いよいよ最終巻。1917~1979。巻第二十は、「釈教歌」(しゃっきょうのうた)となっている。釈迦の教え、仏教の経典由来、あるいはまた、憑依(ひょうい。仏が乗り移る)による歌、などなどである。巻頭三首には、作者名が空白になっている。この作品も、そのままで現代に通用する。
ひらかなy160:よのなかの なやみなげきの もろもろは
あさがおにのる ただのつゆだよ
ひらかなs1918:なにかおもふ なにとかなげく よのなかは
ただあさがほの はなのうへのつゆ
【略注】○朝顔の花の上の露=「朝顔」「露」ともに、ほんのひとときの、果敢ない
命。二つ重ねて、人の世の果敢なさを強調した。
○藤原清輔=悠 154(02月07日条)既出。『新古今集』には作者名がないが、
この歌は清輔著『袋草紙』所収なので、ここでは詠者とした。歌あとがきに、
「清水の観音の御歌となんいひ伝へる」とある。清水寺(京都市)の観音が
詠んだ歌、というのだ。
自分の実力がなぜ認められないんだ、と現代のサラリーマンの哀感にもつながる歌。
ひらかなy159:めざめれば こえあげてなく ふぐうのみ
だざいふゆきも こうだったのか
ひらかなs1905:さめぬれば おもひあはせて ねをぞなく
こころづくしの いにしへのゆめ
【略注】○音をぞ泣く=声を出して泣く。不遇の身が辛くて、夢の中で思い切り
泣いていたら、目が覚めて、また泣いた。高位高僧なのに・・・。
○心づくしのいにしへの夢=「心尽くしの」「筑紫野」と掛ける。詞書から、
作者が誹謗中傷にいて、北野天満宮(京都市上京区)に詣でたことが、分
かっている。だから筑紫の、筑紫野、以下は大宰府(福岡県太宰府市)へ
菅原道真が配流(はいる)された故事のこと。「大宰府」「太宰府」に注意。
○慈円=悠 002(06月29日条)既出。
作者が勅使として訪ねた、伊勢神宮の帰りに詠んだ。現代詠に五十鈴川としなかったのは、この記事を読んだあなたに、古称に親しんでもらうため。
ひらかなy158:もういちど みたいものだと ふりかえる
みもすそがわに さわぐしらなみ
ひらかなs1881:たちかへり またもみまくの ほしきかな
みもすそがはの せぜのしらなみ
【略注】○見まくのほしきかな=見たいものだ。上一活用動詞「見る」の未然
形「み」に、推量助動詞「む」のク語法「まく」で、「見まく」(見ること、見
るだろうこと)。体言なので格助詞「の」を付けて、この場合は、所有格
的に使われる。「まく」は万葉集に多出だが、新古今では希用。「ほしき
かな」は「欲しいなあ」。旺文社版古語辞典には、「見まく欲し」「見まく欲
(ほ)る」が、同旨見出し項目になっている。
○御裳濯川=五十鈴川の別称・古称。倭姫伝説に由来。和歌のほか、
能楽でもこの名でよく知られる。
○源雅定=雅実の子。『大鏡』の作者か。
詞書によると、藤原公継(きんつぐ)が勅使として伊勢神宮を訪ねた。そこに仕える女房の一人が、帰京した公継に贈った歌、とされる。両者は都で特別な関係にあった。
ひらかなy157:うれしさと なつかしさとで まったのに
かおもみせずに かえったのよね?
ひらかなs1873:うれしさも あはれもいかに こたへまし
ふるさとびとに とはれましかば
【略注】○いかに答へまし=どう答えようか。どう答えたらいいのか。
○故郷人=(詞書から)久しぶりに都の香りを運んで来た人。実は
かつて情を通わした男。
『新古今和歌集』も巻第十九。神祇歌(じんぎのうた)。歌番号1852~1916。
天神地祇(てんじんちぎ)、すなわち天の神、地の神を合わせて神祇という。神詠・神徳・神社などの関連歌が納められる。巻頭13首は神詠歌(神が乗り移って詠んだ歌)ということで、略注にも書いたとおり、作者欄は空白になっている。したがってこの場合に限り、実作者はひとまず詞書や家集に拠る。
作者の歌は、神祇歌に入れてあるが、内実は恋歌との境目なので、現代詠も曖昧模様にした。
ひらかなy156:まだかしら もうきたかしらと ときがすぎ
いつのまにやら おいがみさまに
ひらかなs1858:ひとしれず いまやいまやと ちはやぶる
かみさぶるまで きみをこそまて
【略注】○ちはやぶる=(千早振る)「神」の枕詞。また、「千」(たくさん)「はや
はや(早早)」(早く早く)「振る」(と動く)が、二句の「今や今や」と合わせ
て、気持ちが激しく急いている様子を表わす。
○神さぶるまで=「年老いた神の姿になると思うまでに。」(小学版)
○待賢門院堀河=煩瑣を避けて肩書きをつけた。待賢門院(たいけん
もんいん)は、鳥羽天皇の中宮(白河天皇の養女璋子)の女房。神祇伯
