてきただけではないのか。
 
確かに、「矛盾」を起こすのは「社会制度」である。したがって、「社会制度」を変えていかないといけない。「自己規制」という意味は罰則がないということか。それとも、だれが政治の主権をにぎっているかということを重視しているのか。
 
資本制の何が現代社会に新しい暴君の出現を許したのかが問われなければならない。それは生産様式ではなく、政治のあり方か、あるいは、教育か、を問うていかないといけないのではと私は思う。
 
本書は議論の余地が多そうである。

『ゆたかな社会』から見えるガルブレイスのマルクス論 

2021-04-14 23:30:34 | 経済思想


田中拓道の『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』(中公新書)の中には経済学者 J・K・ガルブレイスの名前が出てこない。ガルブレイスは歴代の民主党政権に仕え、不平等の是正、貧困の撲滅、公共部門への政府支出を訴えてきた。田中のガルブレイスの黙殺は不適切に思える。

これは、田中が、新自由主義とマルクス主義とを現代のリベラリズムの敵と見ていることと関係があると思われる。すなわち、ガルブレイスが、『ゆたかな社会 決定版』(岩波書店)の中で、カール・マルクスを評価していることが災いをしているのではないか、ということだ。しかし、黙殺はいけない。ガルブレイスがアメリカの民主党政権に加わってきたのだから、田中は、嫌いなら嫌いでよいが、何らかの位置づけを与えるべきだ。

ここでは、ガルブレイスが『ゆたかな社会 決定版』でマルクスや資本主義をどのように書いているか、みていこう。

ガルブレイスは序文につぎのように述べる。

《デイヴィッド・リカード、トーマス・ロバート・マルサス、さらに不可避な革命という帰結に至るまでのカール・マルクス、といった人たちの著作からは、人類の将来がぞっとするものであることが見えてくる。》

この意味は、マルクスが、経済学本流のリカードやマルサスと同じく、資本主義の暗い未来を予測しながら、マルクスだけが「革命」というものをその先に予測しているということだ。ガルブレイスは本文で つぎのように述べる。

《両者の違いは、リカードとその直接の継承者たちが資本主義制度は存続するとみたのに対して、マルクスはそれを否定した点にある。》52頁

《マルクスの使命は、リカードやマルサスとはちがって、欠陥を指摘し、罪の責任を追及し、変革を促し、そしてとくに規律的な信条を募ったことである。》96頁

経済主流派は、社会の富が増加すればよい、貢献した企業家がその富をとるのは当然だと考える。不平等を肯定するのである。

《競争社会――リカードの流れをくむ主流派経済学が考えた社会――においては能率のいい者が得をすることが前提されていた。有能な企業家や労働者は自動的に報酬を受けた。無能な者もやはり自動的にその無能あるいは怠惰の罰を受けた。》113頁

《どろぼう以外の方法で人が取得したものには所有権があるということが、自然法であり公平であるとして、いつも基本的な主張となってきた。》114頁

《所得を自由に享受できることは刺激として不可欠であると主張された。》115頁

《所得の分配がちらばれば支出されてしまうだろうが、もし所得が金持ちに集中的に流れこむとすれば、一部分は貯蓄されて投資されるに違いないというのである。》115頁

《教育や芸術を十分に補助する必要があるとすれば金持ちが絶対に必要である。》115頁

しかし、ガルブレイスは、人が勤勉であろうとなかろうと個人の力でどうしようもないことがおきると考える。そして、資本主義のもつ傾向が貧しい者がますます貧しくなるとしたら、「金持ちは何らかの方法で貧乏人にその富を分け与えるべき」という再分配が必要だとする。

《資本の集中が進み、生産設備や資源はますます少数者の手中に入り、その少数者の富は不断に増大する。》99頁

《雇い主である資本家との交渉において労働者の立場が全然弱いからであり、また労働者の賃金がよければ資本主義制度がうまく動かないからである。》96頁

《増減があるにせよ、常に失業が存在し、それが資本主義体制の一部になっていることである。労働者はこの予備軍にいつ放り込まれるかわからない立場にあるので、彼は協力的になり、示された賃金を呑まざるをえない。》97頁

