2006-1025-yms131
花を見る心があれば世の中に
悲しみなどは何もないわね 悠山人
○紫式部集、詠む。全131首の終歌。
○「題しらず」。新潮版によると、この一首だけは<『後拾遺集』に出ているのを、ここへそのままとったものと思われる。> 平王ク日記歌05。
○なお平王クはこのあとに、新潮版にない、次の「日記歌06」を載せる。
かき絶えて 人もこずゑの 嘆きこそ
はてはあはでの 森となりけれ 『新千載集』15(恋5)1548
(平王ク訳)あの人の訪れもなくなって、わたしの嘆きは木の梢のように生い茂り、ついにはあの、逢うこともないという「あはでの森」となってしまったことよ。
¶なに嘆かまし=「何を嘆くというの? 嘆くことなどありはしないじゃないの。」 反現実の仮想的表現などと呼ばれる。
□紫131:よのなかを なになげかまし やまざくら
はなみるほどの こころなりせば
□悠131:はなをみる こころばあれば よのなかに
かなしみなどは なにもないわね
【memo】『紫式部集』(新潮社版)全131歌の現代詠、完了:
ことしの春弥生十日に詠み始めて、七か月半。新古今集の気紛れ選歌に対して、こちらは全歌なので、そういう意味での緊張感は覚悟していた。それだけに、なんとか最後まで辿り着けたいま、ほっとした脱力感と一抹の寂寥感に包まれている。振り返って、これだけ勉強したのは卒論以来、しかも時間・労力・内容のどれをとっても、自身にしてみれば、遥かに凌駕する。依拠本としての新潮版(通称「集成」)、参照ウェブサイトとしての平安王朝クラブ(平王ク)には、特別に感謝をささげたい。大容量と通信速度で goo には、いつもながらの感謝である。勝手気ままな悠山人に付き合って下さった読者の皆さん、PC画面のこちらから、ありがとう♪ 最後に、自分自身に乾杯! 元気が出たところで、まだまだ、やりますよ。さあ、次は?
【memo+】to the readers:新古今を始めたとき、とくに私よりも若い皆さんに、古典短歌を身近なものにしてほしい、と希望しました。ここまで読んで、よし、この程度ならおれにも、わたしにも、という気持ちになってくれたら、とても嬉しいですね。忠実な訳詠となると非常に難しいので、自分なりの現代詠に仕上げてみましょう! あなたは、いかが?
~2006年10月25日(水) 午前03時45分記~
2006-1023-yms130
どんどんと叩く戸口を情に負け
あけてしまえば悔いるでしょうね 悠山人
○紫式部集、詠む。
○返し。結局、紫は通用扉を開けなかった。この歌の真意、いずれの解説も通り一遍である。私は、このとき紫やいかに、と忖度しばし。現代詠初句に、珍しくも擬音(洛京連想?)。はじめに思い付いた「ただならず」では、文語に傾きすぎ。別案に、「激しさに負けて戸口をあけたあときっと後悔するのでしょうね」。これだと、許した、とも取れる表現になる。昼か夜かと言えば、「とんとん」は昼、「どんどん」は夜中の印象。「情」は「錠」を連想させたか。平王ク076。
¶とばかり=「というふうな様子で」「(懸命に)戸だけを」と懸ける。
¶あけては=「開けてしまっては」「(夜が)明けてみれば」と懸ける。
□紫130:ただならじ とばかりたたく くひなゆゑ
あけてはいかに くやしからまし
□悠130:どんどんと たたくとぐちを じょうにまけ
あけてしまえば くいるでしょうね
【memo】余一首。詠み緩きは、離れ難きゆゑなるか・・・。
夜中じゅう戸を叩いては泣き崩れ
とうとう朝になってしまった 悠山人
○紫式部集、詠む。
○詞書に、「渡殿(わたどの)に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、恐しさに音もせで明かしたるつとめて」。中宮が出産でいない留守を狙って、道長が紫の寝所に入ろうとして、というのが通説。新潮版は、<「渡殿に寝たる夜」という表現によれば、いつもの局とは違っていたようである。」>と注記。さらに、誰が叩いているのか、分からないので、恐ろしかった、とも。平王ク075。
¶水鶏(くひな)=第067、第068歌の、贈答の解説参照。
¶よりけに=よりもずっと。more and more than。
□紫129:よもすがら くひなよりけに なくなくも
まきのとぐちを たたきわびつる
□悠129:よなかじゅう とをたたいては なきくずれ
とうとうあさに なってしまった
だれひとり折る方もなくこっそりと
陰で覗いて噂するだけ? 悠山人
○紫式部集、詠む。
○その場で、返す。私の専断用語・解釈では、こうなる。とんでもございませんわ。口説かれたり共褥(ともしとね)したりなど、まだありません。そういうことを言いふらすのは、誰でしょうね。(意気地のない殿方たちですこと)。争って買い求める、という代わりに、争って書写する時代。貴族仲間で、紫の名はあまねく知られていた。ただ、面識となると、かなり限定されるから、男どもは、せめてもと、あれこれ詮索するだけであった。紫の男性関係は、千年後の今でも、研究者の間で確定しない。平王ク日記歌04。
□紫128:ひとにまだ をられぬものを たれかこの
すきものぞとは くちならしけむ
□悠128:だれひとり おるかたもなく こっそりと
かげでのぞいて うわさするだけ?
