【埃土雑記】
6 結城 希(63歳 主婦)
エーゲ海、エーゲ海。何回も口に出してみた。「エーゲ海に捧ぐ」、よかったなあ。私も小説、書いてみたかった、「エーゲ海に恋す」なあんて題で・・・。それも還暦の声を聞いてからは、遠い木霊になってしまった。夫からはすっかり夢遊病者扱い、頼みの梓までもが「いつまで二日酔いの戯言、並べてるのよ」、などと口にする始末。小説はダメになったとしても、エーゲ海クラブの永久会員としては、片思いの恋を諦めるわけにはいかない。
午後の自由時間は何処へも出ないで、もっぱらホテルのプールで過ごした。日本では毎日五千は稼いでいたから、この長期旅行中はすっかり体が鈍っている。それにしても、ヘクターというホテル名も、エーゲ海の形をしたプールも、三連泊も、みんな私は気に入った。そのプールから椰子林を百メートルも歩くと、そこは海岸。実は午後イチで、梓と少し泳いでみた。遠浅で水温も低めだったので、軽く流すだけで上がった。この前エーゲで泳いだのはキオスだったから、もう十年ぶりくらいになるだろうか。それでも、「エーゲ海に泳ぐ」にカウントできるのを、僥倖とした。父がハデスの門をくぐって幾星霜、私は長く反発していたが、けっきょくは彼の呪縛から逃れられないばかりか、その希臘憧憬から付けられた私の名は、父以上に希臘教の信者である証になっている。
それはそうと、Xさんのこと、初めてこのメモに書く。私はどちらかと言えば社交的、誰とでもこだわりなく話をする方である。はっきりした証拠はないが、どうもXさんは、普通以上に私に関心があるらしい。プールのときも、海岸のときも、気がつくと視野に入っているのだ。何か不快な目にあうとか言動があるとか、そういうわけではない。Xさんて、五十台後半の男性で、単独参加。ときどきグループから離れて、遠くを見ている。そういう方なので、もしかしたら、私に何か訴えたいことがあるのかも知れない。すべては時が解決するだろう。
=編集部注=結城さんは、とても物静かな方。時間をみては、こまめにミニ・スケッチブックを出していました。
ET50
【埃土雑記】
5 榊 豪徳(77歳 晴耕雨読)
駄文を書いたところで、別に他人様の為になるわけでもないが、菊組の「最高齢者」だから是非にと、編集長直々の電話を頂いて、しぶしぶ承知した。確かに、埃及・土耳古を三週間もかけて、然もこの暑い時期に旅行するなんてのは、あまりまともな人間のすることじゃない。大抵は金も暇も持て余している人種だろう。勢い、高齢者が多くなるって寸法だ。一番心配なのが、健康問題だが、此頃の中高年ってのは、やれプールだ、ウォーキングだ、ゲートだ、少し洒落たところだと、テニスだ、ゴルフだ、社交ダンスだなんて、カタカナごとでおいそが氏ですわな。
それにそれ、元気余って、第二だか第三だかの青春とかで、男女関係も賑やかだ。お茶しましょ、なんて言っているうちは可愛いけれど、この節、何と刃傷沙汰まで報じられるとあれば、笑って済ませるってわけには、行きません。犯罪に数えられるようなことは、お互い願い下げだが、気持ちわくわくさせる程度なら、まあまあ大目に見ましょう・・・いや、見て貰いましょうか。かく申す私も、もう大分前に連合いに先立たれてしまって、普段は気楽を装っているものの、やっぱり心にぽっかり穴が空いているような次第。
さて、体調に話を戻すと、今回一番参ったのは、尾篭ながら「お下」の問題、有体に言えばトイレのことだな。今まであちらこちらと、気楽な海外旅行を幾つも経験しているが、こんなのは初めてだ。最初の三日ほどは、警戒していた埃及だが、何とか乗り切ったので、首尾上々と安心した。所が、敵はその油断を突いて急襲して来た。さあ、それからはもう、波状攻撃を躱す間もない。あとから聞いたら、埃及は検疫対象国だとか。
始めは、そのお年だから、と言われるのが面白くないので、黙っていたが、老若を問わずこの話題が蔓延し始めたので、妙に安心したものだ。若い頃から剣道で身を鍛えているし、最近では信心なしの参禅通いも真面目にやっているので、敵さんも慌しく退散したから、土耳古巡りは快調のペースで過ごせたのだが・・・。
それにしても、両国ともお下処理済紙は、絶対に落下物処理器内に落すな、とは修行よりも辛いことではあった。さらに、これは私ではなかったが、紙なしの処理個室に出くわした人の話も聞いた。まさに、神なし!
