夜が長く感じられる年になった。ようやく朝かなと思ったら、「朝告げ鳥」ではなくて、「夕告げ、夕告げ」ですって! この私に、何という残酷なの?
ひらかなy150:こしかたを ゆめみごこちの あけがたに
ゆうつけどりの なきごえをきく
ひらかなs1810:あかつきの ゆふつけどりぞ あはれなる
ながきねむりを おもふまくらに
【略注】○ゆふつけ鳥=「木綿付鳥」は鶏の別名。「世の中の騒乱の際に、にわ
とりに<木綿(ゆふ)>を付けて都の四つの関で鳴かせて祓(はら)えを
したところから」(旺文社版)。「木綿」と「夕」の掛詞。
○式子=悠 011(07月09日条) 既出。なお、悠 022(07月23日条) 参照。
title : some monsters guarding Palace
yyyy/mm : 2006/01
notes : ソウル市内、李朝の王宮は、多くの怪獣に守られていた。ZyklusKorea06。
久しぶりの小町。それもだが、「もみぢて」の四文字にこだわって採歌。(略注)
晩秋の降り積もる紅葉と、恋人の心の冷たくなるさまの交錯、と小学版。「葉」の字は、意識して散らしてみた。
ひらかなy149:こがらしに もみじしたはの つもるころ
ことのはまでも つめたくなるのね
ひらかなs1802:こがらしの かぜにもみぢて ひとしれず
うきことのはの つもるころかな
【略注】○もみぢて=紅葉(もみじ、こうよう)して。この歌を取り上げた第一の
動機は、この平仮名四文字をどう文法解析するか、という点にある。い
まこれを書いている時点では、小学版以外の全集三本が手元にないの
で参照出来ないが、小学版には注がない。動詞とすれば、当然終止形が
なければならないのに、旺文社版古語辞典にも、広辞苑にも欠ける。現
代語では、あまり抵抗なく「名詞+する」の造語法が受け入れられるが、
古代語ではどうだったか。自身の懸案とする。
○小野小町=悠 066(09月26日条) 既出。
伝統と格式のある石清水八幡宮での、目にも鮮やかな青(山藍)の衣を纏っての、春の舞い。ともに舞ったあの春が懐かしい。
ひらかなy148:やまあいの みなもにうつる ころもきて
ともにまいした はるがこいしい
ひらかなs1796:ころもでの やまゐのみづに かげみえし
なほそのかみの はるぞこひしき
【略注】○山ゐ(「山藍」、やまあゐ)=「山野の日陰に多く生え、葉の汁を
青色の染料とする。<源氏・若菜下 ~に摺れる竹の節は> 訳
山藍で(青色に)摺り染めにした(小忌衣の)竹の節(の模様)は。」
(旺文社版 古語辞典) 石清水宮なので、「山井」(山の井戸)との
掛詞。補説に小忌衣。さらに補説。
○藤原実方(さねかた)=貞時の子。陸奥(任地)で客死。12首入集。
【補説】①小忌衣(おみごろも)。「大嘗会・新嘗会・五節(ごせち)、その他の
神事に装束の上に着る衣服。」(小学版) 毎年の新嘗会のうち、天
皇即位直近に行われるものが大嘗会。いまの天皇家に伝わる。ここ
では長い詞書から、石清水八幡宮の臨時奉納で、二人舞いしたとき
の上掛けのこと。なおさらに、次の歌も参照。
1798 立ちながらきてだに見せよ小忌衣
あかぬ昔の忘れがたみに 加賀左衛門
だから、一見恋歌のようだが、男の友情を詠んでいる。
②山藍。「トウダイグサ科の多年草。高さ約40センチメートル。山野の
草地に自生。葉は長楕円形。雌雄異株。春、上部の葉の付け根に緑
白色の小花を穂状につける。昔は葉から汁をとって青色の染料にし
た。万葉集(9)「紅の赤藻裾引き~もち摺れる衣(きぬ)着て」(広辞苑)
写真で見たのは、調布の神代植物園、市川の万葉植物園のもの。
万葉集 巻九 1742 高橋虫麻呂
しなてる片足羽川のさ丹塗の 大橋の上ゆ紅の赤裳裾引き
山藍もち摺れる衣着てただひとり い渡らす児は若草の夫あるらむ
なお、ウェブサイト「万葉の花とみどり」はさらに詳しい。
http://manyo.web.infoseek.co.jp/index.html
木簡で古代日本語解明/犬飼・愛知県立大教授が研究書
「古事記」や「日本書紀」「万葉集」などをもとに進められてきた古代日本語の研究が、木簡などの出土資料の活用により、近年新たな展開を見せている。とくに、記紀や万葉以前の7世紀に、日本語がどのように漢字で表記されるようになったかが、明らかにされてきた。最新の研究成果をまとめて、「木簡による日本語書記史」(笠間書院)をこのほど刊行した犬飼隆・愛知県立大教授に聞いた。(片岡正人)