物語で好き者だなと思われた
君を口説かぬ男はあるまい 悠山人
○紫式部集、詠む。
○たまには、悠山人一首全訳。
(詞書)「(中宮さまと私が談笑しているところへ、殿さまがお見えになる。)『源氏物語』が中宮倫子さまの前に広げてあるのをご覧になって、殿道長さまはいつもの軽口。その折、梅の木の下に置いてある(歌詠み用などの)紙に、さらりとこう書かれた。」
(和歌、表)「(梅は)酸っぱい物だと知られているから、(薬用として)折らないままに通り過ぎる者など、いないだろう。」
(和歌、裏)「(『源氏物語』を書く君は)好き者・浮気女と見られていることでも評判だ。さぞかし男どもは、何とかモノにしよう、と思っているだろうなあ。」
平王ク日記歌03。
¶すき=「好き(好色。浮気。)」と「酸き(梅)」を掛ける。
□紫127:すきものと なにしたてれば みるひとの
をらですぐるは あらじとぞおもふ
□悠127:ものがたりで すきものだなと おもわれた
きみをくどかぬ おとこはあるまい
暮れの風心を寒く吹きぬけて
渡り少ない歳になったわ 悠山人
○紫式部集、詠む。
○詞書は非常に長いが、ここでは略。依拠本には、ひらかな読みがないから、「音」のようなときには、必ず辞書を引く。平王ク日記歌02。
¶わがよふけゆく=「夜が更ける」「私が年取っていく」。「よ」は、「世」(平王ク表記)と「夜」。
¶音=<「音(ね)」が楽器の音、虫・鳥などの鳴き声など、心に訴えてくる音声を、「声(こゑ)」が人や動物の発する音声などをさすのに対して、「おと」は、比較的大きい音、また広く音響一般をさす。>(旺文版「古語辞典」)
□紫126:としくれて わがよふけゆく かぜのおとに
こころのうちの すさまじきかな
□悠126:くれのかぜ こころをさむく ふきぬけて
わたりすくない としになったわ
2006-1008-yms125
今はもう上毛を払い合う人も
いなくて夜は鴛鴦が恋しい 悠山人
○紫式部集、詠む。
○。平王ク歌番号119。
¶うち払ふ=「鴛鴦は、互いに上毛の霜を払い合うと言われる。そのように、互いの悩みを打ち明け、慰め合う。」(平王ク)
¶ころ(頃)の=ここでは、「そういう時には」、in the case of。
¶つが(番)ふ=現代語では、もっぱら動物や鳥の交尾の意に使うが、古語では、例えば広辞苑に
独り寝る我にて知りぬ池水に
番はぬ鴛鴦のおもふ心を 千載和歌集
と載るように、単に、対になる、組合うという程の意味であった。古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には、「実綱卿左大弁のとき、宰相教長入道につがひて」、歌合せで組んで、と。(古語辞典)
¶鴛鴦=おしどり。漢読みのまま「ゑんあう(えんおう)」とも。古く「をし(おし)」、のちに「をしどり」。現代詠では古語読みとした。私事で恐縮だが、祝宴でもときどき「えんおうの ちぎり」などと使った。「契り」の代わりに、場の雰囲気によっては、「ふすま(衾)」もいい。こちらは、和泉式部の用例が広辞苑に載る。
□紫125:うちはらふ ともなきころの ねざめには
つがひしをしぞ よはにこひしき
□悠125:いまはもう うわげをはらい あうひとも
いなくてよるは おしがこいしい
【memo】台風一過の10月7日夜。望(ぼう)で十六夜(いざよい)。まさに「朔太郎の月」。望月に 十六夜月に 神無月。これ、使えそう♪
2006-1005-yms124
仮寝した御前がとてもなつかしく
ひとり霜夜は淋しいですわ 悠山人
○紫式部集、詠む。
