今月の7日、22日に、朝日新聞で「漢字」について、いろいろな評者によって論じられている。7日には『常用漢字と私たち』というテーマで、22日には『漢字、どう思う?』というテーマで、論じられている。
そこでは、漢字教育が子どもに負荷となるとか、デイスクレシアや盲人にとって漢字が壁となるとか、そういうことが議論されなかった。また、明治以降、西洋文化の輸入に伴い漢字を連ねた造語が大量に作られたという問題も言及されていなかった。また、漢字の造語のまん延による話し言葉と書き言葉の乖離(かいり)も論じられていなかった。
せっかくの「漢字」についてのフォーラムにもかかわらず、まったく知性の欠く、低レベルの〈オピニオン&フォーラム〉にとどまった。
私は、人が漢字を使おうと使わないと、かまわない。われわれは自由な世界に生きている。
子どもたちは、ゲームにでてくる漢字をイラストとして、装飾としてみている。おどろおどろしい複雑な漢字がでてくれば、それで単純に喜んでいる。言葉だと思っていない。
また、発語がままならない子どもたちのうちのいくらかは、単語を作らずに1字や2字で意味をもつ漢字を書くことが好きな子がいる。
しかし、コミュニケーション手段一般として漢字を見たとき、あるいは、学校における漢字教育を考えたとき、さきに述べた問題が生じる。
詳しく論じよう。
江戸時代に庶民は漢字を使っていなかった。漢字は不要だったのである。私は本居宣長の書いたものを昔読んだが、漢字をほとんど使わずに、論理的な議論を書き残している。
現在の大量の漢語は、明治以降の西洋の文化を輸入する際、漢字を組み合わせて新たな言葉をつくり、翻訳したことによる。そのため、私の関する科学の分野でも、学部や大学によって、同じ英語やドイツ語やラテン語の用語が、異なる漢語に訳されているというが事態が生じている。また、漢語に訳されたため、もとの語がもっていた意味がずれて、日本社会で使われることもある。私は、日本語の文章は、横書にし、西洋に由来する用語は、そのまま、原語で書くのが望ましいと思う。
漢語が日本語で使われるときの もう一つの問題は、話し言葉と書き言葉と乖離である。漢語は視覚的なものである。同音異義といわれる漢語がやたらとある。耳で聞いてわかるものではない。漢語にたよると、知的な対話が口頭で行えなくなる。じっさい、私が現役の会社員のとき、ホワイトボードを前に議論を行ない、誤解を避けるため、まぎらわしい漢語はホワイトボードに書いたものである。口頭による知的な対話のために、漢語の使用を制限したほうがよい。
盲人のための点字には漢字がない。点字の世界は音声による言葉と並行している。健常者の平かなのつづりは、旧仮名遣いを引きついでいる。助詞の「は」や「へ」は、点字では「わ」「え」と書く。「おとうさん」は、発音通り、「おとーさん」と点字で書く。盲人の世界では、音声による言葉と、点字による言葉は忠実に対応している。
点字の世界のように、書き言葉を話し言葉に近づけることができるはずである。
コミュニケーション手段としてみたとき、漢語をできるだけ使わないほうが望ましい。漢字を使わないほうが望ましい。1960年代から1980年代にかけて、当時の知識人は、じっさい、接続詞、副詞、動詞における漢字の使用を意識的に避けていた。現在、パソコンの普及にともなって、安易に漢字の使用が増えている。
ディスレクシアの子どもたちには、漢字の使用を控える以上の問題がある。江戸時代のように、文節単位での分かち書きが望ましい。また、文が行をまたがるとき、文節が行で分けられないようにすべきである。面白いことに、これらのルールが、小学校1年から2年の教科書では守られている。そのため、漢字を使わなくても読みやすい文になっている。
漢字を学校で教えることに、私は、消極的にならざるをえない。漢字教育は子どもの覚えることを増やす。覚えることに子どもが慣れると考えなくなる。人によっては、漢字の筆順とか、とめ、はね、はらいとかまでを、子どもに要求する。もっとも、政府のガイドラインでは、このようなことを子どもに要求しないことになっているのだが。