猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

見果てぬ科学者の夢、20世紀最大のスキャンダル常温核融合事件

2021-02-25 23:54:25 | 科学と技術
 
きょう、BS NHKの『フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿』で「20世紀最大の科学スキャンダル“常温核融合”事件」を取り上げていた。
 
事件は、バナジウムを陰極として重水を電気分解すると、入力したエネルギーを超える発熱があり、常温核融合が起きた、と、1989年3月23日にスタンレー・ポンズとマーティン・フライシュマンとが記者会見で発表したことだ。ノーベル賞ものと全世界で騒ぎになったが、結局、実験が再現できず、否定されたのである。ここで、重水とは、水分子を構成する水素原子の核が、陽子と中性子が1個ずつの原子核、すなわち、重水素の核からできているものをいう。
 
ちょうど、民間企業の研究所にいたころであり、思い出深い大事件である。この常温核融合の発表が世界的に科学者たちを熱狂させたのには、次のような背景があった。
 
1つは、高額の大装置をつかったプラズマ核融合が30年以上の研究開発をかけても成功せず、新しいアイデアが求められていた。2つの重水素の原子核が核融合を起こしてヘリウムの原子核できるためには、プラスの電荷とプラスの電荷の反発が作るポテンシャルの壁を通り越える必要がある。そのために、高温高圧の状態を作ろうとするが、その状態を安定に保てなかった。
 
もう1つは、1986年にIBMチューリッヒ研究所のK. A. ミュラーとJ. ベドノルツが、これまでの常識を破る高い温度で超伝導が起きる固体物質LaBaCuOを発見したことだ。それまでは絶対温度で25度K以上での超伝導は不可能だと信じられていた。彼らが発見した物質は35度Kで超伝導を起こした。これが発表されるやいなや、世界中で、いろいろな固体物質が精製され、つぎつぎとより高い温度で超伝導を起こす物質が発見された。このことで、ミュラーとベドノルツとが、1987年にノーベル賞を受賞した。
 
この高温超伝導物質の発見は、日常的な感覚での高温ではなかったが、お金をかけなくても、小規模なプロジェクトで、常識を破る発見ができるという夢を、物理や化学の科学者たちに与えたのである。
 
NHKは、以上の科学者を熱狂させた背景をすっとばして、共同研究者のフライシュマンが有名な電気化学の研究者であったことのみを、当時の科学者の熱狂の要因している。
 
そして、ポンズが突然のライバルの出現で焦って、研究が未完成のまま発表に追い込まれたことに番組のテーマを絞った。
 
確かに、科学者の名誉心や、また、「選択と集中」という研究費の配分に、問題がある。しかし、いっぽうで、お金をかけず、夢を追いかけて地道な研究を続けている科学者たちの存在を信じて欲しい。
 
私が院生で物理教室にいたころ、ディラックの仮説のモノポール(磁気単極子)を東北の砂鉄の山で探していた先生や、自分で金属を加工して重力波を測定する装置を作っていた先生など、見果てぬ夢を追いつづける人たちがいたのである。

新型コロナはRNAウイルス、好奇心をかりたてる科学番組も見たい

2020-05-30 22:20:04 | 科学と技術

緊急事態宣言が解除され、図書館は5月27日から開館となった。まだ閲覧も予約もできないが、緊急事態宣言前に予約した本が受け取れる。早速、菊池洋の『ノーベル賞の生命科学入門 RNAが拓く新世界』(講談社)を受け取ってきた。

新型コロナがRNAウイルスだと聞いて、RNAについて、もっと知りたいと思ったからだ。

読み始めて、自分がRNAについてまったく無知だったと気づいた。私が知っていたのは、DNAの遺伝子コードがRNAのコードに写され、RNAのコードに従って、アミノ酸がつながれてタンパクが合成されるという「セントラルドグマ」までだ。

現在、PCR検査では、鼻の奥からとった検体に試薬をいれて、PCR機器に入れて、RNAが増幅すれば陽性と判定とするという。遺伝子研究にたずさわたった昔の物理学科の同窓生に聞くと、RNAの塩基配列がわかれば、その塩基配列のRNAを増幅する試薬を合成できるのだという。論文が出ているという。それ以上は聞いても、私にはわからなかった。

今回、借りてきた菊池洋の本には、試薬の合成の仕方までは書いてない。

菊池洋の本には、自然界ではRNAからDNAが作成される流れもあるとか、真核生物のDNAには遺伝子コードの部分(エキソン)だけでなく、アミノ酸の配列をコードしていないイントロンという部分があるが、そのまま転写され、スプライシングする(分断される)とき、イントロンが酵素の役割をし、リボザイムといわれているとか、そのイントロンの部分が遺伝子発現をコントロールしているとか、知らなかったことばかりである。抗体ができるのも、ウイルスのRNAの切片が、生体物質と特異的に結合することを利用してであるという。

