ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(14)の追加記事
“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑦ 『ブライアン・ハイランドとジョニー・ティロットソン』(追加)
●Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka-Dot Bikini(ビキニスタイルのお嬢さん)【60年Pop 1位、R&B 10位】
○Poetry in Motion(ポエトリー)【60年Pop 2位、R&B 24位】
◎デビュー曲「ローズマリー」が不発も、次のキャッチーなコピーの“ノベルティーソング”が大当りして一気にメジャーの世界に躍り出たわけですが、素直に喜んでいいのか、、、Braianの心境は、いかなるものだったのでしょう。日本では続く「ベビー・フェイス」も大ヒットを記録しますが、本国では「ビキニ~」と同傾向の曲を何曲か続けてリリースするも、いずれも不発、あっという間にチャート上から姿を消してしまいます。うかうかしていると“ノヴェルティソングの一発屋”で終わりかねません。でも彼は実力者です。1年後には、「ビキニ~」とは正反対のイメージの、限りなく暗くスローな「Let Me Belong to You」でチャート上位にカムバック、2年後には、「Ginny Come Lately」「涙のくちづけ」といったビッグヒットを連発し、正当派歌手であることの証明が成されます。しかし、その前に行っておかねばならぬことが。「ビキニスタイルのお嬢さん」は、実は“ノヴェルティ・ソング”などではありません。素晴らしいメロディーの、素晴らしい歌詞の名曲です。じっくりと聴いて貰えれば分かるはず、これほど美しい曲は、そうそうありません。作詞者ポール・ヴァンスの、2歳か3歳のお嬢さんがモデルなのだそうです(作曲は、リー・ポックリス)。僕は、「アララギ派」の短歌(島木赤彦、斎藤茂吉etc.)が好きなのですが、正岡子規の流れをくむ“写生派”、情念を強く前面に押し出した、与謝野晶子・鉄幹率いる「明星」一派とは対照的に、主観的表現を極力押さえて、より客観的な視点から対象の本質を探ろうとしているのです。ある意味、ビートルズやディラン以降の“主観”が前面に強く押し出された“新時代の音楽”と、それ以前の“オールデイズ”の違いは、その辺りにあるのかも知れません。この曲のラスト1フレーズの美しさは、もう涙が出るほど。彼女の動きと周囲の光景が、目に見えてくるようです。ちなみに“Itsy”以下の4語は“とても小さい”こと示す英俗語を並べたもの、“Yellow Polka-Dot”は“黄色い水玉模様”由。
◎「ポエトリー・イン・モーション」は、「ビキニスタイルのお嬢さん」最後のチャート週に初登場(ちょうど50年前の10月10日です)、ジョニーとして7曲目のヒット、それまでの6曲はいずれもミドルヒットだったのですが、この曲で一気に大ブレイクすることになります。チャート的には、廻り合わせが悪く(1位には、エルヴィスの「今宵は一人かい?」と、レイ・チャールスの「わが心のジョージア」が居座っていた)2位止まりですが、永く上位にい続けたことから、11月の月間1位を獲得しています。こちらも写生に徹した歌です。「幼女版・ビキニ~」の「少女版」というところでしょうか。ジョニーの曲の傾向は、2年後の「涙ながらに」からC&Wに傾斜して行く、ということになっていますが、実は、この「ポエトリー~」、録音スタジオもナッシュビルだし、ピアノのフロイド・クレーマー、サックスのブーツ・ランドルフ以下、ナッシュビルのセッションミュージシャンが、オールスターでバックアップしているのですね。ある意味、“C&W界が作出した純粋のPops”ということが出来るのかも知れません(ちなみに、フロイド・クレイマーは、相前後して自身の「ラスト・デート」でも2位を獲得していて、もしかすると1位エルヴィスの曲にも参加しているかも知れないので、となれば、ベスト3独占ということになります)。それにしても完璧な出来です。ポール・カウフマンとマーク・アンソニーによる曲と詩、ジョニーの声、バックのコーラス(アニタ・カー?ジョーダーネース?)、アーチ・ブレイアーの企画と編曲、、、、全てが見事にマッチした、奇跡の作品。オールデイズの全てを、この一曲で語ることが出来る、名曲中の名曲でしょう。
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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(15)
“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑧『デル・シャンノンとジーン・ピットニー』
Del Shannon 308位
1934.12.30 Michigan出身
悲しき街角/太陽を探せ
Gene Pitney 153位
1941.2.17 Connecticut出身
リバティーバランスを撃った男/愛の痛手に
【アメリカ進出前の、ビートルズとストーンズの楽曲を、いち早く紹介】
デル・シャノンが、自ら命を絶ってから、20年が経ちます。僕は、リアルタイムでは、その情報を知らなかったのです。
