今日の朝日新聞の読書欄の書評に、ジョン・ハーシーの言葉「1945年以来、世界を原子爆弾から安全に守ってきたのは広島で起きたことの記憶だった」が引用されていた。
被爆の記憶を風化させないために、きのうの平和記念式典は意味がある。
その式典のあいさつで、首相の菅義偉はつぎの文を読み飛ばした。
《我が国は、核兵器の「非人道性」をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。》
菅は大きな声で原稿を読み上げることばかりに気をとられて、あいさつの中身のことなど、頭になかったのだろう。
広島市長の平和宣言文にはつぎのように原爆を落としたことの非難が冒頭にある。
《76年前の今日、我が故郷は、一発の原子爆弾によって一瞬で焦土と化し、罪のない多くの人々に惨たらしい死をもたらしただけではなく、……》
ところが、菅のあいさつには、「非人道性」の具体的記述がない。
《本日、・・・・・・原爆死没者慰霊式ならびに平和祈念式が執り行われるにあたり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。……。世界は今も新型コロナウイルス感染症という試練に……》
今年の1月22日に発効した国連の核兵器禁止条約(TPNW)に日本政府は批准していない。日本政府は、アメリカのご機嫌をうかがっていて、核兵器を実戦配備していることを非難しないのである。
7月16日にIOC会長のトーマス・バッハが広島を訪れたとき、それに反対するデモがあったが、菅義偉の平和記念式典参加に反対するデモがあっても良かったのではないか。
被爆体験の風化を防ぐといっても、平和記念式典が形式化して、単に「御霊をなぐさめる」だけになっていくのではないか、という懸念を今回感じた。
コロナ禍で平和の歌を10人ほどの高校生が歌っていたが、昨年のようにピアノ伴奏で二人が歌うので良いのではないか。
私の妻が被爆の記憶を強く受けついたのは、平和記念式典でなく、マンガの『はだしのゲン』である。このマンガのすごさは、「一瞬で焦土と化し、罪のない多くの人々に惨たらしい死をもたらした」だけでなく、多くの日本人が被爆者を差別し、助けの手を伸べなかったことを描いていることである。私の兄は広島の女の子と結婚したが、そのとき、彼女の両親は、自分たちが被爆地にいなかったとわざわざ私の両親に告げにきた。戦後25年しても、被爆者の差別があったのだ。
この日本人の偏狭さは、福島原発事故の後にも再現される。避難した人々が 放射能が避難先で放射能がうつると差別された。
平和記念式典は「御霊をなぐさめる」ためでなく、原爆を使用した軍人を非難するためで、また、いまなお、原爆を積んだミサイルが実戦配備をされていることを非難し、撤去させるためである。そして、戦争反対と結び付かないといけない。
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