9年前の会報から
講 演 内 容
あかね色の空を見たよ
~不登校経験者から相談員への道のり~
講師/堂野博之さん
これから話すことは、あくまでも堂野博之の体験で、一般的なこととして置き換えて欲しくはありません。
1休み始めた頃
私は、常に人の目線を気にしていました。とてもよく気がつく、いい子でした。でも、心の中は、不安で不安でしょうがありませんでした。いい子でいられなくなっても愛されるのだろうかと。
小学2年、3年と転校し、嫌がらせやいじめをうけました。一生懸命仲間に合わせようとしているのにも拘わらずいじめられ、「私って何なのだろうか」と悩みました。
小学4年の冬のある日、ふとんから起き上がれず、ただ横たわっている私がいました。それから5日間、起き上がれずに寝ていました。5日間学校を休んだということは物凄い出来事でした。私はとてつもない罪悪感で一杯になり、また学校へ行くようになります。しかし、一日一日やっとの思いで学校に行き、また数日起きられなくなる。そのことで「あれだけいい子だったのに・・・あれだけ優しいヒロちゃんがどうして!?」と、親の私を見る目が大きく変わってきました。時にはほっぺたを叩かれたりもしました。
親の役割は学校に連れて行くこと以外になく、先生の役割は学校に来させること以外になく、それを果たさせるためには、私が学校に行くしかなかったのです。そういう両親に向かって「くそじじい!くそばばあ!」と暴言を吐きました。これは私の中でも、すごくエネルギーのいることでした。
ある日、母が部屋に来て「お札(ふだ)を貼るけど気にしなくていいからね」と言って、枕元にお札を貼りました。僕は恐くて3日間眠れませんでした。なんとも言えない怒りのような感情が湧き、それを母にぶつけました。
母は、どうして学校に行けないのかを知ろうと「友だち?先生?」等と質問をしてきます。私が「わからない」と答えると「どうすればいいの!?」と言うので、「ほっといてくれ!」と言うけど、放っておくことは出来ないようなのです。もう地獄のような日々でした。
友だちが迎えに来たり、手紙を届けてくれたりすると、期待に応えなくちゃいけないと思い、学校に行ってみたりして、日々葛藤があります。
2親とのギャップ
「病院へ連れて行ってあげよう」と親が連れて行ったのが、精神病院でした。私は騙されたと思い、悔しくて、悔しくて涙が出てきました。両親は、私に悪霊が取り付いて頭がおかしくなったと思ったのでしょう。
また、催眠術を掛けてみようということになり、いきなり知らない真っ暗な部屋で「あなたはだんだん眠くなる」と言われ、次の人を待たせると悪いと思い言われる通りにしていると、それを見ていた母がボロボロ泣いているのです。息をくーと噛み締めながら、涙が止まらないでいるんです。私はその姿を見て、自分の気持ちとの大きなギャップを感じました。親の想いと、自分の想いとのギャップです。
じゃあうちの親は育て方が悪かったのか?両親は決して手を抜いていたわけではなく、とにかく一生懸命育ててくれました。愛情があるからこそ、苦しんでくれたんだと思います。そして、ライフスタイルという点では不自由ない生活でした。でも、親のたっぷりの愛情が私に伝わらず「自分は誰からも愛されていない人間。自分さえいなくなればいい」と思っていました。愛されているのに、愛されているとは思えなかったのです。
マザーテレサが「人間にとって最も不幸なことは、貧困でも病気になることでもない。自分が誰からも必要とされないこと」と言い残しています。つまり私は不幸のどん底にいたのです。「どうして分かってくれないんだ!」という想いでわたしは物を壊し、暴言を吐いたりしていました。
3壮絶な日々
母は週のはじめや月のはじめなど区切りごとに、けっこう決めてくるんです。そんなある日、母がものすごい勢いで起こしに来ました。私は裸足のまま家を飛び出し、裏山へすり傷だらけになりながら逃げました。すると母も「待ちなさい!」と、どこまでも追いかけてきます。たまらず私は「来るな-!くそババ-!」と叫びながら、石を投げました。その言葉が、みごとな山びこになってこだまします。母は追いかけてくるのを止め、しょぼしょぼ肩を落として帰って行きます。私はそのあとも家の屋根に向かって石を投げ続けました。
お腹を痛めて産んだ子が、石を投げてくる。母はどんなにか辛かったと思います。私は、ギリギリ母にぶつからないように、しかもそれを悟られるのは悔しいから、全力で石を投げていました。この苦しみや、絶望感や、悔しさや、孤独感を、毎日いつ死ねばいいのかと考えている想いを伝えようと、石を投げ続けていたと思います。
壮絶な日々が続き、命の尊厳をかけた闘いになってしまうんですよ、学校に行かないということだけで。
4不登校5年目
中学3年を迎え、その頃にようやく家族の中から変化が起きてきました。5年目です。「博之、学校へ行かなくてもいいよ。その代わり手伝いをしてくれないだろうか?」と親が言い出しました。親として出来ることを全てやって、最後の最後に、学校に行っていなくても一人の人間として向き合ってみようとしてくれました。見守ってくれるようになったのです。一口に「見守る」といっても、どれだけ親として大変なことか。4年間かけて、両親がつかみ取ってくれました。