という書き出しで、僕のPops音楽遍歴から始めて、オールデイズを聴くということはどういうことなのか、アーティスト達にとっての“時間”と、リスナーにとっての“時間”の交わり。時間は、どれほどまでに均等なのか、といったようなことを書き進めていたら、収集が付かなくなってしまいました。風邪は直らないどころか、ますますひどくなり、こちらの薬局で購入した薬を適当に服用したら、今度は猛烈に気分が悪くなってきた。目眩がして、混沌とする中で、先にボビー・ヴィントン&トミー・ローを書いたのですけれど、一体何を書いたのかもさえ覚えてない始末です。
改めてデル&ジーンに取り掛かります。書きたかった話は、またの機会に、ということにして、スパッと全部削除。でも、何も載せないわけにはいかないので、適当に、どうでもいいことを書き連ねて行くことにします。
デルの自決の2年前、ジョニー・ティロットソンとレスリー・ゴーアと3人で、日本公演がありました。今なら、何を置いても駆け付けるところですが、当時はその情報さえ知らなかった。でもYou-tubeで幾つかの画像を見ることが出来ます。デルは凄いなぁ~!現役バリバリですよ。2人より(ビルボード20世紀)ランクは下なのだけれど、実際の力量は遥かに上。5才下のジョニー、12才下のレスリーが、どこかのしょぼくれたオッチャンとオバチャンにしか見えない。「おめでとう!抽選に当たりましたので、一緒にステージで唄って下さい」、と観客席から上がってきたファンみたいです。天下のジョニー・ティロットソンとレスリー・ゴーアを、唯のオッチャンオバチャンにしてしまうほど、デル・シャノンは、溌剌としていて、存在感に溢れています。
ここで、一言弁護の機会を下さい。あるブログに、この公演のジョニーに対して、“まるでチープな結婚詐欺師、レコードとステージの格差があり過ぎる”といった要旨の酷評がありました。その通り、と頷きもしたいのですが、それを言っちゃあいかんです、とういう気持ちもあります。ジョニーの魅力は、また別のところにあるのです。評価の基準の角度を変えて見れば、それなりの魅力を発見出来るはず(年を取ってからのジョニーには、ポップス~オールデイズは唄えない、C&W路線で行くしかないのです)。もとより、デル・シャノンという存在が、他の“元ティーン・アイドル”とは違うのですね。
没後明らかにされた本当の生誕日は、御大エルヴィスより、一週間前。ジョニーやブライアンやピットニーといった、5~10歳下の“ティーン・アイドル”たちと競って行かねばならないジレンマ。年を取ってしまえば、5歳や10歳の差はあってないようなものですが、若い頃は、周囲との1才の差でも相当に大きく感じてしまいます。僕自身、(不登校による)落第や様々な回り道を繰り返し、いつも周囲の人々より年上、という立場だったものですから、そのプレッシャー、焦りたるや、いかに大変であるかということは、身を持って分かります。今思うとおかしなほど重くのしかかっていたのです。
それはともかく、(僕の目には)デル・シャノンは、とても真面目な、物事に真剣に取り組む、かつデリケートな精神を持つ人のように見えます。何度か例に挙げている、80年代中期の12人の「元祖ティーン・アイドル(の今)」のオムニバス・ビデオでは、デルはトミー・ローに続いて2人目に登場、途中自らのギター独奏を交え、「ハンディー・マン」を真剣に唄います。4人目に登場し「涙のくちづけ」を熱唱するブライアン・ハイランドと、どこか共通点を感じるのです。一言で表すと“影”の共有。2人が組んで「ジプシー・ウーマン」を製作したのも、むべなるかな、という気がします。
デルは、ビートルズがアメリカに進出し、初ヒットの「抱きしめたい」を放つ数ヶ月前に、すでに本国イギリスでヒットしていた「フロム・ミー・トゥー・ユー」をカヴァーし、Hot100チャートに送り込みます(11月にPop77位、ビートルズ盤はパブリシング・アンダーにランクされるもHot100圏内には届かず)。これが、アメリカでのビートルズ関連(レノン-マッカトニー作品)の初ヒットとなるわけで、ビートルズの面々もデルに感謝の気持ちを持ち、アメリカ初上陸に際して、いの一番にデルを敬意訪問したと言われています。彼らはその後も、デルには一目を置いていたようで、デル自決直前の、(ロイ・オービソン急悴による後釜としての)「Traveling Wilburys」メンバー招聘の打診にも繋がっているわけです。
デル・シャノンがビートルズならば、ジーン・ピットニーはR・ストーンズ。64年初頭、ストーンズの米初ヒットに先駆けて、ジャガー-リチャード作品の「ザ・ガール・ビロングス・イエスタディ」をHot100チャートにランクイン(2月に49位)。その後もストーンズとは交流を持ち続け、互いに作品を提供しあったり、セッションに参加しあったりします。そのことは、後年のピットニーのイギリスでの人気や、活動にも結びついているはずです。
2006年の春、ピットニーの急悴は、リアルタイムで情報を得ました。ちょうど日本に滞在時、You-tubeでイギリス公演の大量のビデオを見た後で、彼がオールデイズ仲間のうちでは一番元気に溌剌と活動していると、感心していたものですから、ショックも大きかったのです。雲南・ミャンマー国境付近をうろついている時で、しばらくは彼の唄ばかり偲んで聴いていました。訃報は、飛びぬけて充実しているボビー・ヴィーのH.P.のニュースコラムで、ほとんどリアルタイムで知ったのです(ピットニーは、ヴィーの大ヒット曲「ラバーボール」の作者でもあります)。
改めて、ジョニー・ティロットソンのH.Pも見てみましたが、(ボビー・ヴィーのH.P.に比べれば情報量がずっと少ない)彼のH.P.には、一言も触れられていません。でも良く見ると、さりげなく新しい写真が一枚(訃報には触れることなく)加わっていました。ジーンを中央に、左右にジョニーとブライアン・ハイランド。写真のキャプション(今は別のキャプションに変わっている)は、うろ覚えなのですが、“Yang-mans, Good looking & talented”。ハンサムで才能のある若者たち、、、、。“才能”、、、彼ジーン・ピットニーにピッタリの言葉ではないでしょうか。
