Bryan Hyland V.S. Johnny Tillotson 1958~2010
「差別と人種について、そのほか」という見出しで、深刻な(?)内容のブログを書く予定でいたのですが、非常に長くなりそうなことに加え、今日がベトナム滞在最終日で、中国に戻るとまた暫くyou-tubeが開けなくなってしまうことから、性懲りもなくノー天気な話題で行くことにしました。
まあ、“ノー天気”な唄にかけては、誰にも引けを取らない2人です。ただし“ノー天気”なのは“楽曲”(ことに初期の)に於いてのみで、本人たち自身が“ノー天気”なのかどうかは不明、そうである可能性も少なくはないでしょうが、(Lastに紹介した)ごく最近の2曲を聴く限りでは、必ずしもそうとは言えない気がします。いずれにしろ、50年以上現役で唄い続けているわけで、単に“ノー天気”なだけでは、ここまで長続き出来ないでしょう(“ノー天気”だからこそ長続きしていると言えなくもないですが)。
ハイランドとティロットソンの代表曲と言えば、1960年の「ビキニスタイルのお嬢さん」と「ポエトリー・イン・モーション」、1962年の「涙のくちづけ」と「涙ながらに」に尽きるのですが、ここは少し違った趣向で、、、。
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Ⅰ 今回は「(本国での)ノン・ヒット曲」を集めてみました
一曲目は、ブライアンのデビュー曲「ローズ・マリー」。しかし全くヒットしませんでした。素晴らしい曲なのですが、日本のそれより遥かに規模が大きなアメリカの音楽市場では、実力だけでは台頭することは難しく、“運”も含めた多くの要素が合わさって、初めてブレイクに至るのだと思います。次の、いわば“ノベルティー・ソング”の「ビキニスタイルのお嬢さん」で大ブレークに至るわけですが、これはまさしく“運”“タイミング”を掴んだ、ということでしょう。もし、このチャンスを逃していたら、永久に「歌の上手な地方の天才少年」で終わっていたかも知れません。もっとも「運」だけで乗り切れるほどアメリカの音楽業界が甘くないことも、また事実で、このあと一度沈んでしまいます(いわゆる“ノベルティソングの一発屋”に成りかけた)。しかし彼は実力者でもあります。「涙のくちづけ」などを含む幾多の名曲で、何度も復活を果たすのです。
なお、以前のブログにも書いたように、「ビキニスタイルのお嬢さん」は、実は決してノヴェルティー・ソングなどではないことを強調しておきます。素晴らしいメロディと歌詞、そして歌唱による名曲です。最後の一フレーズ(女性コーラスの部分)は、少女の動き(作詞者の3歳のお嬢さんがモデル由)と回りの光景が、幻のごとく眼前に現れ、思わず涙が出るほどの美しさです。
話が「ローズ・マリー」から逸れてしまいましたが、“美しさ”という点ではこちらも文句なし。ヒットに至らなかったのは、新人歌手の曲としては“真っ当すぎて”インパクトに欠けていた、ということなのでしょう。ただし、確か(どの国だったか忘れたのですが)国外ではヒットしたという記録が残っていて、なんと、日本でもある程度のヒットを記録したらしいのです。それも「ビキニスタイル~」発売以前に! 俄かに信じられないのですが、彼の他の日本でのヒット曲のパターン(本国ノンヒット多数)から考えれば、有り得えない話でもないような気もします。
Rosemary BRIAN HYLAND 1959
Ⅱ 初期の曲は“ノー天気”丸出しです
両者の共通点のひとつは、ノンヒットのB面に良い曲が多く、しかもそれらの曲の幾つかが、日本で大ヒットしているということ。そう、彼らの日本での大ヒット曲というと、なんといっても、まずは“胡瓜”絡みのこの二曲です。ブライアン・ハイランド「夕方胡瓜捨てる」(“You got a cutie still”のフレーズが、前半に本人で、後半に女性ボーカルで、都合2回登場)、ジョニー・ティロットソン「胡瓜パイ」(26回出てくる“cutie”のうち、23回が“キューリー”と聞こえる)。
共に1961年にリリースされたシングルB面曲。A面はそれぞれ、Brian Hyland「Sixteen cubes of Sugar/16個の角砂糖」、Johnny Tillotson「Without You」で、ブライアンのほうは両面とも本国ノン・ヒット(ただし日本では別々のシングルで発売されA面もある程度のヒットを記録したらしい)、ジョニーのほうのA面(両面とも自作)は本国ではベスト10入りした大ヒットとなっています(日本ではシングルで発売されず)。