《技術の進歩や資本の蓄積は一般の人びとの利益にはならない。》97頁

《さらに、資本主義はひどい不況への傾向を本質的に持っている。》97頁

《労働者の購買力が労働者の生産についていけないということが問題の点であった。その結果、買い手のない商品が累積し、恐慌は不可避的になるということだ。》98頁

これは、現在でも、当てはまっていることだ。

ガルブレイスのマルクス評価はつぎのようである。

《彼の目標は革命であったが、その方法は学者的であった。》102頁

《(マルクスに反対や無視する人びとへの深い影響は)社会理論におけるマルクスの業績が驚くほど偉大であったことの結果でもある。人間の行動のいろいろな要素を取り出して総合した点で、後にも先にもマルクスの右に出たものはない。社会階級、経済行動、国家の本質、帝国主義、戦争などはすべて体系化されていて、遠い過去からはるかな未来にまで及ぶ大きな壁画に描かれている。》101頁

ガルブレイスが下した評価の中でつぎは面白いと思った。

《(革命の次の段階では)マルクスは楽観論者である。いまやリカードのそれよりもずっと完全な自由放任への道が開かれる。なぜなら、政府というものは資本主義の必要と資本主義が生みだしたもうけ主義との産物なのだが、もうけ主義思想の現われである盗みを防いだり、大衆を警視したりする必要がもはやなくなるので、国家死滅し始める。しかし、不幸なことだが、革命がまず第1だ。》100頁

ここの「楽観論者」は考えが甘いという意味もこめられていると私は推定する。マルクスが、人間は自由であるべきだ、と考えていたことには同意する。

ガルブレイスがマルクスと大きく異なるのは、革命をしなくても、資本主義の修正で貧困を解決できるとみているところである。これは、ニュー・ディル政策が一定の効果があり、戦後にアメリカの繁栄を導いたことをガルブレイスが経験したことによると思う。

そして、ガルブレイスは、競争社会のもつ不安定性に対する「経済的保障」の重要性を訴える。金持ちは自分たちの力を使って不確実性を回避するようにできるのに対し、労働者の不安定性を回避する「経済的保障制度」がない。

田中のリベラリズムは、あくまで、中間層のためのリベラリズムで、依然として存在する貧困層や貧困層の予備軍のためのものでない。

屈折した言葉使いのガルブレイスの『ゆたかな社会』

2021-04-11 23:19:37 | 経済思想

昨日につづいて、J・K・ガルブレイスの『ゆたかな社会 決定版』(岩波書店)を読む。老眼の私には文字が小さくて苦労したが、なれて裸眼で読めるようになった。

本書はアメリカでベストセラーになり、20世紀のnon-fiction booksの部門で46位になっている。ガルブレイスは、ハーバード大学教授をとなり、歴代の民主党政権のアドバイザーを務め、非専門家のために たくさんの本を書いた。1972年にはアメリカの経済学会の会長も務めた。2000年には大統領ビル・クリントンからPresidential Medal of Freedomを受け取っている。

本書を読むと、私のような理系の人間には真意がわからないほど、ガルブレイスは非常に控え目で屈折した表現をしていると感じる。しかし、それでも、彼は、多くの経済学者から批判された。新自由主義者のミルトン・フリードマンから非難されるのはわかるが、リベラル派のポール・クルーグマンからも批判されている。

例えばガルブレイスは、つぎのように書く。

《何世紀もつづいた停滞が富の増大によって緩和され、その富が少数の人びとの手に集中し始めた状況を背景として、経済学の諸観念が考え出され、世に出たのである。経済学者が大衆の窮乏と荒廃とを自明のことと考えなかったとすれば、歴史にも環境にも無関心だったというべきであろう。》

彼の主張は2つの文からなる。前方の文には違和感がないが、後方の文が理系の私が理解できない。当時の経済学者たちが「大衆の窮乏と荒廃とを自明と考えていた」と彼が言いたいのか、それとも、「歴史にも環境にも無関心だった」と彼が言いたいのかが、釈然としないのである。しかし、多くの経済学者には、彼が何を言いたいのか、すぐに分かったから、彼に怒ったのであろう。

つづいて、ガルブレイスは次のように言う。

《経済思想史の中で、主流派の最初の傑物であったアダム・スミス(1730―90年)は楽観論者と考えられている。》

《彼はすばらしく簡明に次のように述べている。「共同して賃金を引き下げてはならないという法律はないが、共同して賃金を引き上げてはならないという法律はたくさんある。」》