白い背広をピシッと着込んだジョニー、ギターを抱えたカジュアルな服装のブライアン、彼らはある意味両極端のステレオタイプで分かり易いのですが、二人に肩越しに手をまわしたジーンのいでたちは、表現が難しい、、、、。今で言う、ちょい悪のイタリアン、とでも言えば良いのでしょうか、一言では現わし難い、多様な才能の萌芽が滲み出ているのです。
2000年刊行のビルボード1955~1999年総合ランキング(ここでは仮に「20世紀ランキング」と呼んでいます)では、ジョニー148位、ジーン153位。ジーンがジョニーより下、というのは、どう考えてもおかしいのです。客観的に考えれば、ジーンのほうがずっと上位のはず(得点の集計上、中位のヒット曲が多くある歌手に有利?)。実績的に2人が近い位置にあることは確かなのですが。
アメリカのヒットチャートで事実上の撤退(と言っても他の多くの“狭間の歌手”たちよりは後まで頑張ったのですが)した後も、イギリスでの人気は長く続きます。そのことに於いてもジョニーは遠く敵いません。もっとも、ジョニーの場合は日本でのヒットが多数あったわけで、それを加味することが出来れば、互角ということも出来るのでしょうけれども。
ソング・ライティングの実力は、飛びぬけて凄いですね。もっともっと評価されるべきだと思います。クリスタルズの「ヒーズ・ア・レヴェル」、リッキー・ネルソンの「ハロー・メリールー」、、、、。歴史に残るヒット曲を、多数作っているのです。キャパシティーの広い、マルチな才能は、ポール・アンカやニール・セダカを上回るのではないでしょうか?
才能、そして魅力的、という形容が、まことにふさわしい、ジーン・ピットニーなのです。
Del Shannon
61.03.06(Billboard Hot100初登場日付け)-66.05.14(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:16曲
同Top40ランク曲数: 08曲
同Best10ランク曲数: 03曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:18曲
4チャートのBest10ランク曲総数:03曲
Gene Pitney
61.01.30(Billboard Hot100初登場日付け)-67.01.28(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:21曲
同Top40ランク曲数:15曲
同Best10ランク曲数:04曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:28曲
4チャートのBest10ランク曲総数:08曲
【デル・シャノン/マイ・ベスト10】
●Runaway(悲しき街角)
1961年Pop 1位。説明の必要はないでしょう。67年Pop 112位のニュー・(スロー)ヴァージョンも、オリジナルに劣らないほど素敵です。以下の多くの曲と共に、彼の自作。
●Hats Off to Larry(花咲く街角)
1961年Pop 5位。原題は、街角とは全く関係なし。この後、「So Long Baby」(61年28位)、「Hey! Little Girl」(61年38位)とヒットが続く(日本盤のタイトルには「街角」が付いているはず)も、やがてHot 100ランクから姿を消してしまいます。
●The Swiss Maid(スイスの娘)
1962年Pop 64位、AC 19位。一年ぶりのチャートイン。(後年の“シー・オブ・ラブ”を別とすれば)唯一ACチャートイン曲でもあります。後のC&Wスター歌手、ロジャー・ミラーの作品(co-write)。軽快でコミカルな楽しい曲。ジョニーの大傑作You-tube「ジュディ・ガーランド編:Judy, Judy, Judy」とセットで見ることが出来ます(こちらも素敵です)。
●Little Town Flirt
1962年Pop 12位。この曲で、完全カンバック。日本盤タイトルには、やはり「街角」が付いていたはず。落ち着いたミディアムテンポの、しかし迫力満点の、風格に満ちた曲です。
●From Me to You
1963年Pop 77位。本文参照。
●Handy Man
1964年Pop 22位。黒人Popsシンガー、ジミー・ジョーンズの、2大ヒットの一つ(59年Pop 3位、もう一曲は同年Pop 2位の「素敵なタイミング」)のカヴァー。
●Do You Want To Dance(踊どろよベイビー)
1964年 Pop 43位。翌65年初頭、ビーチ・ボーイズ(珍しくデニス・ウイルソンのリード・ヴォーカル、、、デルとデニスは、どことなくキャラクターがカブルように思うのですが)で再ヒット(Pop 12位)。オリジナルは、後に「スイム」や「カモン・アンド・スイム」のヒットを持つ、黒人ロックシンガー、ボビー・フリーマン(59年Pop 5位)で、彼の自作曲。
●Keep Searchin'(太陽を探せ)
1964年 Pop 9位。「悲しき街角」をリアル・タイムで聴いてはいない僕個人的には、デル・シャノンと言えば「太陽を探せ」。日本でも「悲しき街角」に負けず劣らず、大ヒットしました。デルの自作。
●Move It On Over