Baby Face/ベビー・フェイス BRIAN HYLAND 1961
Cutie Pie/キューティー・パイ JOHNNY TILLOTSON 1961
ジョニーは、誰もが認める「コンスタント・ヒット・メイカー」。デビュー・シングルからの連続23枚(計26曲)の全てがBillboard Hot100にランクされていて、これは至難の技だと思います(この時代の若手歌手ではNo.1の記録かも知れない)。しかもその間、3曲連続して順位が下降するということも、一度もなかった。大半が、一応メジャーヒットの目安となるトップ40入りか、ACやC&Wなど別ジャンルで上位に食い込んでいる。しかしなから、連続ヒットが途切れて以降の数10曲は(数曲のC&Wチャートインを除き)全て外れ。
一方の、ブライアン。大ヒットのあとは、ガクンと順位が下がり、3~4曲後にはヒットチャートから跡形もなく消えてしまっています。他ジャンルでのランクインも無し(唯一「ビキニ~」がR&Bのトップ10に)。しかし忘れられかけた頃に突然再度大ブレークし、それを何度も繰り返します。ジョニーが連続ヒットを飛ばし続けていた63年~65年の曲は、ほとんど全てハズレ。しかし、ジョニーのヒットが途切れた66年以降も、66年、69年、71年に、それぞれ2~3曲の突発的ヒットを飛ばしています。コンスタント・ヒットメーカーのジョニーとは正反対に、当ればでかい爆発型、ヒット曲のイメージのインパクトの強さから言えば、ジョニーを上回ります(例えて言えば、イチロー型と松井型、というところでしょうか)。
ところで、ジョニーのほうは“デビュー以来8年間に亘って一度も途切れることなく連続ヒットを記録”と上に記したのですけれど、これには注約が必要です。
昨年「Bear Family」からリリースされた、ケイデンス時代の「Out-take集」には、付録として、これまで謎の曲だった「I’ll Never Gonna Kiss For You」が収録されています。今までの解釈では、『デビューに際して、ソロシンガーとして打って出るか、アイドルグループ“Genevieve”の一員として勝負するか、2つの可能性を探ったが、前者が一応の成功を収めた(夢見る瞳b/wウエル・アイム・ユア・マン)のに対し、後者のほうは成果が出なかったので、結局ソロシンガー一本で行くことになった』とされていました。今回、「アウトテイク集」に付されたブックレットの解説にて、事実は全く異なることが判明。
実は“Genevieve”はユニットの名ではなく、フランス?のベテラン女性歌手の名。今手許にブックレットがないので正確なことは分からないのですが、19歳のジョニーより遥かに年長(確か30歳を越えていた)の実力者のようです(「Jack Parr TV show」という番組のレギュラー歌手?)。当時ケイデンスからはアルバムもリリースされています。両面ヒットを記録したデビューシングル「夢見る瞳b/wウエル・アイム・ユア・マン」と踵を接して(というよりもほとんど同時に、、、Cad.1353、Cad.1354と続きの番号)リリースされ、B面はGenevieve単独、A面のこの曲も彼女が第一ボーカルとされ、“with Johnny Tillotson”とクレジットされています。
後年、ジョニーのほうが遥かにメジャーになったので、駆け出しの頃とはクレジットが逆になってしまった(それどころか、ここに紹介したyou-tubeには“Genevieve”の名がどこにも記されていない、幾らなんでも“それはあんまり”と思う)。
もっとも、たとえ大物歌手であっても、友情参加ということでクレジットなし、という例は枚挙にいとみません。例えば“Jan & Deanの2大ヒット「サーフ・シティー」(63年1位)「パサディナのお婆ちゃん」(64年3位)のレコーディングにはジャンは参加していず、変わりにBeach Boysのブライアンがジャンと一緒にハモッている”とか、、、逆に“Beach Boysの大ヒット「バーバラ・アン」(65年2位)のリードボーカルは、なぜかJan & Deanのディーンが唄っている”とか、、、眉に唾を塗るような(しかしどうやら事実らしい)話は幾らでもあります。