《「彼(労働者)の賃金は、少なくとも彼の生活を維持するに足るものではなくてならない。賃金は多くの場合、これより幾分高くなるに違いない。さもなければ彼は家族を養うことができなくてなって、そのような労働者の家系は最初の一代以上は続かないであろう。」》

この「楽観論者」というのは、悪い意味で使われているのではないかと、私は思い悩むのである。「家系は最初の一代以上は続かないであろう」とは、家族を持てないということであろう。現代にも家族をもてないという貧困は起きている。

ガルブレイスの『ゆたかな社会 決定版』と2000年頃の世界

2021-04-10 23:04:42 | 経済思想


おととい、ひさしぶりに本を買った。J. K. ガルブレイスの『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)である。

ガルブレイスの著作『ガルブレイスの大恐慌』を読んだのは、まだ外資系IT会社に務めていたころ、2000年頃だと思う。そのころ、確率モデルにもとづくコンピューター高速株式取引がはやっていて、私はアメリカで、世界の大金融会社の重役を招いて話を聞いたり、シカゴの証券取引場システム構築の担当者と議論したりしていた。そのとき、1930年代の大恐慌の教訓として禁じられたとガルブレイスが書いていたことを、金融ビッグバンという名目で、みんな破っていて、大丈夫かなと不安に思ったことを覚えている。

そのころ、すでに、アメリカの銀行は通常の金融業では儲からなくなり、金融業界全体がギャンブル化していた。2000年の夏にアメリカではIT株のバブルがはじけ、つぎに、バイオテクノロジー株にバブルが仕掛けられたが、腰砕けになった。金融界のつぎの儲け話は、リスクの高い社積や個人の借金を混ぜ合わせて金融商品化であった。その結果、起きたのが2008年のリーマンショックだった。

金融界は、これにこりず、今年また、投資ファンドに貸した金が取り戻せず、大損失を出している。大恐慌の教訓を無視したフリードマンらの金融規制緩和が誤りだったことを反省しない各国政府に、いらだつ。

ガルブレイスの『ゆたかな社会 決定版』を読むと、彼は数理モデルを立てるのではなく、経済活動にかかわる人間の行動の背景にある心理を考えることで、経済法則をとらえようとしている。2000年頃の私は、確率モデルで経済をとらえようとしたが、人間の心は社会環境や偶然の出来事によって変わっていくので、確率モデルの仮定が時代と共に変えていく必要が生じる。すなわち、確率モデルによる金融取引は、ほんの少し先のことしか、成功しないのだ。これが、金融会社が大型高速コンピューターを買って、高速取引に勝負をかける理由だった。もちろん、大型高速コンピュータには、新聞記事にのるような会社の人事情報や政府の動きや国際紛争なども入力され、株価予測に使われた。

ガルブレイスは、『ゆたかな社会』のなかで、過去の人間行動の法則化を「通念(conventional wisdom)」と呼んで、経済学は陳腐化すると言っている。人類は長い間貧困のなかにあったが、アメリカは戦後ゆたかな社会になった。だから、経済学の考えも変えないといけない、というのが、彼の主張である。

本を買った直接的な理由は、図書館でちょっと読んだとき、彼がカール・マルクスの経済学を評価していたからである。もっと読みたかったが、図書館からすでに上限の6冊を借りており、帰り道に本屋によって買った。

ガルブレイスは、マルクスが経済学主流のデイヴィッド・リカードの理論を引き継いでいるという。主流派の鉄則は、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者は貧しくなるということである。ところが、本書をはじめてだした1958年、アメリカ社会では、貧しい者が少数者になり、政治家が、票にならない貧しい者を見捨てるようになっていた。これが、本書を書くガルブレイスの動機になったようである。すなわち、アメリカが「ゆたかな社会」になったから、これで良いのではなく、「ゆたかな社会」になったからこそ貧困撲滅にとりかかるべきだと彼は考える。実際、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソンの貧困撲滅政策に貢献した。

ガルブレイスはその40年後、本書の大幅な改定を行った。それが、日本版の表題に「決定版」が加わった理由である。英語版のタイトルでは、“The Affluent Society, New Edition”である。

いま読んでいるところでは、ガルブレイスは、経済のグローバル化を考慮のなかに入れていないようにみえる。2000年ごろには、会社の中でグローバル化が言われ、これからは中国が世界の消費市場に加わる、と期待された。1980年代に「ジャパン・イズ・ナンバーワン」と言われたことなど、もう忘れ去られていた。