1965年Pop 129位。「太陽を探せ」に引き続いて65年初頭「Stranger in Town」をPop 30位に送り込みますが、その後は65年と66年に90位台の小ヒットを各一曲放っただけで、Hot 100から姿を消してしまいます。しかし、作品のグレードはむしろ高まっていて、この年には、ハンク・ウイリアムス作品を集めた、C&Wアルバムも発表、ハンクの魂が乗り移ったような熱唱を見せる、デルの本質がよく表れた意欲作です。アルバムとは別個に、上記の曲がシングルとして発売されています。
●Under My Thumb
1966年 128位。R・ストーンズ・ナンバーのカヴァー。前曲を含め、69年までに計5曲のバブリシング・アンダー・ヒットがあります。
《おまけ》●In My Arms Again
1985年C&W 56位。81年に「Sea of Love」(Pop 33位AC 34位)の一発ヒットを放ったあと、最後にC&Wチャートにも登場します。
【ジーン・ピットニー/マイ・ベスト10】
○Louisiana Mama(ルイジアナ・ママ)
デビューは1959年、Jamie & Jane (Ginny Arnell)とのデュエット。名でのデュエット。その後ソロとなり、7曲目の自作曲「(I Wanna) Love My Life Away」が初ヒット(61年Pop 39位)。次のヒット「Every Breath I Take」(フィル・スぺクターのプロデュース、Pop 42位)との間に、不発曲が一曲あり、それが日本限定の特大ヒットとなった、おなじみのこの曲(ピットニーの自作)です。
○(The Man Who Shot) Liberty Valance(リバティ・バランスを撃った男)
1962年Pop 4位。61年暮になって「Town Without Pity」(Pop 13位)で本国でも大ブレイク。そしてこの曲に続きます(映画とは無関係である由)。
○If I Didn't Have a Dime (To Play the Jukebox)(恋のジュークボックス)
1962年Pop 58位。ピットニー最大のヒット曲「Only Love Can Break a Heart(愛の痛手)」(62年Pop 2位、AC 1位、バート・バカラック&ハル・デビット作)のB面で、ピットニー唯一の両面ヒット曲。僕は、この曲が、彼の最高傑作だと思っています(自作)。
○Half Heaven - Half Heartache(恋の1/2)
1962年Pop 12位、AC 5位。イスラムorヒスパニック的イメージの、バカラック&デビット作品を数多く取り上げヒットさせているピットニーですが、「恋のジュークボック」や「恋の1/2」のような、素直な曲調の作品も、交互に取り上げてヒットさせています。僕の好みから言えば、こちらのスタイルのほうに、より魅力を感じます。
○Mecca(メッカ)
1963年Pop 12位、AC 5位。イスラム的イメージの一風変わった曲。日本でも前作「恋の1/2」と共に、結構ヒットしていたように思います。
○Twenty Four Hours from Tulsa(タルサからの24時間)
1963年Pop17位、AC 5位。「True Love Never Runs Smooth」(Pop 21位、AC 6位)、この曲と、メランコリックな曲調のヒットが続きます。タルサはアメリカ南部の都市。僕の大好きな曲の一つです。
○That Girl Belongs to Yesterday
1964年Pop 49位。ブリティッシュ勢来襲直前のリリース。本文でも述べた、ローリング・ストーンズ、ジャガー&リチャードの、登場作品、ピットニーとの相性はピッタシです。他の多くの“狭間のシンガー”は、この時期の発表曲にチャート高ポジションを記録するも、その後は没落傾向に向かうのですが、ピットニーはちょっと傾向が異なり、ここで中弛みになった(次の「Yesterday's Hero」はPop 64位)後、再び盛り返します。
○It Hurts to Be In Love
1964年Pop 7位。
○I'm Gonna Be Strong(淋しさを忘れよう)
1964年Pop 9位。ビートルズ襲来直前の64年の初頭には“狭間の歌手”たちの大ヒット曲が集中しますが、春以降は急激に減って、主導権が入れ替わってしまいます。その中で、ロイ・オービソンの2曲、デル・シャノンの「太陽を探せ」、それにジーン・ピットニーのこの2曲が、トップ10入りと健闘。
○Princess In Rags(僕のプリンセス)
1965年Pop 37位。65~66年にかけ、「I Must Be Seeing Things」(Pop 31位)、「Last Chance to Turn Around」(Pop 13位)、「Looking Through the Eyes of Love」(Pop 26位)、「Backstage」(Pop 25位)、と、Top 40ヒットが続きます。中でも好きなのが、イギリスでは2位を記録したこの曲。イギリスにおける人気が、この頃から一段と高くなっていきます。
○She Lets Her Hair Down(朝焼けの中で)
1969年Pop 89位。68年に「She's a Heartbreaker」(Pop 16位)の大ヒットを放ったあと、米ラストヒットは、化粧品メイカーとのタイアップ曲。けれんみのない素直な歌声の、とても好感の持てる曲です。
《おまけ》○Mocking-bird Hill