ジョニーの2大ヒット曲のひとつ「ポエトリー」の伴奏に、フロイド・クレーマーやブーツ・ランドルフが参加していることは余りに有名ですが、もうひとつの「涙ながら」にも、フロイド・クレーマーやアニタ・カー・シンガーズが参加していることは、これまで余り知られていませんでした。しかし、現在ジョニー自身のホーム・ページに当時の写真が紹介されていて、それによって実態が明確になったのです。
なお、「I’ll Never Gonna Kiss For You」に次いでリリースされた「True, True, Happiness」のバックでハモっている女性コーラスは、ケイデンスの大先輩コーデッツ(リーダーはケイデンス社長アーチ・ブレイアーの奥さんで、娘さんが後にエバリー兄妹のフィルと結婚)とのこと(当時はクレジット全く無し、アウトテイク集のブックレットで初めて明かされた)。デビー2曲目の駆け出し歌手のために、いわば同社の大スターが無償で後押しを、という図。
「I’ll Never Gonna Kiss For You」の場合は、上述のような例とは逆パターン、かつ少々趣が異なります。
ベテラン歌手(外国?から来た大事なお客さん?)への応援に、若くハンサムで声の良いジョニーが借り出された、というところでしょう。ヒットには至りませんでしたが、とても良い出来です。ジョニーの受け持ちは、2度のメロディーライン。むしろタイトルのフレーズを繰り返すだけのGenevieveよりもジョニーのほうが目立っている。実質的に正式なディオと考えても差し支えなく、となれば“凡打”としてカウントするべきかもしれないわけで、「デビュー以来の連続ヒット」は成立しなくなってしまいます。
なお、僕にとっての“神様”的存在のBert Kaempfertも、同一の曲を取り上げています。「Brazilian Love Song」、原曲は、おそらくトラディショナル・ソングなのだと思います(ここで紹介したかったのだけれどyou-tubeに見つからなかった)。
ジョニーの曲で、女性コーラス(ソロ?)が際立って目立つ曲のひとつが「素敵なガールハント」。全く曲調は異なりますが、「涙ながらに」と同一日同一スタジオで録音したことになっています。となれば、女性ボーカルは、アニタ・カー(またはアニタ・カー・シンガーズ)であるわけです(ジョニーたちとの会話が収録された「テイク7」を紹介したかったのですが残念ながらyou-tubにはアップされていない)。一方、ブライアンの「ビキニスタイル~」も、掛け合いの女性ソロボーカルが極めて強調された曲。同タイプの曲には、パット・ブーンの63年の大ヒット曲「スピーデイー・ゴンザレス」や、同じく63年の、ジョニー・シンバル「Mr.ベイスマン」(前者は後に「ワンダフル・サマー」の一発ヒットを放つ美人歌手ロビン・ワードだったと思う、後者は黒人男性)などがあり、リアルタイムでは掛け合い歌手の名はクレジットされていなかった可能性がありますが、いずれも現在では明記されているようです。
「ごめんねサリー」(この邦題は僕が仮につけたもの、実際は全く異なる題のようですが、思い出せないので、このまま通しておきます)の掛け合いボーカルは、A面の「ビキニスタイル~」とそっくり。「ビキニ~」よりも先に録音されたらしく、一説には当初こちらをA面として考えていたともされています。A面に勝るとも劣らないノリの良い曲で、(ジョニーの「すてきなガールハント」ともども)“ポップス黄金期”を代表しうる名曲だと思っています。ただし「ビキニスタイル」という言葉の上でのインパクトには勝てなかったでしょうから、こちらがA面として扱われていたなら、(「ローズ・マリー」の場合同様に)ヒットには至らなかった可能性大でしょう。なお、この2曲に「ベビー・フェイス」や「オンボロカーでぶっ飛ばせ」を併せた4曲は、そっくりの女性ボーカルが参加していますが、それらが皆同じ歌手なのか、知りたいところです。
I’m Never Gonna Kiss For You GENEVIEVE with JOHNNY TILLOTSON 1958
Don't Dilly Dally Sally/ごめんねサリー BRIAN HYLAND 1960
A Very Good Year For Girls/素敵なガールハント JOHNNY TILLOTSON 1962
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Ⅲ 時代は変わります