カール・マルクスがちょっとしたブームになっている、『資本論』

2021-03-13 22:20:32 | 経済思想


きょうの朝日新聞の夕刊に『(いま聞く)白井聡さん 政治学者 「資本論」が注目される理由は』というインタビュー記事があった。

「カール・マルクスがちょっとしたブームになっている」という笠井哲也記者の書き出しで始まる。私はブームになっているとは知らなかった。私は、図書館で、早速、白井聡の『武器としての「資本論」』を予約した。横浜市で15冊も購入しているから、1か月後に読めるだろう。森本あんりの『不寛容論』よりは早く読める。(『不寛容論』をもっと購入して欲しいと思っている。)

私は『資本論』を読んだことはない。一般に原著より解説本のほうが読みやすい。私の経験からすると、読みにくいというのは納得がいかないことが書かれているからだ。解説本は、その納得がいかない部分を丁寧に取り除いており、飲みやすい薬のように変えているからだ。効き目が元のようにあるかは疑問だが、確かに飲みやすくなる。

『資本論』は厚い本である。そんなに厚くならないと真理を語れないか、私は疑問をもつ。私たち貧民にとって、インテリアは理屈っぽくて苛立つ嫌なやつだ。したがって、解説本は重宝である。

マルクスの薄い本、『共産党宣言』『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』を私は読んだが、これは青臭くて、『資本論』と別な理由で読んでいるうちに苛立つ。

インタビューで、白井は「マルクスは資本(主義?)を、価値を増殖していく運動、つまりお金もうけの運動だと定義する」と言う。これは、わかりやすい。そうすると、「資本家」は資本によって「包摂」された可哀そうな人たちになる。

しかし、お金(価値)の増殖にとらわれた人は、昔からいる。そういう話しは新約聖書にもでてくる。『マタイ福音書』25章14~29節、また、『ルカ福音書』19章11~27節の「持てる人はますます豊かになり、持たない人は持っているものまで取り上げられる」という寓話である。

〈金持ちがお金を3人のしもべに預けて旅に出る。その金持ちが長い旅から帰ってきて、しもべたちに報告を聞く。2人のしもべは、それを元手にお金を増やしたと言う。しかし、最後のしもべは、それを失わないよう地面に埋めてだいじに守ってきたと言う。金持ちは怒ってこのしもべを罰した。〉

森の住民であるヨーロッパ人の歴史からいうと、お金の増殖に人々がとらわれるのは近代にはいってからである。中世は身分制があったが、競争のない平和な世界であった。それが、土地が主たる生産手段から、機械が主たる生産手段になると、新しい機械を導入し、工場を拡大し、人を雇入れる競争が市民(ブルジョアジー)のなかに起きた、とカール・カウツキーは書いている。

すると、マルクスは生産手段が人間を疎外すると言いたかったのではないか。

しかし、社会に出て話しをするようになると、「資本主義社会だから自分の利益を追求せざるをえない」と自己弁護する人たちに、しばしば出会う。

似たような話は、宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』に出てくる。

〈アメリカにおいて見られるのは、自己利益を追求する利己的な精神である。にもかかわらず、アメリカ人は同時に「正しく理解された(自己)利益」をよく理解しており、自己の繁栄と社会の繁栄とが矛盾するどころか、長い目で見れば、密接に結びついていることをよくわきまえている〉

とトクヴィルが言っているという。

朝日新聞のインタビュー記事を読むと、つぎのように書かれている。

〈(人間の立て直しを)どうしたらいいのか。白井さんは、まずは私たちが「それは嫌だ」「もっとぜいたくを享受していい」と、強く訴えることだと説く。〉

さて、日本の保守は「資本主義」のかわりに「自由主義」だと言う。「資本主義」を「価値の自己増殖運動」だとも、「生産手段による人間の疎外」だとも言わない。

しかし、「資本主義」だろうが なかろうが、他人を踏みにじってまで自己利益を追求してはいけないと思う。私たちはデモクラシーを標榜している。人間のあいだに上下関係はない。対等である。

「資本主義社会だから自分の利益を追求せざるをえない」という言葉の裏には、他人を踏みにじって生きてきたという後ろめたい思いが隠されている。