1965年以降、カントリー界のスター歌手、メルバ・モンゴメリーやジョージ・ジョーンズとのデユエットによる、C&Wチャートでのヒット曲が、5曲加わります。シングル・カットはされていないのですが、僕が大好きなのが、You-tubeで聴くことの出来るGeorge&Geneのこの曲。2人の息がぴったりで、楽しさがストレートに伝わって来ます。
“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑦ 『ブライアン・ハイランドとジョニー・ティロットソン』(追加)
●Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka-Dot Bikini(ビキニスタイルのお嬢さん)【60年Pop 1位、R&B 10位】
○Poetry in Motion(ポエトリー)【60年Pop 2位、R&B 24位】
◎デビュー曲「ローズマリー」が不発も、次のキャッチーなコピーの“ノベルティーソング”が大当りして一気にメジャーの世界に躍り出たわけですが、素直に喜んでいいのか、、、Braianの心境は、いかなるものだったのでしょう。日本では続く「ベビー・フェイス」も大ヒットを記録しますが、本国では「ビキニ~」と同傾向の曲を何曲か続けてリリースするも、いずれも不発、あっという間にチャート上から姿を消してしまいます。うかうかしていると“ノヴェルティソングの一発屋”で終わりかねません。でも彼は実力者です。1年後には、「ビキニ~」とは正反対のイメージの、限りなく暗くスローな「Let Me Belong to You」でチャート上位にカムバック、2年後には、「Ginny Come Lately」「涙のくちづけ」といったビッグヒットを連発し、正当派歌手であることの証明が成されます。しかし、その前に行っておかねばならぬことが。「ビキニスタイルのお嬢さん」は、実は“ノヴェルティ・ソング”などではありません。素晴らしいメロディーの、素晴らしい歌詞の名曲です。じっくりと聴いて貰えれば分かるはず、これほど美しい曲は、そうそうありません。作詞者ポール・ヴァンスの、2歳か3歳のお嬢さんがモデルなのだそうです(作曲は、リー・ポックリス)。僕は、「アララギ派」の短歌(島木赤彦、斎藤茂吉etc.)が好きなのですが、正岡子規の流れをくむ“写生派”、情念を強く前面に押し出した、与謝野晶子・鉄幹率いる「明星」一派とは対照的に、主観的表現を極力押さえて、より客観的な視点から対象の本質を探ろうとしているのです。ある意味、ビートルズやディラン以降の“主観”が前面に強く押し出された“新時代の音楽”と、それ以前の“オールデイズ”の違いは、その辺りにあるのかも知れません。この曲のラスト1フレーズの美しさは、もう涙が出るほど。彼女の動きと周囲の光景が、目に見えてくるようです。ちなみに“Itsy”以下の4語は“とても小さい”こと示す英俗語を並べたもの、“Yellow Polka-Dot”は“黄色い水玉模様”由。
◎「ポエトリー・イン・モーション」は、「ビキニスタイルのお嬢さん」最後のチャート週に初登場(ちょうど50年前の10月10日です)、ジョニーとして7曲目のヒット、それまでの6曲はいずれもミドルヒットだったのですが、この曲で一気に大ブレイクすることになります。チャート的には、廻り合わせが悪く(1位には、エルヴィスの「今宵は一人かい?」と、レイ・チャールスの「わが心のジョージア」が居座っていた)2位止まりですが、永く上位にい続けたことから、11月の月間1位を獲得しています。こちらも写生に徹した歌です。「幼女版・ビキニ~」の「少女版」というところでしょうか。ジョニーの曲の傾向は、2年後の「涙ながらに」からC&Wに傾斜して行く、ということになっていますが、実は、この「ポエトリー~」、録音スタジオもナッシュビルだし、ピアノのフロイド・クレーマー、サックスのブーツ・ランドルフ以下、ナッシュビルのセッションミュージシャンが、オールスターでバックアップしているのですね。ある意味、“C&W界が作出した純粋のPops”ということが出来るのかも知れません(ちなみに、フロイド・クレイマーは、相前後して自身の「ラスト・デート」でも2位を獲得していて、もしかすると1位エルヴィスの曲にも参加しているかも知れないので、となれば、ベスト3独占ということになります)。それにしても完璧な出来です。ポール・カウフマンとマーク・アンソニーによる曲と詩、ジョニーの声、バックのコーラス(アニタ・カー?ジョーダーネース?)、アーチ・ブレイアーの企画と編曲、、、、全てが見事にマッチした、奇跡の作品。オールデイズの全てを、この一曲で語ることが出来る、名曲中の名曲でしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(15)
“狭間のシンガー”24人衆の紹介 ⑧『デル・シャンノンとジーン・ピットニー』
Del Shannon 308位
1934.12.30 Michigan出身
悲しき街角/太陽を探せ
Gene Pitney 153位
1941.2.17 Connecticut出身
リバティーバランスを撃った男/愛の痛手に
【アメリカ進出前の、ビートルズとストーンズの楽曲を、いち早く紹介】
デル・シャノンが、自ら命を絶ってから、20年が経ちます。僕は、リアルタイムでは、その情報を知らなかったのです。
という書き出しで、僕のPops音楽遍歴から始めて、オールデイズを聴くということはどういうことなのか、アーティスト達にとっての“時間”と、リスナーにとっての“時間”の交わり。時間は、どれほどまでに均等なのか、といったようなことを書き進めていたら、収集が付かなくなってしまいました。風邪は直らないどころか、ますますひどくなり、こちらの薬局で購入した薬を適当に服用したら、今度は猛烈に気分が悪くなってきた。目眩がして、混沌とする中で、先にボビー・ヴィントン&トミー・ローを書いたのですけれど、一体何を書いたのかもさえ覚えてない始末です。