新型コロナのSARS-CoV-2ウイルスは、ずいぶん複雑なことをして、人間の細胞に侵入し、繁殖しているのだろう。

メディアも、1.5メートル離れれば良いのか,それとも 2メートル離れるのが良いのかとか、エアコンは換気されないから1時間おきに窓を開けて換気すべきとか、マスクをすると熱中症になるから注意をしろとか、気持ちが重くなる話ばかりを報道するのではなく、RNAはどんなものか、科学的好奇心を刺激する番組や特集を組んでほしいと思う。

人類はウイルスと共存するのだという教訓的な話だけでなく、自然の奥深さにひたる夢のある話も聞きたいのだ。

とにかく、私は、RNAについて何も知らなかった。

科学を装った政治、新型コロナは専門家にまかして良いのか

2020-05-23 22:35:46 | 科学と技術

きのうの朝日新聞に、神里達博の『専門家によるデータ公開 「科学を装った政治」を防ぐ』というコラムがあった。この小論は、多くの問題を短い行数で論じているので、主張が私にはわかりにくいが、扱っていることは根が深い。

その論点を整理すると次のようになる。

1.《日本の新型コロナウイルス感染症の状況には、よく分からない》《政権自体もこの状況をどう評価すべきか、迷っているようにも見える》

2.《政治家が専門家に重要な判断の責任を押し付けたり、あるいは専門家の側も自分の専門領域以上のところに踏み込んで、社会に対して説明を試みたりしているようにも見える》

3.《よくないのは、政治の側が価値判断をひそかに忍び込ませているのに、あたかも科学的に、自動的に導かれた結論であるかのように、自らの政策を国民に説明することである》《科学的な判断に基づくように装うことで、政治の側は、するりと責任を回避することもできてしまう》

一見、論理が通っているように見えるが、「科学」とは何か、「専門家」とは何か、の理解によっては、問題点が吹き出るだろう。

「新型コロナ対策専門家会議」の名がさすように、彼らは政府お抱えの「専門家」か、「医師会」の幹部である。「科学」とは何の関係もない。神里の小論に、どこにも、「科学者」「学者」「研究者」「医師」「医療従事者」の言葉が出てこないのである。

すなわち、神里の頭には、「政治家」と「専門家」以外の人間が存在しないのである。私は、まず、これに強い違和感を感じる。「政治家」と「専門家」だけで どうして「科学的判断」ができるのだろうか。

第1の論点からいえば、「よくわからない」のはPCR検査を政治的理由で絞ったからである。「科学的」という意味を事実にそって言えば、3月の末、専門家会議の尾身茂が、外人記者団に詫びたように、PCR検査能力が当時の日本になかったのではなく、検査の結果判明する感染者を受け入れる病院がなかったことである。日本医師会は感染者をうけいれたくなかったのである。

人間とは利害で動く動物である。ただ、民主主義社会の政治では、その利害を表に出して、利害の対立するもの同士が妥協することである。残念ながら、それがなされなかった。

若者は、思っているなら、私のような老人に向かって「新型コロナで死ね」と言っても良いのである。私は、その若者に向かって、「おまえも老人になるのだ、老人だからといって死んでも良いのか」と言い返すであろう。

事実を明らかにすることが、科学である。もちろん、事実と妄想との区別はむずかしい。事実とされるものは、つねに、一時的な思い込み、仮説で、新たなできごとで訂正されていかなければならない。

では、今回、政府の決定に「科学者」は参加できたか。排除されている。すなわち、民主主義社会の原則である、利害の調整は、経済団体(大手の経営者)、厚労省の役人、医師会の一部の間だけで利害が調整されたのである。神里は、この点に対して突っ込むべきであったのではないか。多くの人たちは参加できなかったのである。

第2の論点「専門家の側も自分の専門領域以上のところに踏み込んで」と批判の意味がわからない。具体的例をあげてもらうとわかるのだが。

たぶん私が思うに、メディアにいろいろな専門家、研究者、医師がでてきて発言したことを神里が言っているのだろう。まちがったことを言っていると神里が思うなら、それを具体的に批判しないといけない。「専門領域以上」のことを言ってよいのである。それが民主主義というものだ。