1964年春、Beatlesをはじめとしたイギリス勢のアメリカ上陸。隆盛を誇っていた“ポップス黄金期”のスター歌手たちは、あっという間に“駆逐”され、「ヒット・パレード」の表舞台から一斉に姿を消してしまいます。ジョニーの場合はその後丸2年間頑張ったのだけれど、66年には力尽きて、以降の数10枚のシングルリリースは(C&Wチャートの数曲を除き)全てハズレ。ブライアンのほうは、既に数年前からハズレが続いていて、ただしその分、66年以降も突発的にヒット(デル・シャノンと組んで製作した71年の大ヒット曲「ジプシー・ウーマン」を含む)を放っていたのですが、全体的に見れば大半がハズレということはジョニーと同様であります。
例えばシングル盤のリリース数で言えば、ジョニーの場合なら、ヒットが出なくなった66年以降のほうが
年間リリース枚数は増えていて、80年代半ばまで途切れることなく作品を発表し続けています。ここで言いたいのは、大量の「ハズレ」の存在は、むしろ“名誉”、ということ。言い換えれば、何度“凡退”を繰り返しても、自らの音楽を世に問い続けて行こうという“意欲”を反映しているわけです。
受け手(いわゆるファンたち)の嗜好は、大きく2つに分かれた、と考えられます。これまで通りの“アメリカン・ティーン・アイドル”を追従する“旧守派”のファン、ビートルズやボブ・ディランに代表される新時代の“反発”と“主張”を込めた曲を求める“転向型”の人々、時間が経つにつれて後者が圧倒的に増えていき、やがて全てのリスナーが後者で埋め尽くされるという状況になります。
ジョニーたち“狭間のシンガー24人衆”は、結果として新時代の要求に迎合することはなかった。出来れば“迎合”したかったのでしょうが、“元ティーン・アイドル”の実績が邪魔してスムーズに事が運ばなかった、というのが正直なところだと思います、、、、。といって、旧来の“ティーン・アイドル”からの脱皮もしなくてはならないのです。
ジョニーの1967年のアルバム「ヒアー・アイ・アム」は、(意識的に成されたのか否かはともかく)全曲を通しての構成が、奇しくも当時のジョニーが置かれた立場をそのまま綴るような物語となっています。一曲目「テイク・ジス・トレイン」で、田舎町から意を決して都会に出ます。3曲目に自作の「ロング・ヘアー・コミュニティー」。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ママス&パパス、ラヴィン・スプーンフル、ソニー&チャー、モンキーズなどが歌詞の中に登場し、“髪の毛を伸ばせばミリオンセラー”と皮肉っているのですが、実のところは負け惜しみ。自らもこの頃から長髪にして、仲間に加わりたいと思っていたのでしょうが、恩恵には全く蒙れなかった。
この曲に、僕は勝手に「ビートルズなんて怖くない」という日本題を付けています。この頃、相次いでリリースされ、しかし全くヒットには結びつかなかった日本製作(日本語)盤などではなく、この曲をこのタイトルでシングルカットしていれば、意外にヒットしたのではないでしょうか。何といっても日本に於いては1~2年前までは「新勢力」に対抗する「旧勢力」の一番手だったのです。本国でも、ビートルズ登場後の丸2年間、最も頑張った旧勢力の一人といえます。この期間(64年中期~65年)、“狭間の世代24人衆”のうちHot100のtop10ヒットを放ったのは、ボビー・ヴィントンが3曲、ロイ・オービソンとジーン・ピットニーが2曲、デル・シャノンとヴィック・ダナが1曲、それが全て。ジョニーはHot100のtop10こそありませんが、top40に3曲、ACのbest5に3曲を送り込んでいて、旧勢力の代表選手の一人であったことには違いありません。
なお、ジョニーは、ビートルズナンバーを一曲も取り上げていません(のみならず、おそらく一曲も重ならない)。これは凄いことなのではないでしょうか?ビートルズと同時代に200曲以上のレコーディングがあるアーティストでビートルズナンバーを取り上げていないのは、ジョニーのほか何人もいないだろうと思われます。その(意識的にかどうかはともかく)ビートルズナンバーを全く取り上げなかった彼が、真正面から意識してビートルズを唄ったのがこの曲です。ビートルズに対して、何らかの思うところがあったのかも知れません。
