青山潤三の世界・あや子版

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兵庫県知事選挙に想う

2024-11-19 16:08:44 | 雑記 報告

 

今回の選挙については書きたいことが山ほどあるし、実際に書き進めてはいるのですが、問題の有り処が二重三重四重、、、極めて重層的に構築されているために、取り組み方が難しい。

 

ということで、とりあえず僕の見解を(出来るだけ端的に)示しておくことにします。

 

まずは、斎藤氏の再選で“カオス”が“空気”に封じ込められることがなくてよかった、ということです。カオスをSNS、空気が既存メディアと置き換えても良いかも知れません。もし、稲村氏(これまで嫌いだったのですが、素直で意外に魅力的な方であることが今回知れました、ファンになってしまいそうです)が当選していたら、カオスは単なる「陰謀論」として切り捨てられ、表から消されてしまっていたことでしょう。斎藤氏の当選で、民衆の動きの実態(ひいてはSNSの力)が広く伝えられる結果になったことは喜ぶべき現象です。

 

しかし、“カオス”が次の“空気”と化す危険性は大いにあります。実際、すでにSNSが作り上げた(カオスから転移した)“空気”の世界が広がっているのです。

 

既存メディアの報道が正しいとは限らないのと同時に、SNSによって齎された民意が正しいとも限りません。今回の結果は、次の段階への始まりです。メディアの持つ意味、SNSが織りなす世界の実態と、大衆との関りを、真剣に考える機会が提示されているのです。

 

正義、真実。善悪。それに基づいて考えを進め、答えを導き出すこと(「かのように」の構造)は、非常に危険だと思います。

 

最初はヒーローだった奥谷委員長が、今は悪の象徴、立花氏(僕はこの人大嫌いで顔も見たくない、人間としても最低、稲村氏の場合と違って、その思いは今後変わることはないです、ただし稀代の戦略家であることは認めざるを得ません)がヒーロー、正義の象徴見たく祭り上げられてしまっている。正義の御旗のもと、正しければ何をしてもよいという、醜い恫喝(例えば奥谷氏の家族に対する脅迫まがいの放言など)を多数行っていることが明らかになっている。そのことを冷静に捉える必要があります。今は“民意”に押しつぶされて難しいかも知れませんが、、、(香港デモのデジャブを見ているような想いです)。

 

「既存メディアから嘘の情報を提供され騙されかかっていたけれど、SSを見ることで真実が判明した」。そこで終わってしまったら、滅茶苦茶に怖いことだと思います。嘘も真実も、そんなに簡単に定義できることじゃないはずです。斎藤氏111万標、稲村氏97万標。繰り返し言うけれど、斎藤氏の勝利(僕もそれを望んでいた)は非常に意味のあることだと思います。しかし、稲村氏の97万標もまた、重みがあるのです。

 

この選挙の本来の争点は「告発とその対処の是非に関しての審判」だったはずなのです。けれどそのことがほぼ全く無視されてしまっている。そして正義と悪、事実と虚偽を(「かのように」)決定づけることのみで、民意が成り立っている。

 

2番じゃダメなのですか?」の考えを全面否定しバカにさえする日本の大衆の思考、それは権力(強者)こそすべて、それによって自分に齎される既得権(等しく体制側も反体制側も)にしがみつくという流れ、および正義、真実は一つ、という思考と、軌を一にしています。 

 

いずれにせよ、兵庫県政、まだ二転三転あると思っています。

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

日米とも、22人の市長が稲村氏を支持し、数多のセレブがハリス氏を支持したことが、オウンゴールのような形になって斎藤氏、トランプ氏の再選を決定づけた。

 

トランプさんの組閣も、マスク氏に「ワクチン陰謀論」のR.K.J氏等々、しっちゃかめっちゃかの顔ぶれです。不謹慎な感想ですが、面白いですね。

 

もうひとつ、小さなニュースから。

 

「紀州のドンファン殺害容疑」の被告。

法廷で「私は殺していない」と証言した由。

そんなの嘘に決まっているだろう、と99%の人は思っているでしょうが、僕は証言は正しいのではないかと思っています。

 

出来れば殺したい、早く死んでほしい、という気持ちは満々だったと思う。なんせ遺産目当ての結婚は誰の目にも明らかですから。でも、だからと言って、直接手を下したということに結び付けられるわけでもない。

 

覚せい剤の購入を頼まれた。しめた、と思った。過剰摂取による死亡を望んだ。そして実際にそうなった。そこに被告の誘導や手を加えた事実があれば、犯罪になるわけです。しかし、その線引きは難しい。というか、わからないと思うのです。

 

死んでほしいと望むことは、悪いことだと思います。しかし罪に問われるものではない。殺したいと思っていたが、殺してはいない、しかし結果として死んだ。この「思い」は、直接的には死んだことには結び付かない。しかし、間接的には関与していなくとも、その思いを持つことが何らかの形で結果へのアシストになった、と考えられるかも知れません。

 

検察は、被告が犯人であることには間違いない、そうとしか考えられない、と言います。しかし実証に基づく根拠はない。半永久的に立証できない(もしかすると被告自身にも「事実」の特定が出来ないでいるかも知れない)ことでしょう。

 

真実はひとつ、正義はひとつ、という立場に立てば、無罪か、極刑(死刑または無期懲役)かの2択になるのでしょう。

 

でも、それ以外の“結論を出さないという結論”があっても良いのではないでしょうか。法的には無罪、道義的には有罪、ということで、例えば懲役10年とかで双方(被告原告)納得する(遺産は分配)とか。

 

 

 

 

コメント
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