改めてデル&ジーンに取り掛かります。書きたかった話は、またの機会に、ということにして、スパッと全部削除。でも、何も載せないわけにはいかないので、適当に、どうでもいいことを書き連ねて行くことにします。
デルの自決の2年前、ジョニー・ティロットソンとレスリー・ゴーアと3人で、日本公演がありました。今なら、何を置いても駆け付けるところですが、当時はその情報さえ知らなかった。でもYou-tubeで幾つかの画像を見ることが出来ます。デルは凄いなぁ~!現役バリバリですよ。2人より(ビルボード20世紀)ランクは下なのだけれど、実際の力量は遥かに上。5才下のジョニー、12才下のレスリーが、どこかのしょぼくれたオッチャンとオバチャンにしか見えない。「おめでとう!抽選に当たりましたので、一緒にステージで唄って下さい」、と観客席から上がってきたファンみたいです。天下のジョニー・ティロットソンとレスリー・ゴーアを、唯のオッチャンオバチャンにしてしまうほど、デル・シャノンは、溌剌としていて、存在感に溢れています。
ここで、一言弁護の機会を下さい。あるブログに、この公演のジョニーに対して、“まるでチープな結婚詐欺師、レコードとステージの格差があり過ぎる”といった要旨の酷評がありました。その通り、と頷きもしたいのですが、それを言っちゃあいかんです、とういう気持ちもあります。ジョニーの魅力は、また別のところにあるのです。評価の基準の角度を変えて見れば、それなりの魅力を発見出来るはず(年を取ってからのジョニーには、ポップス~オールデイズは唄えない、C&W路線で行くしかないのです)。もとより、デル・シャノンという存在が、他の“元ティーン・アイドル”とは違うのですね。
没後明らかにされた本当の生誕日は、御大エルヴィスより、一週間前。ジョニーやブライアンやピットニーといった、5~10歳下の“ティーン・アイドル”たちと競って行かねばならないジレンマ。年を取ってしまえば、5歳や10歳の差はあってないようなものですが、若い頃は、周囲との1才の差でも相当に大きく感じてしまいます。僕自身、(不登校による)落第や様々な回り道を繰り返し、いつも周囲の人々より年上、という立場だったものですから、そのプレッシャー、焦りたるや、いかに大変であるかということは、身を持って分かります。今思うとおかしなほど重くのしかかっていたのです。
それはともかく、(僕の目には)デル・シャノンは、とても真面目な、物事に真剣に取り組む、かつデリケートな精神を持つ人のように見えます。何度か例に挙げている、80年代中期の12人の「元祖ティーン・アイドル(の今)」のオムニバス・ビデオでは、デルはトミー・ローに続いて2人目に登場、途中自らのギター独奏を交え、「ハンディー・マン」を真剣に唄います。4人目に登場し「涙のくちづけ」を熱唱するブライアン・ハイランドと、どこか共通点を感じるのです。一言で表すと“影”の共有。2人が組んで「ジプシー・ウーマン」を製作したのも、むべなるかな、という気がします。
デルは、ビートルズがアメリカに進出し、初ヒットの「抱きしめたい」を放つ数ヶ月前に、すでに本国イギリスでヒットしていた「フロム・ミー・トゥー・ユー」をカヴァーし、Hot100チャートに送り込みます(11月にPop77位、ビートルズ盤はパブリシング・アンダーにランクされるもHot100圏内には届かず)。これが、アメリカでのビートルズ関連(レノン-マッカトニー作品)の初ヒットとなるわけで、ビートルズの面々もデルに感謝の気持ちを持ち、アメリカ初上陸に際して、いの一番にデルを敬意訪問したと言われています。彼らはその後も、デルには一目を置いていたようで、デル自決直前の、(ロイ・オービソン急悴による後釜としての)「Traveling Wilburys」メンバー招聘の打診にも繋がっているわけです。
デル・シャノンがビートルズならば、ジーン・ピットニーはR・ストーンズ。64年初頭、ストーンズの米初ヒットに先駆けて、ジャガー-リチャード作品の「ザ・ガール・ビロングス・イエスタディ」をHot100チャートにランクイン(2月に49位)。その後もストーンズとは交流を持ち続け、互いに作品を提供しあったり、セッションに参加しあったりします。そのことは、後年のピットニーのイギリスでの人気や、活動にも結びついているはずです。
2006年の春、ピットニーの急悴は、リアルタイムで情報を得ました。ちょうど日本に滞在時、You-tubeでイギリス公演の大量のビデオを見た後で、彼がオールデイズ仲間のうちでは一番元気に溌剌と活動していると、感心していたものですから、ショックも大きかったのです。雲南・ミャンマー国境付近をうろついている時で、しばらくは彼の唄ばかり偲んで聴いていました。訃報は、飛びぬけて充実しているボビー・ヴィーのH.P.のニュースコラムで、ほとんどリアルタイムで知ったのです(ピットニーは、ヴィーの大ヒット曲「ラバーボール」の作者でもあります)。
改めて、ジョニー・ティロットソンのH.Pも見てみましたが、(ボビー・ヴィーのH.P.に比べれば情報量がずっと少ない)彼のH.P.には、一言も触れられていません。でも良く見ると、さりげなく新しい写真が一枚(訃報には触れることなく)加わっていました。ジーンを中央に、左右にジョニーとブライアン・ハイランド。写真のキャプション(今は別のキャプションに変わっている)は、うろ覚えなのですが、“Yang-mans, Good looking & talented”。ハンサムで才能のある若者たち、、、、。“才能”、、、彼ジーン・ピットニーにピッタリの言葉ではないでしょうか。