第3の論点「科学的な判断に基づく」ように装うというのは、詐欺だから、イケナイことである。

神里は、「科学」とは「数値」でないと言いたいのだろう。それに同意する。緊急事態宣言の解除を政治家が「数値」の問題にすり替えたのは、間違っている。

「科学」が政策の選択を決定できることなんて、そもそも、ありえない。「科学」が仮説を実証によって訂正していくことなら、信頼できる仮説に達するのに、何百年も要する。「政策」は妥協である。

新型コロナ対策も、あくまで、現時点の科学や技術にもとづき、利害を調整しながら行う、政治的施策である。大事な問題であれば、あるほど、議論の過程を公開し、多くの人を巻き込んで、行動していかないといけない。

神里の主張の根底に、「専門家」というものを「権威」として捉えていることがあるのだろう。この考えかたでは、どうしても、「専門家」が「権力」の太鼓たたきになる。科学や技術はむずかしいものではない。頭でこね回してつくりだされた妄想ではない。「科学・技術」は、まともな教育をうければ、多くの人が理解可能なものである。「専門家」以外も、自分の利害を守るため、政策決定にあたって、科学や技術にもとづき、発言して良いのである。それが民主主義社会である。

[補遺]
エンゲルスの著作に『空想から科学へ』(新日本出版社)がある。原題は、 “Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft”がある。しいて訳するなら「ユートピアから科学への社会主義の発展」となるだろう。19世紀のドイツ系知識人のいう「科学(Wissenschaft)」は「神学」に対抗するもので、「合理的思考による学問」という意味である。「知識」と「科学」の区別がついていない。
イギリスの知識人がいう「科学(science)」は、実証によって訂正され蓄積される知識体系である。ノーベル賞受賞者の本庶佑が「教科書に書いてあることに疑問を持たないなら、科学の研究者の資格」がないといった「科学」である。私は、本庶の意見に同意し、日本の科学教育は間違っていると思う。日本の科学の教科書は用語を覚えることに終始しており、科学が現実に適用できるかの実証にも、論理的整合性の検討にも、重きをおかない。まるで、お経を覚えるかのように、「科学」教育をおこなっている。

[補遺]
集団免疫方策を選択したスウェーデンで、老人の死亡例が多いという。これは、自然なことなのか、どうかが気になる。イギリスとかアメリカとかの例では、老人ホームで新型コロナの集団感染が多発しており、死亡はそのなかでも、介護放棄に起因しているように見える。老人の立場から見ると、人為的なものか、施設との相関が高いのか、気になる。西浦博もこの問題を科学的に分析してみたらどうだろうか。

日本の基礎研究は危機、政府は研究の「選択と集中」をするな

2019-10-28 22:48:14 | 科学と技術
 
きょうの朝日新聞に、嘉幡久敬が《記者解説》『後退する基礎研究 0から1生む力、競争政策で弱まる』を書いていた。論旨は、現在の日本政府は大学などの基礎研究費を低く抑え、有用だとする研究を選択し、集中的に投資することで、かえって、日本の科学技術のレベルを引き下げているというものだ。
 
私はそのとおりだと思う。
 
大隅良典や本庶佑や吉野彰など、ノーベル賞受賞者も、毎回、記者会見で、政府に実用研究より基礎研究にお金を出すように訴えている。そして、彼らは、自分のノーベル賞の賞金をこれからの若い研究者たちを支援するための基金にした。
 
朝日新聞は、昨年の9月26日から10月6日まで、『教えて!日本の「科学力」』という特集を計8回連載した。この記事も日本の科学力を誇るものではなく、日本の科学・技術界の寒々とした実情を語るものであった。
 
特集では、日本は、2003年から2005年にかけて、重要論文数が、世界4位であったものが、10年後の今、世界9位に落ちているという。各国別の順位変動で見ると、中国だけが急に上昇しており、いっぽうで、日本だけが急激に順位を下げている。
 
これは、ひとえに、日本の政府の政策の誤りから来る。
英科学誌ネイチャーは、日本の低迷の原因を、運営費交付金が削減されて人件費が減り、若手研究者は正規雇用のチャンスが少なくなったことなどを挙げた。
 
日本が貧乏な時代のノーベル賞は、理論物理(湯川秀樹、朝永振一郎)や理論化学(福井謙一)であった。江崎玲於奈だけは例外的でソニーでトンネル効果を実験で確認した。その後、IBMの研究所に移り、エキゾチックな性質をもつ無機物固体を次々と合成した。
 