日本で書かれたとみられる古代の文字資料としては、2世紀以降の墨書・線刻土器や5世紀の稲荷山鉄剣銘などが知られる。しかし、前者は文ではない。後者も日本語ではなく漢文、つまり中国語の文法や用字にのっとって表記されたものだ。これに対して、木簡(7世紀に出現)は、日本語風に崩れた変体漢文で書き表されており、日本語表記の初期の姿を伝えるものとして位置づけられる。
従来の記紀や万葉集をもとにした研究では、はじめ、正確な漢文を習得した一部の高級役人が日本語を漢文の文書にしていたが、それが普及するにつれて、文章が崩れていくというのが通説だった。ところが、木簡の研究により、「崩れた漢文の形で日本語の表記は始まり、徐々に書記法が整っていったことが、わかってきた」という。 それは、なぜか。「すでに朝鮮半島で、当時の朝鮮語を変体漢文で表記する方法が開発されており、それを日本人が応用したからです」。近年、朝鮮半島の古い金石文と木簡が知られるようになり、日本の木簡との比較が可能になった。その結果、文章の様式、漢字の本来の意味用法と異なる使い方、中国の古い音を残した「古韓音」の使用など、多くの共通性が確認された。
「日本語を、語るままに表記しようという試みが始まったのは、6世紀中ごろだと思います。大和朝廷が近代化を目指した欽明、推古朝のころ、大量の行政文書が必要になったのが背景にあるのでしょう」。当初、行政文書は渡来人か一部の書記官が漢文で書いていたとみられるが、大量の文書が必要になったとき、多くの役人に正式の漢文を勉強させるより、日本語を漢字で書く方法がすでにあったのを活用した方が効率的だと判断されたのだろう。これは現代で言えば、日本語を正確に英訳するのではなく、カタカナを使用することと似ている。
犬飼教授は学生のころ、仮名の字源となった漢字が、万葉集の中に万葉仮名として使用されていないものがある(例えば、「め」の元となった「女」)ことを不思議に感じていたという。この事実から、万葉集などとは位相の異なる日本語があるはずだと確信し、三十数年にわたり木簡の研究を続けてきた。
それは、木簡に記述された言葉が、当時日常的に使用されていた日本語にもっとも近い存在であることを明らかにしてきた過程でもある。「文学的な観点から言えば、古事記や万葉集は当時の最高峰かもしれませんが、日本語という視点から見れば、古代日本の文字社会の片隅でしかない。普通の日本語の世界を理解してこそ、古事記や万葉集も正当に位置づけられると思います」。
現代日本語は、万葉集に起源があるのではなく、木簡の延長戦上にある。木簡は今後ますます、古代日本語の実像を明らかにしてくれそうだ。
写真一葉[「木簡には古代日本語のなぞを解くヒントがたくさん隠されている」と語る犬飼教授]略。
2006年01月24日(火)付け読売新聞東京本社版から、全文転記。
【追記】同日同紙別面に、「井真成」関連かとする、土師器の墨書が確認されたとの記事がある。奈良・葛城市歴史博物館、前日発表。同日トップはLD社長逮捕。
title : Rising sun over Hangan R.
yyyy/mm : 2006/01
notes : ハンガン(漢江)はナットンガン(洛東江)に次ぐ韓国第二の川。全長514km。(日本最長は千曲川~信濃川の367km) 一千万都市ソウルを流れる。車中で朝八時半の撮影。いくら窓ガラスを拭いても曇る。ZyklusKorea04。
2006-0124-yts105
往来の自由の道の遠ければ
まだ踏みも見ず国の半ばを 悠山人
○短歌写真、詠む。
○「自由の橋」は、依然として「不自由の橋」(分断の橋)である。現南政権の意向(「太陽政策」)を反映してか、衛兵の姿は見えない。
○本歌:百人一首60 小式部内侍
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみも見ず 天の橋立
□短写104 わうらいの じいうのみちの とほければ
まだふみもみず くにのなかばを
【写真】同前。ZyklusKorea03。
人の死を何となく見て来た年月。ふと気がつくと、いつ自分に順番が回ってきても、不思議ではない年齢になってしまった。なお、悠山人074(小野小町)参観。
ひらかなy147:いままでの なげきはたにんと みたけれど
そろそろわがみに まわってきそう
ひらかなs1786:けふまでは ひとをなげきて くれにけり
いつみのうへに ならんとすらん
【略注】○大江嘉言(よしとき、よしこと)=仲宣の子。5首。