2日前、重田園江が朝日新聞の政治季評で、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を紹介していた。20年前の本であるが、「敗北を抱きしめて」の言葉がとても心に響く。原書のタイトルも“Embracing Defeat”である。1999年の出版である。日本でも2年後に翻訳が出版された。
「日本では、朝鮮戦争前の数年間、1から国を作り直そうとするある種の理想主義が支配した。占領当局(GHQ)と日本の人々が自由と民主主義の夢を共有した時期があった」と重田は書く。なんとすがすがしい見方だろう。
この7月に殺害された安倍晋三は、アメリカに占領された時代に作られた憲法も法律もすべてが受け入れられない、と言う。いっぽうで、安倍は韓国をアダム国、日本をエバ国とする統一教会の信者だった。いつのまにか、日本の政治の中枢に統一教会のシンパが入り込んでいたことが、安倍の死で露呈した。ここで、日本はもう一度再生できるだろうか。
「敗戦によって政府や上層部の化けの皮がはがれたのだ。もし勝っていたら、皆がずっと騙されたままだったろう」と重田は書く。
私の母は、私が子どものとき、何度も何度も「日本は戦争に負けて良かった」と言った。「負けなければ軍人さんが威張ったままだろう」と言った。妻に聞くと、妻の母も同じことを言うと答えた。
保坂正康は『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)のなかで、戦前の軍人は非常にエリートだったと書く。子どもの時代から成績で選別され、軍人養成学校に行き、そこでも選別され、少数の者に天皇の臣下としての特別の権力が与えられた。それでは、威張るなといっても、威張ってしまう。そして、エリートは世間知らずだから、悪い奴に騙されていく。腐敗が進行する。非合理な政治的判断が下される。
ジョン・ダワーは人間の多様性と複雑さを描いているという。敗戦後に軍需物資を横流しして大もうけする元軍人や役人たちの横暴を描いている。
「上層部や特権層の多くはうまく立ち回り、戦後の混乱に乗じて私腹を肥やした。これを目にした人々は考えを変え、権威は地に堕ちた。人びとは敗北を抱きしめるしかなかった」と重田は書く。
ある一時期に理想主義が支配した日本は、時間をかけて、また権威と腐敗の支配する社会に戻っていった。戦争ができる「普通の国」に戻ろうとしている。安倍はそれを「美しい国」という。
今から11年前に東日本大震災が起きたとき、気仙沼のカトリック教徒の山浦玄嗣は、NHKの番組『こころの時代』で「すべてを失って、今、すがすがしい朝を迎える。自然は、今までと同じく、いや、それ以上に美しく、よみがえる。神は、人々を罰するために、地震と津波をもたらしたのではない」と語った。
11年前に、大津波と福島第1原発の事故を目の前にして、人びとは、もう一度日本の再生が訪れると期待した。原発に頼る生活を日本人が改めると思った。
しかし、ウクライナ侵攻を機に、自民党政権はエネルギー危機を理由に原発を再稼働するだけでなく、新規原発の建設を主張している。核兵器の保有や敵基地攻撃まで口にしている。ウクライナ侵攻では、原発が攻撃の脅威となっているのに、新規原発を作ろうとは。
安倍晋三の死を機に、もう一度、日本人は理想のもつことの「すがすがしさ」を思い起こそう。天皇制の廃止以外にいま憲法を改正する必要はない。軍拡競争に日本が参加する必要がない。原発は廃止すべきである。子どもに、株などの金融商品を買うことを学校で教える必要もない。教科書の検定はやめるべきである。