○詞書に、「大納言の君[(道長の妻倫子の姪。中宮の上臈女房)]の、夜々(よるよる)御前(おまへ)にいと近う臥したまひつつ、物語りしたまひしけはひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる心か」。平王クでは単に、「里に出でて、大納言の君、文たまへるついでに」。1008(寛弘5)年11月、里居の折の一首。宮居しても里居しても、憂さの種は尽きないけれど、こうして下がって一人でいると、あなたと一緒のときが、どうしようもなく恋しいのです。現代詠の「御前」は、意味・読みを例外的に使った。平王ク歌番号118。
¶うきね=水鳥の(ような宮中での)「浮き寝」と「憂き寝」。
¶(表記とも、この項、平王クによる)鴨の上毛にさえぞ劣らぬ=鴨の上羽に置く霜の寒さにも劣らない。「さえ」の品詞は解釈が分かれる。①「さえ」は副助詞「さへ」に「冴ゆ(冷え込む)」の名詞形「冴え」を懸ける。 『評釈』『大系』『集成』。 ②「さえまさる」の反対語「さえおとる」を係り結びで強めたもの 『論考』『国文』。
□紫124:うきねせし みずのうへのみ こひしくて
かものうはげに さえぞおとらぬ
□悠124:かりねした おまえがとてもなつかしく
ひとりしもよは さびしいですわ
【memo】①敬語を三分法(尊敬・謙譲・丁寧)から五分法(謙譲を1、2に、丁寧を丁寧、美化)にする、と文化審議会の方針。(4日付け)
②新刊広告から、「からくり読み解き 古事記」「うつくしきもの 枕草子」「千年の名文すらすら 源氏物語」(小学館)。「連歌の心と会席」「古代後期和歌文学の研究」「古典和歌における鐘の研究」(風間書房)。(3日、5日付け、いずれも朝日) 「サライ」最新号に「紅葉まほろば」の語、初見。
2006-1002-yms123
この季節時雨に休みはあるけれど
思う涙は止まらないのよ 悠山人
○紫式部集、詠む。
○返し。私も思いは同じ、切ない気持ちでお返しします、と紫。平王ク歌番号117。
¶よ(世・代)=旺文版古語辞典には、この見出し語に①~⑩までの多義が出ている。「雲間」に対応させた「乾く間」で、同字再出を避けたのだろう、とは分かるにしても、浅学初見のときは、迷わず辞書を読むに限る。10のうちの6番目に、「金塊集」からの用例が出ていた。
山はさけ海はあせなんよなりとも
君にふた心わがあらめやも
(山は裂け、海は干上がってしまうような時であっても、
私が大君に二心をいだくようなことがあろうか<いや、
決してありはしない>)。
「よ」は「ある時期。折。時。」 古文古謡の専門家は、それぞれの語について、瞬時にこれらの当否を解するのだろうか。
□紫123:ことわりの しぐれのそらは くもまあれど
ながむるそでぞ かわくよもなき
□悠123:このきせつ しぐれにやすみは あるけれど
おもうなみだは とまらないのよ
2006-0928-yms122
見ていても切れ目がなくて降り出した
雨はどんなに耐えたでしょうか 悠山人
○紫式部集、詠む。
○詞書は、平王クには単に「時雨する日、小少将の君、里より」。ところが新潮版には、冗長なほどに詳しく載る。理解を深めるために、原文を転記すると、<小少将の君の文おこせたまへる返り事書くに、時雨のさと[(里)]かきくらせば[(注記)]、使も急ぐ。「空の気色も心地さわぎてなむ」とて、腰折れたることや書きまぜたりけむ。立ち返りいたうかすめたる濃染紙(こぜんし)に>。つまり、小少将(「給ふ」と、紫が敬語を使っている)から、どうしようもなく恋しくて、と便りがあったが、使いの者が、天気も怪しいから急いでご返事を、と催促する。紫も、推敲もそこそこに返したら、雨の中を折り返して返事が来た、という次第らしい。日記から、十月時雨の季節の往復。平王ク歌番号116。
¶かきくらす(掻き暗す)=「①雲が空一面を暗くする。雨や雪などがあたり一面を暗くして降る。②心を暗くする。悲しみにくれる。」(古語辞典)
□紫122:くもまなく ながむるそらも かきくらし
いかにしのぶる しぐれなるらむ
□悠122:みていても きれめがなくて ふりだした
あめはどんなに たえたでしょうか