2006-0925-yms121
「水鳥は水の上」とは言えないわ
私も雲の上にいるのよ 悠山人
○紫式部集、詠む。
○詞書に、水鳥が思い悩むこともなさそうに遊ぶ様子を見て、と。水鳥は水鳥、私は私、と言いたいけれど、私も浮いた(雲居の)暮らしをしているので、よそごとではないわね。平王ク歌番号日記歌01。
¶みづとり(水鳥)=平王クは原文「水鳥」表記、索引読み「みづどり」。古語辞典に「みづどり」はなく、すべて「みずとり」。
□紫121:みづとりを みづのうえとや よそにみむ
われもうきたる よをすぐしつつ
□悠121:「みずとりは みずのうえ」とは いえないわ
わたしもくもの うえにいるのよ
2006-0923-yms120
私には菊のわずかな露にして
花のあるじはどうか千歳を 悠山人
○紫式部集、詠む。
○今日は、何かと菊に縁のある日。1008(寛弘5)年の重陽節(9月9日)の歌。前日から当日にかけて、「菊の花を真綿でおおって露と香を移し、その真綿で身体を拭くと老いが除けると考えられ、人に贈り物にもした。」(新潮版) 関東ではつい先日、杉並・大宮八幡で宮中に模したこの催しがあった(と、たしかに幼稚園児の可愛い写真を添えて、区の広報に載っていたのだが…)。例年の由。また、洛都の和菓子には、「お菓子」「おまん(饅頭)」「お餅」があって、「着せ綿」はお菓子(生菓子)の定番の一つとか。
ところで先日、この歌とは別にある調べものをしていたが、そのときこの歌を「菊の花」と紹介していたウェブサイトに、複数出会った。たしかこれは「露」ではなかったかと、不安になった。電網を利用するさいには、孫引き曾孫引きなどが充満しているので、心をいっそう引き締めなければと自戒した。紫には、意外なことに、菊の歌はこれ一首だけである。着せ綿は除魔延寿の力を持つとされたので、道長の妻倫子から受け取った紫が、(若い)私は少しだけ頂くことにして、北の方さまこそたっぷり身に付けて、せいぜい長生きなさって下さいな、と詠った。平王ク歌番号115。
唐突のようだが、紫とは違って、菊を大いに気に入っていた明治の文豪の短文が目に入ったので、下に紹介する。
¶わか(若)ゆ=「若くなる。若返る。」(古語辞典)
□紫120:きくのつゆ わかゆばかりに そでふれて
はなのあるじに ちよはゆづらむ
□悠120:わたしには きくのわずかな つゆにして
はなのあるじは どうかちとせを
【資料 幸田露伴「花いろいろ」から「菊」】
菊は、白き、好し。黄なる、好し。紅も好し。紫も好し。蜀紅も好し。大なる、好し。小なる、好し。鶴翎[かくれい]もよし。西施も好し。剪絨も好し。人の力は、花大にして、弁の奇、色の妖なるに見《あら》はれ、おのづからなる趣きは、花のすこやかにして色の純なるに見ゆ。淵明が愛せしは白き菊なりしとかや、順徳帝のめでたまひしも白きものなりしとぞ。げに白くして大きからぬは、花を着くる多くして、性も弱からず、雨風に悩まさるれば一度は地に伏しながらも忽《たちまち》起きあがりて咲くなど、菊つくりて誇る今の人ならぬ古《いにしへ》の人のまことに愛《め》でもすべきものなり。ありあけの月の下、墨染の夕風吹く頃も、花の白きはわけて潔く趣きあり。黄なるは花のまことの色とや、げに是も品あがりて奥ゆかしく見ゆ。紫も紅もそれぞれの趣きあり。厭はしきが一つとしてあらばこそ。たとひおのが好まぬもののあればとて、人の塗りつけたる色ならねば、遮りて悪くはいひがたし。折に触れては知らぬ趣きを見いだしつ、かゝるおもしろさもありけるものを、むかしは慮《おもひ》足らで由無くも云ひくだしたるよ、と悔ゆることあらん折は、花のおもはんところも羞かしからずや。このごろ或人菊の花を手にせる童子を画きたり。慈童かとおもへどさにもあらぬやうなり、蜀の成都の漢文翁石室の壁画にありといふ菊花娘子の図かと思へど、女とも見えず、また獼猴[びこう]《さる》も見えねば然《さ》にもあらぬやうなりと心まどひしけるが、画ける人のおもひより出でたる菊の花の精なりと後に聞きぬ。若し其人菊をめづること深くして、菊その情に酬ひざるを得ざるに至り、童子の姿を仮りて其人の前に現はれしことなどありて後、筆をとりて其おもかげを写したらんには、一ト入[ひとしお]おもしろきものの成りたるならんとぞ微笑まる。