1987年のノーベル生理学・医学賞の利根川進は、アメリカに渡り研究した結果が評価された結果である。
 
2000年後、日本人のノーベル賞受賞者は急激に増えるが、基本的には海外で研究した成果が多い。日本に戻ってこない,あるいは、これない受賞者も少ない。青色ダイオードの中村修二や素粒子論の南部陽一郎はアメリカ国籍をとった。日本が豊かになったはずなのに、非常に寒々とした風景である。
 
経済的基盤が下がり、ギャンブル化した金融だけが突出している現在のアメリカに、日本の若い研究者を養ってもらうという期待を、もはや、すべきでない。日本経済は、中国に追い抜かれ、韓国に迫られている といえども、まだ、国民総生産(GDP)では世界3位である。若い研究者に研究に専念できる職を提供すべきである。さもないと、研究者を志望する若者がいなくなるだろう。
 
私は、「基礎研究」という言葉を良いと思わない。英語でいえば、Research(研究)かDevelopment(開発)かの違いが本質である。開発とは、市場を見込むことができ、技術的にも解決できる見込みがあることがらを、解決することを言う。1年で成果が問われる研究とは開発にすぎない。
 
もちろん、研究は別に大学でなくても企業でもできるべきである。企業も太っ腹になって、第二の江崎玲於奈、田中耕一、中村修二、吉野彰を育てないといけない。
 
私がIBMにいたころ、40年前になるが、「日本の企業は研究文化の破壊している」とアメリカ企業の研究者によく責められた。日本の企業は、革新的な技術の創造に投資せず、ほぼ確立した技術を寝るのも惜しんで開発しつづけて、市場で大儲けをしている、その余波で、アメリカの企業研究所が閉鎖に追い込まれている、モラルに反する、という非難である。その通りである。
 
日本政府は、市場を見込むことができ、技術的にも解決の見込みがある開発は、企業に任すべきである。開発は利益に直結するからだ。
政府は、もっと研究にお金を回すべきである。研究とは公的な仕事である。日本が貧乏というなら、「選択と集中」をするな。「選択と集中」を行うと、口がうまくて結果が見える処にお金が行く。
 
いちばんよい例は、ビックサイエンスである。ビックサイエンスにお金を出すな。2002年にノーベル物理賞をとった小柴昌俊は、昔、私ら学生にお金でノーベル賞をとれると豪語していた。大きな装置をつくって、だれもやらなかった実験をすれば、ノーベル賞がとれるという論法である。この考えは、当時、別に彼に限らず、海外では公然と語られていた。彼は、自民党や役人を説得して実行し、予定通りノーベル賞をとった。
 
私は、日本が貧乏なら、ビックサイエンスをやめて、研究者の職を安定させることに投資すべきだと思う。少なくても、研究者が食べることができ、寝るところがある生活を保障すべきである。正規雇用もされず、奨学金の返還で極貧生活を送るような環境で、1年ごとに成果が求められるのは異常であると思う。

吉野彰のノーベル化学賞受賞、おめでとう

2019-10-09 22:51:09 | 科学と技術


いま、ノーベル賞の発表の季節である。吉野彰がリチウムイオン電池の開発で今年の化学賞をもらった。田中耕一、中村修二、江崎玲於奈と同じく企業での仕事での受賞である。おめでとう。

ところで、ノーベル賞を創ったスウェーデン生まれのアルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel)は、安倍晋三が嫌うコスモポリタンである。

ノーベルは若いときはロシア、ドイツ、フランス、米国などを旅し、ダイナマイトを発明してから、20以上の国々に工場を作った。しかも、死ぬとき、科学技術、医療、文学、平和に貢献した世界中の人に、賞を出すよう遺言した。
19世紀のことである。19世紀は国民国家主義が高揚した時期だから、親族だけでなく、スウェーデン国内にも、国境を越えて賞を出すことに反対があった。
しかし、遺言は実行された。

アルフレッド・ノーベルは世界の文化的発展を願っていた。科学や経済学や文学は国境を越え、全世界の人に豊かさをもたらすものだ。

私たちも日本人という帰属意識に酔いしれてはいけない。

日本人の吉野彰がノーベル賞を受賞したからといって、日本人がとくに優秀なわけでも、日本国の科学技術水準がとくに高いわけでもない。それどころか、日本の科学教育は問題だ。大学も崩壊の寸前だ。

科学の研究は人間なら誰でもできることで、誰でもに素晴らしい成果を出せるチャンスはある。ところが、日本の小中高の教育は、覚えることが中心になり、塾で受験のテクニックばかりを教え込んでいる。

こんなに悪い日本の教育環境、研究環境で、ノーベル賞をとったのは、まさに個人の力である。賞賛と敬意に値する。吉野彰が偉いのであって、安倍晋三のおかげでない。