A面6曲目に、アルバムのタイトル曲「ヒアー・アイ・アム」。“僕はニューヨークにやって来た。でも一人ぼっち(見知らぬ女の子に声をかけたりしています、笑)。頑張っているよ。ここにいるよ。見つけてよ。”といった要旨の内容(正確ではない)。結局は打ちのめされて“ナッシュビルに帰りたい”なんて弱音を吐いています。まるで、ジョニーの置かれた立場を、そのまま反映しているようです。
非常に意欲的なアルバムで、完成度も高く、この2~3年の間に急変してしまったリスナーの嗜好にも合っている様にも思われます。いかし大多数のリスナーには受け入れられなかった。意欲は充分に理解出来るし、作品的には一応の成功もしていると思うのですが、なにか、違和感のようなものを感じるのです。
最後の曲で、そのことが実感出来ます。田舎の町に帰ってきた「トミー・ジョーンズ」。典型的な“カントリー・ポップス”です。そこまでの(今までのジョニーらしからぬ)11曲とは違って、生き生きと歌われていることが、ストレートに伝わってくる。実際、(Billboardにはランクインされなかったけれど)Cashboxのほうでは久しぶりにトップ100内にランクインしています。そして、67年秋から68年初頭にかけ、以前そのままの、底抜けに明るい、かつ洗練されたカントリーロック「ユアー・ザ・リーズン」で、久しぶりにC&Wのほうにランクイン(40位台も10週間チャート)。
日本でも、当時意欲的に取組んでいた日本製(日本語)企画曲は全くヒットに結びつかず、66年暮れから67年にかけて、日本における最後のヒット曲「カントリーボーイ」が、久しぶりに各ヒットパレード上位に顔を出します。ジョニー自身とルシルの共作。ジョニーの曲としては珍しく哀愁を帯びたメロディーで、もしかすると意識して日本受けを狙ったのかも知れません。当時の「ミュージックライフ誌」で、C&W評論家の高山宏之氏が「C&Wの心が篭った名曲」と絶賛していたのを覚えています。
日本でのラストヒット「カントリー・ボーイ」、アメリカでの実質上のラストヒット「ユアー・ザ・リーゾン」が、それぞれ(一方は哀愁的な、一方は底抜けに明るい)いかにもジョニーらしいカントリー・ポップスというのは、頷けるところです。
さて、ジョニーの場合は62年に成されたティーンアイドルからポップカントリーへの移行が比較的上手く行き、のち4年間“意欲”と“結果”がまあまあ結びついていたと言えますが、ブライアンの場合はすでに63年頃からヒットが出なくなっていたわけで、言い換えれば“結果”に結びつかなかった“意欲的”な作品が、より早くから多数存在していたことになります。
63暮頃から数年の間に「ロッキン・フォーク」「カントリー・ミーツ・フォーク」といった、C&Wや(いわゆる“フォークロック”ではない従来型の)フォークソングを集めたアルバム、あるいはポップカントリーバラード的な曲を中心に添えたアルバムなどを相次いで発表しますが、シングルカットされた幾つかの佳曲ともども、注目を浴びるには至りませんでした。
それらのアルバムから何曲か、例えば僕の大好きな「さらばジャマイカ」とか「逢ったとたんに一目ぼれ」
とかを(前者はジョニーの「イエロー・バード」と、後者はボビー・ヴィントンの同曲のカバーヒットバージョンと、それぞれセットで)紹介しようと考えていたのですが、肝心のブライアン盤がyou-tubeにはアップされていません。最初に言ったようにヒットした曲のインパクトが強烈なため、you-tubeにアップされる曲も、数曲に集中してしまう傾向があるようです。
やっとyou-tubeで見つけたのが「Somewhere In The Night」。「ロッキン・フォーク」「カントリー・ミーツ・フォーク」は共に手許にあるのですが、それらには収録されていません。「ロッキン・フォーク」の直前にリリースされたノンチャートシングルです。今回、初めて耳にした曲(ずっと後年の作品だと思っていました)で、ティーン・アイドルから脱皮すべく、早い時期から「意欲」を見せていたことが分かります。
66年、一応大ヒットと言ってよい20位台の2曲によって、一時復活を果たします。アイドルといえば、数年前まではソロシンガーと相場が決まっていたのですが、新しいアイドルの形態は“グループ”に移り変わっています。この2曲は、それにあやかったということが出来ると思う。アメリカンポップグループの大御所「フォー・シーズンス」、飛ぶ鳥を落す勢いの若手グループ「ゲリー&ペイスメイカーズ」、彼らの曲を彷彿させる、“今”の時代にマッチした非常に良い曲です。しかし、あえて言えば、ブライアン本来の持ち味は必ずしも出ていないように思う。