白い背広をピシッと着込んだジョニー、ギターを抱えたカジュアルな服装のブライアン、彼らはある意味両極端のステレオタイプで分かり易いのですが、二人に肩越しに手をまわしたジーンのいでたちは、表現が難しい、、、、。今で言う、ちょい悪のイタリアン、とでも言えば良いのでしょうか、一言では現わし難い、多様な才能の萌芽が滲み出ているのです。
2000年刊行のビルボード1955~1999年総合ランキング(ここでは仮に「20世紀ランキング」と呼んでいます)では、ジョニー148位、ジーン153位。ジーンがジョニーより下、というのは、どう考えてもおかしいのです。客観的に考えれば、ジーンのほうがずっと上位のはず(得点の集計上、中位のヒット曲が多くある歌手に有利?)。実績的に2人が近い位置にあることは確かなのですが。
アメリカのヒットチャートで事実上の撤退(と言っても他の多くの“狭間の歌手”たちよりは後まで頑張ったのですが)した後も、イギリスでの人気は長く続きます。そのことに於いてもジョニーは遠く敵いません。もっとも、ジョニーの場合は日本でのヒットが多数あったわけで、それを加味することが出来れば、互角ということも出来るのでしょうけれども。
ソング・ライティングの実力は、飛びぬけて凄いですね。もっともっと評価されるべきだと思います。クリスタルズの「ヒーズ・ア・レヴェル」、リッキー・ネルソンの「ハロー・メリールー」、、、、。歴史に残るヒット曲を、多数作っているのです。キャパシティーの広い、マルチな才能は、ポール・アンカやニール・セダカを上回るのではないでしょうか?
才能、そして魅力的、という形容が、まことにふさわしい、ジーン・ピットニーなのです。
Del Shannon
61.03.06(Billboard Hot100初登場日付け)-66.05.14(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:16曲
同Top40ランク曲数: 08曲
同Best10ランク曲数: 03曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:18曲
4チャートのBest10ランク曲総数:03曲
Gene Pitney
61.01.30(Billboard Hot100初登場日付け)-67.01.28(一年間以内の連続ヒット最終日付け)
連続ヒット内のHot100ランク曲数:21曲
同Top40ランク曲数:15曲
同Best10ランク曲数:04曲
通算Hot100ランク曲+C&W・R&B・AC 各単独チャートイン曲の総数:28曲
4チャートのBest10ランク曲総数:08曲
【デル・シャノン/マイ・ベスト10】
●Runaway(悲しき街角)
1961年Pop 1位。説明の必要はないでしょう。67年Pop 112位のニュー・(スロー)ヴァージョンも、オリジナルに劣らないほど素敵です。以下の多くの曲と共に、彼の自作。
●Hats Off to Larry(花咲く街角)
1961年Pop 5位。原題は、街角とは全く関係なし。この後、「So Long Baby」(61年28位)、「Hey! Little Girl」(61年38位)とヒットが続く(日本盤のタイトルには「街角」が付いているはず)も、やがてHot 100ランクから姿を消してしまいます。
●The Swiss Maid(スイスの娘)
1962年Pop 64位、AC 19位。一年ぶりのチャートイン。(後年の“シー・オブ・ラブ”を別とすれば)唯一ACチャートイン曲でもあります。後のC&Wスター歌手、ロジャー・ミラーの作品(co-write)。軽快でコミカルな楽しい曲。ジョニーの大傑作You-tube「ジュディ・ガーランド編:Judy, Judy, Judy」とセットで見ることが出来ます(こちらも素敵です)。
●Little Town Flirt
1962年Pop 12位。この曲で、完全カンバック。日本盤タイトルには、やはり「街角」が付いていたはず。落ち着いたミディアムテンポの、しかし迫力満点の、風格に満ちた曲です。
●From Me to You
1963年Pop 77位。本文参照。
●Handy Man
1964年Pop 22位。黒人Popsシンガー、ジミー・ジョーンズの、2大ヒットの一つ(59年Pop 3位、もう一曲は同年Pop 2位の「素敵なタイミング」)のカヴァー。
●Do You Want To Dance(踊どろよベイビー)
1964年 Pop 43位。翌65年初頭、ビーチ・ボーイズ(珍しくデニス・ウイルソンのリード・ヴォーカル、、、デルとデニスは、どことなくキャラクターがカブルように思うのですが)で再ヒット(Pop 12位)。オリジナルは、後に「スイム」や「カモン・アンド・スイム」のヒットを持つ、黒人ロックシンガー、ボビー・フリーマン(59年Pop 5位)で、彼の自作曲。
●Keep Searchin'(太陽を探せ)
1964年 Pop 9位。「悲しき街角」をリアル・タイムで聴いてはいない僕個人的には、デル・シャノンと言えば「太陽を探せ」。日本でも「悲しき街角」に負けず劣らず、大ヒットしました。デルの自作。
●Move It On Over
1965年Pop 129位。「太陽を探せ」に引き続いて65年初頭「Stranger in Town」をPop 30位に送り込みますが、その後は65年と66年に90位台の小ヒットを各一曲放っただけで、Hot 100から姿を消してしまいます。しかし、作品のグレードはむしろ高まっていて、この年には、ハンク・ウイリアムス作品を集めた、C&Wアルバムも発表、ハンクの魂が乗り移ったような熱唱を見せる、デルの本質がよく表れた意欲作です。アルバムとは別個に、上記の曲がシングルとして発売されています。