顕仲の娘。なお本集には作者名が空白であるが、詞書によりここでは
堀河を作者と書く。
「蝉丸が逢坂の関でみすぼらしい庵を結んでいたのを、通る人が笑ったので詠んだ歌(俊頼髄脳)とも、その琵琶を聞こうとした源博雅が、人を立てて、都に来て住むようにすすめたので、詠んだ歌(今昔物語集・巻二十四)とも伝えている。」(小学版) おぼろげに伝わる作者の、自然な(ひとりする)詠草である。雑歌(ざうのうた)の棹尾。
ひらかなy155:にんげんに きせんじょうげの べつはなし
いずれごうしゃも くちるのだから
ひらかなs1851:よのなかは とてもかくても おなじこと
みやもわらやも はてしなければ
【略注】○宮も藁屋も=豪邸もぼろ家も。現代詠は「豪舎=豪奢」一語にした。
○蝉丸=盲目の歌人。琵琶の名手。百人一首10番「これやこの」の作
者。歌のとおり逢坂山に庵を結ぶ。一本に蝉麿とか。伝不詳。
すでに万葉の時代から、一般民衆の生活はかなり苦しかったのだが、超エリートの貴族歌人は、これでもかというくらい、「憂し」(辛い)を詠んでいる。この作は、ご存じ百人一首84番。
ひらかなy154:あのころを こいしくおもう このごろが
いつかはあまい ひびになるのか
ひらかなs1843:ながらへば またこのごろや しのばれん
うしとみしよぞ いまはこひしき
【略注】○このごろやしのばれん=今という時代(の生き方)が(よかったなあ
と)思い起こされるのだろうか。
○藤原清輔=顕輔の子。俊成らの御子左家(みこひだりけ)歌学に抗
し、父から六条家歌学を受け継いだ。二条、六条、御子左などなど、こ
の時代の和歌の風(ふう)をめぐる争いは、貴族政治も巻き込んで、現
代のわれわれには想像できない、激しいものがあった。12首入集。
この世に生きるのが辛いのは、昔からの定め。慕い合う者同士なら当然だけれど、辛さが付いて回るのはたまらないなあ。「入道前関白太政大臣」の述懐。
ひらかなy153:こいなかの はなれがたさは わかるけど
よのつらさまで ついてくるとは
ひらかなs1832:むかしより はなれがたきは うきよかな
かたみにしのぶ なかならねども
【略注】○かたみにしのぶ仲=「互いに思い慕い合う仲。」(小学版)
○藤原兼実=悠 084(10月17日条)既出。
男に振られたか、と思ってらっしゃるの? 実は逆なのよ、あなた。さすがは当代きっての恋の達人である。現代詠は、久しぶりの自歌自賛。
ひらかなy152:あきかぜが いくらふいても くずのはの
うらみせないで すずしいかおよ
ひらかなs1821:あきかぜは すごくふくとも くづのはの
うらみがほには みえじとぞおもふ
【略注】○秋風=「秋」は「飽き」に掛ける。補説参照。
○すごく=bitterly lonesome。
○葛の葉のうらみ=葛の葉は秋の風に裏白を見せてそよぐ(裏見、
恨み)。このことから、「翻った(心変わりした)男への恨みがましい
気持ち(顔、表情)」。
○和泉式部=悠 053(09月08日条)既出。補説あり。
【補説】歌の背景。仲良しの赤染衛門が「和泉式部、道貞に忘られて後
(のち)、ほどなく敦道親王通ふと聞きて、遣はしける」の詞書を付
けて、次のように詠んだ。
1820 うつろはでしばし信太の森を見よ
かへりもぞする葛の裏風 赤染衛門
式部の作は、これの返し。だからこの場合は、長い詞書と衛門の
歌が分かって、はじめて式部の和歌が見えてくる、という仕組みに
なっている。理解の助けに、最小限の事情を記すと、本人は和泉、
道貞は和泉守、信太(しのだ)は和泉国の葛葉の名所で「忍ぶ」の
掛詞、など。衛門が、少し様子見したらどうなの、と助け舟を出した
のに、式部は気丈にも、と見るか、早くも見切りをつけて、と見るか、
はたまた、単なる痩せ我慢か、こう詠んだわけだ。男なら、武士は
食わねど高楊枝、と私は見る。
詞書に、「夕暮に蜘蛛のいとはかなげに巣がくを、常よりもあはれと見て」とある。百人一首12の「天津風」の作者とは思えない、およそ趣の異なる一作。蜘蛛の棲家には偽装はない。本能にしたがって、精一杯の仕事をする。
ひらかなy151:ゆうぐれに すをはるくもも おなじだよ
いいいえだって いつまですめる?
ひらかなs1817:ささがにの そらにすがくも おなじこと
またきやどにも いくよかはへん
【略注】○ささがに=(細蟹) 蜘蛛(の巣、の糸)。
○巣がく=(巣掛く) 巣を掛け(懸け、架け)る。
○全き宿=完全な家、住宅。
○幾世かは=何年も(もつだろうか、いったいいつまでもつか)。
○遍照=良岑宗貞(よしみねのむねさだ)から出家。素性法師の父。