(これって、あちら版には、不穏当かもな。紙はなくとも、神の国やしな。)
=編集部注=相変わらずお口まで元気な榊さん。なお、薔薇組には、八十歳の方も。
ET45
4 李 蘭淑(36歳 大学講師)
夜中の十二時を過ぎました。明日は、といっても、もう今日は、になってしまいましたが、これまたオプションのギョレメが早出なので、簡単にさっきの踊りのこと、書いておきます。
夜七時半、一台のバスへ乗り込んだのは、黄色組11人、赤色組22人でした。小高い丘の上のホテルを出て、昼間とは全く違った顔を見せる夜の町並みを十五分ほど走ると、会場です。駐車場は、照明灯がないので定かではないものの、どうやら満杯の気配。
中は、中央広場から何条か放射状に、岩を繰り抜いた客席になっています。先ほど夕食を終えたばかりなので、テーブルの食べ物はそのままに、ワイン・グラスへ口をつけました。専属バンドが民族音楽を、絶え間なく演奏しています。欧米系、子ども連れ、日本人・・・二百人弱はいるでしょうか、狭い地下壕に喧騒が支配しています。
一流のコンサート会場で、アナウンスが一切流れないで進行するように、ここでもとつぜん、民族衣装の男性ダンサーたちが入場して、民族舞踊が始まりました。それからは、見飽きることのない衣装と踊りのオン・パレード。観客の反応のよさに、生バンドも盛り上がります。そしていよいよ、お目当てのソロ・ベリー・ダンス。
これはまさに芸術でした。同性の私でさえ、ほれぼれするほどの容貌・肢体・身のこなし。それまでざわめいていた客席も、彼女の一挙手一投足に完全に魅了され、空間が文字通り独壇場になりました。アレクサ(と私は名をつけた)のパフォーマンスを眺めているうちに、かつて若きアレクサンドロスも遠征の先々で、こうした側女たちにいっときの心の平安を得たのだろうか、と思い馳せたことです。かなり長い時間、タイム・トリップしていたようでしたが、気がつくとアレクサは、次々と客を手引きして円陣を作らせ、踊らせ、一体感を演出していました。幸いに最前部に座っていた私も、踊りの円に溶け込んだこと、もちろんです。
アレクサとの逢会は、私にとって大切な旅の思い出になりそうです。
=編集部注=李さんは、某国立大学で韓国語を教えています。今回は親友と二人での参加。
ET37
3 伊集院 瑠璃子(仮名、55歳 会社員)
ピラミッドは大迫力! かなり調べてきたつもりだけれど、こうして目の前にしてみると、生半可な知識なんて、みんな忘れちゃうわね。だって、エジプトって、何でもかんでもすぐに、何千年前の・・・なんていうんですもの。たしかに日本でも、縄文とか弥生時代ってあるわよ。でもねえ、スケールが違いすぎっ! 巨大な四角い岩の集合体を見ていると、正直、目まいがしそう。
割りに早い時間帯にギザへ着いたのに、いるわいるわ、ありのようにうごめいている・・・そう、観光客と現地の人たち。バスを降りると、群がって来るのよ、物売りのおじさまや少年たちが。彼らは片言の日本語で、「千円、千円!」「安いよ、安いよ」を連呼するの。日本人とみるとどういうわけか、決まって「ヤマモトヤマァ」って呼びかけるのよ。そう言えば、トルコでもときどきあったなぁ。この情報って、ガイドブックなんかでは、見なかったわね。いったい、だれが教え込んだのかしら?