●Under My Thumb
1966年 128位。R・ストーンズ・ナンバーのカヴァー。前曲を含め、69年までに計5曲のバブリシング・アンダー・ヒットがあります。
《おまけ》●In My Arms Again
1985年C&W 56位。81年に「Sea of Love」(Pop 33位AC 34位)の一発ヒットを放ったあと、最後にC&Wチャートにも登場します。
【ジーン・ピットニー/マイ・ベスト10】
○Louisiana Mama(ルイジアナ・ママ)
デビューは1959年、Jamie & Jane (Ginny Arnell)とのデュエット。名でのデュエット。その後ソロとなり、7曲目の自作曲「(I Wanna) Love My Life Away」が初ヒット(61年Pop 39位)。次のヒット「Every Breath I Take」(フィル・スぺクターのプロデュース、Pop 42位)との間に、不発曲が一曲あり、それが日本限定の特大ヒットとなった、おなじみのこの曲(ピットニーの自作)です。
○(The Man Who Shot) Liberty Valance(リバティ・バランスを撃った男)
1962年Pop 4位。61年暮になって「Town Without Pity」(Pop 13位)で本国でも大ブレイク。そしてこの曲に続きます(映画とは無関係である由)。
○If I Didn't Have a Dime (To Play the Jukebox)(恋のジュークボックス)
1962年Pop 58位。ピットニー最大のヒット曲「Only Love Can Break a Heart(愛の痛手)」(62年Pop 2位、AC 1位、バート・バカラック&ハル・デビット作)のB面で、ピットニー唯一の両面ヒット曲。僕は、この曲が、彼の最高傑作だと思っています(自作)。
○Half Heaven - Half Heartache(恋の1/2)
1962年Pop 12位、AC 5位。イスラムorヒスパニック的イメージの、バカラック&デビット作品を数多く取り上げヒットさせているピットニーですが、「恋のジュークボック」や「恋の1/2」のような、素直な曲調の作品も、交互に取り上げてヒットさせています。僕の好みから言えば、こちらのスタイルのほうに、より魅力を感じます。
○Mecca(メッカ)
1963年Pop 12位、AC 5位。イスラム的イメージの一風変わった曲。日本でも前作「恋の1/2」と共に、結構ヒットしていたように思います。
○Twenty Four Hours from Tulsa(タルサからの24時間)
1963年Pop17位、AC 5位。「True Love Never Runs Smooth」(Pop 21位、AC 6位)、この曲と、メランコリックな曲調のヒットが続きます。タルサはアメリカ南部の都市。僕の大好きな曲の一つです。
○That Girl Belongs to Yesterday
1964年Pop 49位。ブリティッシュ勢来襲直前のリリース。本文でも述べた、ローリング・ストーンズ、ジャガー&リチャードの、登場作品、ピットニーとの相性はピッタシです。他の多くの“狭間のシンガー”は、この時期の発表曲にチャート高ポジションを記録するも、その後は没落傾向に向かうのですが、ピットニーはちょっと傾向が異なり、ここで中弛みになった(次の「Yesterday's Hero」はPop 64位)後、再び盛り返します。
○It Hurts to Be In Love
1964年Pop 7位。
○I'm Gonna Be Strong(淋しさを忘れよう)
1964年Pop 9位。ビートルズ襲来直前の64年の初頭には“狭間の歌手”たちの大ヒット曲が集中しますが、春以降は急激に減って、主導権が入れ替わってしまいます。その中で、ロイ・オービソンの2曲、デル・シャノンの「太陽を探せ」、それにジーン・ピットニーのこの2曲が、トップ10入りと健闘。
○Princess In Rags(僕のプリンセス)
1965年Pop 37位。65~66年にかけ、「I Must Be Seeing Things」(Pop 31位)、「Last Chance to Turn Around」(Pop 13位)、「Looking Through the Eyes of Love」(Pop 26位)、「Backstage」(Pop 25位)、と、Top 40ヒットが続きます。中でも好きなのが、イギリスでは2位を記録したこの曲。イギリスにおける人気が、この頃から一段と高くなっていきます。
○She Lets Her Hair Down(朝焼けの中で)
1969年Pop 89位。68年に「She's a Heartbreaker」(Pop 16位)の大ヒットを放ったあと、米ラストヒットは、化粧品メイカーとのタイアップ曲。けれんみのない素直な歌声の、とても好感の持てる曲です。
《おまけ》○Mocking-bird Hill
1965年以降、カントリー界のスター歌手、メルバ・モンゴメリーやジョージ・ジョーンズとのデユエットによる、C&Wチャートでのヒット曲が、5曲加わります。シングル・カットはされていないのですが、僕が大好きなのが、You-tubeで聴くことの出来るGeorge&Geneのこの曲。2人の息がぴったりで、楽しさがストレートに伝わって来ます。