-悠山人注①出所は青空文庫。ただし、僅かに補正した。②[ ]は、私の挿入。現代表記。
2006-0921-yms119
どうしてか長いあやめをね出しせず
袂に隠すことも出来ない 悠山人
○紫式部集、詠む。
○返し。せっかく頂いたのに、どうしたのかしら、長い根が袂に包みきれないの。今日も長い泣き音(声ともならない泣き声)の涙を、包み(隠し)きれない、そのわけ(文目=あやめ)も分からないのと、おんなじね。平安も末期になると、急速に浄土信仰(無常観が中心)が勢いを増すのだが、それにしても一方で開明的な紫、他方で無常観も徹底している。平王クには、語釈の各説が詳しい。平王ク歌番号072。
¶あやめ=「菖蒲」「文目」の掛詞。(短歌写真、去年07月24日)。紫式部~新潮版は、「あやめ」の漢字表記はすべて前者だと記憶する。私の場合は便利のため、おおむね前者に「しょうぶ」、後者に「あやめ」を宛てて現代詠とする。
¶わかで=分からないで。終止形は「わく(分く。別く)」。
□紫119:なにごとと あやめはわかで けふもなほ
たもとにあまる ねこそたえせね
□悠119:どうしてか ながいあやめを ねだしせず
たもとにかくす こともできない
2006-0919-yms118
いつまでも枯れた菖蒲の根が掛かり
辛いうき世の私みたいね 悠山人
○紫式部集、詠む。
○丁寧な序詞に。端午節の宵、親友の小少将の君と道長邸での遊びに加わっているうちに、いつしか空も明るくなってきたから、部屋へ入った。すると、彼女が「いと長き根を包みてさし出でたまへり。」 当時の貴族に、「五月五日には菖蒲の長い根を紙に包んで贈りあう風習があった。」(新潮版) この文目草、池の中で引っ掛かったまま、醜い姿をさらしていますわね。それも、ときどき悲しげな音までさせながら。見ていると、何かと辛い憂き(浮き)世につけても、泣けてくる私の音(ね)のように、見えませんこと? 日記からもある程度は推測出来るけれど、心の奥深い襞は測るべくもない。かつて紫を、精神分析的手法で論じた研究者の一文を読んだことがあるが、それほどまでに読み尽くせないということでもある。平王ク歌番号071。
¶うき=「憂き」「浮き」「泥土(うき)」が絡み合う掛詞。
□紫118:なべてよの うきになかるる あやめぐさ
けふまでかかる ねはいかがみる
□悠118:いつまでも かれたあやめの ねがかかり
つらいうきよの わたしみたいね
2006-0917-yms117
かがり火が池の底まで照らすから
辛いわが身を隠せないわね 悠山人
○紫式部集、詠む。
○詞書に「おほやけごとに言ひまぎらわすを、大納言の君」。表向きの賀歌を詠んではみたものの、大納言の君(例によって、平安貴族の姻戚関係は複雑だが、簡単に言うと、道長の姪)は、そのことにはあまり関心がなく、ご自身の映り具合が気になる様子。(平王クも参照して) 平王ク歌番号068。
¶まばゆき(目映ゆき)までの=「眩しいまでに明るい」。それに引きかえわが身は、と含意する。
□紫117:すめるいけの そこまでてらす かがりびに
まばゆきまでも うきわがみかな
□悠117:かがりびが いけのそこまで てらすから
つらいわがみを かくせないわね
2006-0913-yms116
かがり火を静かにうつす池の面は
仏の教えもいついつまでも 悠山人
○紫式部集、詠む。
○詞書が大きく異なる例として、まず新潮版では、「池の水の、ただこの下に、かがり火にみあかしの光りあひて、昼よりもさやかなるを見、思ふこと少なくは、をかしうもありぬべきをりかなと、かたはしうち思ひめぐらすにも、まづぞ涙ぐまれける」。平王クでは、「その夜、池の、かかり火に、御灯明(みあかし)の光りあひて、昼よりも底までさやかなるに、菖蒲の香、今めかしうにほひくれば」。夜になると、御堂(法華経三十講のあった)の灯明が、池の水面に光って、気持ちも穏やかになる。この静かな光が、末長く私たちを照らして欲しいものです。なお、第078歌も参照されたし。「さわぐ」は「さはぐ」にあらず。平王ク歌番号067。