それと、セキュリティ・チェックの厳しさ。内部の撮影は禁止・・・は、仕方がないとして、入り口でカメラを預けさせられたり、警官や駱駝、その他、写真を撮ろうとすると、手のひらを見せてチップを求められるのは、少し抵抗があったわ。ついでに書いておくと、何年か前に、たしかテロリストによるハトシェプスト大虐殺があったせいかと思うんだけど、観光バスには100%、政府所属の警備員が同乗していました。連日の猛暑の中でも、黒っぽいスーツに身を固めて、腰の拳銃を隠していたようなの。
ピラミッドの迫力を書くつもりが、周辺をうろうろした感じになったので、もし間に合うようなら、追伸しましょうね。
=編集部注=伊集院さんは、一部上場企業の役員ですが、ご覧の通り気さくな方です。
ET33
【埃土雑記】
2 乾 K.(62歳 年金生活)
トルコ半周の旅も、そろそろ退屈になって来た。なにしろ国土は広い。B社製の観光バスは快適だが、窓外に広がるのは、変化のない草原のような景色ばかり。いや、草原ではなくて、実は見渡す限りの農場なのだが・・・。それが何時間も続く。あくびが出ても当然だろう。その退屈さを吹き飛ばしたのは、誰かがクルド人の現状について質問し、ガイドのGさんが、「私もクルド人です」と言ってからだ。
普通の日本人である(と思っている)私でさえ、クルドの名はときどき耳にするし、イラク戦争のせいで大変らしいと、漠然と考えている。でも実のところは、ほとんど何も知らないにひとしい。淡々と観光案内をしていた彼は、急に身を乗り出して、熱っぽく語り始めた。トルコも多民族国家だけれど、とくにクルド人だからといって、偏見やいじめなどということは、「全くありません。ノー・プロブレム!」 Gさんは、きっぱりと言い切った。それからは、オスマン・トルコからアタチュルクから、この国がどう素晴らしいかを、しゃべり続けた。政府職員(通訳・観光ガイドの身分は観光省所属)であることを割り引いても、彼の話の大半は納得し理解出来た。
それにしても、三十代半ば、日本大好きの彼を、これほどまでの愛国者にしているものは、いったい何だろうか。長い話の後半から、相変わらず変化の少ない外の景色を眺めながら、新たな疑問を心の中で反芻していた。
=編集部注=乾さんは、公務員を退職されて二年目。単身参加です。
ET30
【埃土雑記】
編集部に寄せられた電子便で構成する、『月刊旅人』好評の雑記シリーズ、今回からは、「エジプト&トルコ三週間の旅」を連載する。「埃土(あいど)」とは、エジプト(埃及)・トルコ(土耳古)のことであり、緑と水の豊かな日本に比べて、「埃の大地」という意味も込めた。書き下ろしの方、日記コピーの方、新橋まで届けて下さった方など、それぞれの思いが綴られている。旅行前の約束どおり、編集部で多少手を入れてある。なお、連載終了後は、アラビア語誌『旅人』(مسافرون)へ掲載される予定。
1 砧 美紗(19歳 学生)
いちばん印象に残ったのは、何といっても、エジプト考古学博物館のあれね・・・夫妻像。そう、石彫のあれ。小さいけれど、夫婦が仲良く肩を寄せ合って、肩に手を掛けているの。どこも欠けていなくて、彩色もよく残っているし、とても三千年以上も前に作られたなんて、信じられないわ。正直言って、感動しました。
もちろんいろんな王さまや王妃さまの、絢爛さもいいわよ。金銀宝石が、きらきら飾りつけられているのも、馬鹿がつくくらい大きい石像も、それぞれに申し分なく素敵。でもね、私からは遠い遠い世界の人たち。それに比べれば、名前も残らないようなあの夫妻の、しあわせそうな姿。二人とも大きな目で真正面を向いている。よかったわぁ・・・。
それはそうと、間もなくサンタ・チェチーリアへ戻らなければならないの。またソプラノ・レッスンの毎日が待っている私。「アイーダ」の舞台へ出て、勝ちて帰れ、なんて鼻歌うたいながら、日本で公演出来る日が来るかしら?
=編集部注=砧さんは、夏休み一時帰国で、最年少の参加者です。
ET28