71年には、9歳上の友人、デル・シャノンとコンビを組んで(デルのプロデュース)「ジプシー・ウーマン」の突発的大ヒットを放ちます。デルにもブライアンにも、明るさの中に、時折深い“影”を感じる曲が少なからずあります。それが上手く表現され成功に至ったのでしょう。69年にミドルヒットした「トラジディ」共々、ブライアンの持ち味は「綺麗な明るい歌」であると共に、「どこか影のある歌」なのです。
しかしながら、60年代後期以降も、全体としてはジョニー同様ノンヒットの量産が続きます。そのひとつ
が、ジョニー自作のデビュー曲「夢見る瞳」のカバー。これは素晴らしい出来だと思う(ジョニー本人盤よりずっといい)。しかしヒットには至らなかった。ブライアンの持ち味の「澄み切った美しさ」がよく出ているとはいえ、この時期に、こういったストレートな曲がヒットに結びつくことは、不可能に近かったのだと思います。
69年にリリースされた同じアルバム「Stay and Love Me All Summer」には、僕の大好きな曲が収録されています。「Baby You Come Rolling Across My Mind」。今回紹介したかったのですが、you-tubに見出し得なかった。前年に紹介されたこの曲のオリジナルアーティストは、「ペパーミント・トローレイ・カンパニー」と「ジョン・E・べランド」。共にこの曲がただ一ひとつのヒットで、前者は59位、後者は115位にランクされています。ベランドはこれまでにも何回か紹介したように、70年代にジョニーの相棒(バックミュージシャン兼プロデューサーetc.)として活躍。ここでは、ブライアン盤の代わりに「ペパーミント~」盤を紹介しておきます。
Somewhere In The Night BRIAN HYLAND 1963
Country Boy, Country Boy/カントリーボーイ JOHNNY TILLOTSON 1966
Dreamy Eyes/夢見る瞳 BRIAN HYLAND 1969
Baby You Come Rolling Across My Mind PEPPERMINT TROLLEY COMPANY 1968
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Ⅳ And Now、、、、
24人衆のうち、70年代中期に大復活したポール・アンカとニール・セダカ、70年代に入っても60年代から引き続き第一線での活躍を続けたボビー・ヴィントン、70年代以降C&Wに場を移し再ブレークしたブレンダ・リー、この4人を除く全員が、70~80年代にはヒット・パレードの世界からほぼ完全に遠のいてしまいました。
とは言っても、彼らの場合60年代前半の実績だけで、充分すぎるほど食うことが出来たはずです。でも、彼らの大半は、それに安住せずに引き続き新曲をどんどん発表していきました。ジョニーにしてもブライアンにしても、この70~80年代の発表曲に最も魅力を感じるのです。それら70~80年代のノンヒット曲に関しては、改めて独立の項目を立て紹介していくつもりです。
というわけで、一気に“現在”に飛びます。
まず1998年のクリスマスシーズンに作成された、かなり有名なムービーの挿入曲。曲自体も結構よく知られているらしく、you-tubeにも幾通りものバージョンが紹介されています。興味深いのは、そのうちの大半が、純粋に“映画の挿入曲”としての紹介。もちろん、“3人の伝説的(笑)歌手”のコンボとして取り上げているバージョンも2~3あるのですが、そうでないものについては、コメントから思うに非常に評価はされてはいても、誰が歌っているかについては視聴者は無関心なのだと思います。というよりも、パフォーマーの“3人”が、かつての大スター(一応そう言ってもいいでしょう)であることを知らない世代なのだろうと。
We Can Make It Together TOMMY ROE/BRIAN HYLAND/JOHNNY TILLOTSON 1998
最後に、数年前にリリースされた、それぞれの“新曲”を聴いて貰いましょう。「ベビー・フェイス」や「キューティー・パイ」から50年かけて築きあげた、力強い自分自身の主張です。
It‘s Important For Me BRIAN HYLAND 2009
Not Enough JOHNNY TILLOTSON 2010