¶幾千代すまむ光ぞ=何千年も仏法(を体現した土御門さま=道長)が住み続け、灯明を映し合う澄んだ光でしょうね。
□紫116:かがりびの かげもさわがぬ いけみづに
いくちよすまむ のりのひかりぞ
□悠116:かがりびを しずかにうつす いけのもは
ほとけのおしえも いついつまでも
2006-0909-yms115
何という有難いことなのかしら
五月五日に経五巻とは 悠山人
○紫式部集、詠む。
○これ以後は、写本によって扱いが大きく異なるが、私は基本的には、基本本とする新潮版に拠る。同書では、「日記歌」として連番歌扱い。日記歌は、「古本にのみある。『紫式部日記』の中の歌で家集にないのを抜き出したのであろう。」(新潮版) 平王ク歌番号066。渋谷版(実践女子大本)では第65歌。
○この歌は、本来なら仏教経典の知識を前提にしている(以前にも述べたように、当時の貴族階級は、かなり深く仏教を理解していた)が、ここでは略す。1008(寛弘5)年4月下旬から約一か月、仏典の連続講義を受講したときの歌。一番人気の法華経提婆品(だいばぼん)に当たったのが、端午節(せち)なので、作者もことのほか喜んでいる、という歌。「経」に「今日」が懸かる。そういえば、きょうは重陽節(ちょうようの せち)。
¶妙なりや=何という有難いことでしょう、の仏教表現。
¶御法(みのり)=前記の経典。「法」は仏法。
□紫115:たへなりや けふはさつきの いつかとて
いつつのまきに あへるみのりも
□悠115:なんという ありがたいこと なのかしら
ごがついつかに きょうごかんとは
2006-0907-yms114
世の中は辛くて嫌なことばかり
だからと言って行くあてもなし 悠山人
○紫式部集、詠む。
○「初雪にことよせて尋ねてくれた友人へ、二首の返歌をしたのであろう。」(新潮版) わが身に引き寄せられる一首。言いようのない、遣る瀬なさ。家集(紫式部集)本体はここまで。ただし日記歌として、引き続き連番歌がある。そろそろ次の挑戦相手を考えなくては・・・? 平王ク歌番号125。
□紫114:いづくとも みをやるかたの しられねば
うしとみつつも ながらふるかな
□悠114:よのなかは つらくていやな ことばかり
だからといって いくあてもなし
2006-0904-yms113
世の中の嫌なことなど知らないで
荒れたわが家に嬉しい初雪 悠山人
○紫式部集、詠む。
○返し。直球ど真ん中に、どうなのよ、と投げられて、わざとぎりぎりのファウルで打ち返した、としか思えないのだか・・・。平王ク歌番号124。
¶ふれば=「(雪が)降れば」と「(時が)経れば」とを掛ける。
□紫113:ふればかく うさのみまさる よをしらで
あれたるにはに つもるはつゆき
□悠113:よのなかの いやなことなど しらないで
あれたわがやに うれしいはつゆき
2006-0901-yms112
恋しいまま日数が経って初雪は
消え失せたかと思いましたわ 悠山人
○紫式部集、詠む。
○前書きに、「初雪降りたる夕暮れに、人の」とある。この「人」は? ふつうには「口に出すまでもない、あの方かた寄越した歌」。しかし以心伝心の世界なので、今となっては霧の中。存命中の夫か、女房仲間か。ここでは新潮版に拠って、後者とする。その場合、かなり強烈な「女の園の恋」を表現した歌、ということになる。「恋しさに日々何が起っているのかもわからないほどだという気持である。」(新潮版) 女性同士については、合わせて第102歌(先日八日条)を参照。平王クの第一句は「恋ひわびて」。紫の退職後、という説もある。平王ク歌番号123。
¶ありふる=「月日を過す。」(新潮)。古語辞典を開いて、自身の浅学を確かめる。見出し語(動詞の場合は終止形)に「ありふ(在り経)(自ハ下二)」とあって、「生きながらえる。年月を過ごす。」 用例に新古今集。(旺文版) 恥をしのんで書くと、この終止形動詞は初見。
□紫112:こひしくて ありふるほどの はつゆきは
きえぬるかとぞ うたがはれける
□悠112:こいしいまま ひかずがたって はつゆきは
きえうせたかと おもいましたわ
☆長月初日。秋、長足。鈴虫、今頻り。☆