誰も起こしにこない、ゆっくり寝ていられる。すると、どんどん気が落ち着いていくのが分かりました。そんなある清々しい気候の日、父が「田んぼに肥料をまいておいて」と言っていたのを思い出して、ヌルヌルした土の中に足を突っ込んで肥料をまいていました。田んぼ一面の稲、空はあかね色に輝いて、学校に行っていないのに罪悪感がないんです。それがとっても嬉しかった。学校に行けるようにはならなかったけど、このまま生きていてもいいんだという一年間だったと思います。
卒業する頃、今まで見たこともない爽やかな顔をして、母が「ひろちゃん、あんた5年間よう頑張ったね。辛かったろう?」と言いました。そして「でもね、お母さんも頑張ったんよ」と言うのです。その言葉が温かいような、照れくさいような、悔しいような・・・。その言葉が僕の胸にドンと飛び込んできました。うちの家族に一番欠けていたのは「自分の感情を伝え合うこと」だったかもしれません。
その夜、どういう訳か両親の寝室へ行って「卒業したら家を出て、バイトをしながら定時制高校に行こうと思っている」と言いました。その時初めて、「自分はこうしたい」と伝えました。
言葉には、道具として相手を動かそうとする「道具言葉」と、そこで起きている感情を伝える「命言葉」があります。実は人間って何気に伝え合う言葉(命言葉)で、エネルギーをもらっているんです。人に気を使う私は、なかなか感情を伝えることができませんでした。辛いことをその日のうちに聞いてもらおうとしていたら、違っていたかもしれません。
5高校時代
中学卒業後、家を出てアルバイトをしながら定時制高校に通うことにしました。でも、バイト先でもうまくいきませんでした。無断欠勤してしまいました。
休むとお店の女将さんが「どうしたの?」と訪ねて来ます。私は「すいません」と謝ります。そして学校も休むようになりました。そのうち女将さんが来る頃にはアパートを抜け出し、会わないようにしました。情けないと思うけど、動けないんです。
やがてお金と食料が底をついて、何も食べられないまま布団の中で過ごしました。涙だけがボロボロこぼれてきます。「何やってんだろうか。もしかしたら、このまま目が覚めないんじゃないだろうか。死んでもいいのか?もっと生きたいのか?」と考えたとき、自分以外の誰も自分が追いつめられているのを知らないと思いました。自分の弱さによって招いた現実。自分が動かないと誰も助けてくれない。もっと生きていたいと思い、思い切って家に電話をしました。でも、母の「元気ね?」という言葉に「元気でやってるから心配せんでいい」と言って電話を切ってしまいました。私はつくづく甘えることができない人間だと、気がつきました。どうにも甘えられないのです。
自分が覚悟を決めるしかないという状況になって、それまでの賃金をもらって「バイトを辞めます」と伝えようと思って、最後の力を振り絞ってお店に行きました。そしたら「堂野君の調子がよくなるまで休んでいいから、調子がよくなったらまた来てね。あんたがいてくれたら助かるんだからね」と女将さんが言ってくれたのです。その言葉が胸に突き刺さりました。そんな言葉をかけてもらえるなんて夢にも思いませんでした。それからコンビニで弁当を三つ買って、むさぼるように食べました。よだれが決壊したように流れ、涙と鼻水でぐちょぐちょになりながら食べたお弁当の美味しかったこと。もう一度頑張ってみようという気持ちがぐーと湧いてきました。そして、数日休んだ後バイトを再開し、学校に行き始めました。
時々、「堂野さんはそんな素敵な人に出会えたから良かったけど」と言われるんですけど、実はそのおばさん、特別素晴らしい人ではなかったんです。何気ない人とのキャッチボールが、エネルギーに変わるんです。
私は両親を誇りに思っています。いろんな教育書を読んで勉強するより、日々息子と向き合い続けて、日々揺れながら、母は母として考え学んだのだと思います。もし、親の会のような仲間と出会えていたら、もう少し楽に付き合っていけたんじゃないのかなとも思います。
6相談員として
相談員としては、「この子が、今どういう気持ちなのか」というところに関心を持ちたい。特別な勉強をしているわけでもなく、本当にいいかげんな相談員です。安心して話せる人がいると思えるだけで、相談員としての役目は果たせると思います。子どもたちは「こんなことがあったんだよ」と話して、一瞬で自分を確認していきます。
毎日死にたいと繰り返している子がいました。ある日私はボイラー室の土台を削る作業をしていました。素人の私は、コンクリートの粉が鼻に付着して、鼻毛が樹氷のようになっていました。それがあまりにも面白くて、誰か話せるやつはいないかなと思っているところへ、保健室から真っ青な顔をして、その子が出てきました。「ひろ君、今日もいけんわ。帰る」と幽霊のような動きで、帰ろうとしていました。「ちょっとだけ俺の話を聞いて!ちょっと見て、樹氷のようでしょう!?」と言うと、その子は、腹をかかえて「堂野先生は本当にバカね」と笑い、真っ青だった顔が高揚して「ひろ君また明日」と言って帰って行きました。
大人が自分の人生を前向きに歩く時が来た時、子どもも前向きになることが少なくありません。安定した人が側にいるだけでも支えることができます。高い梯子の上で木の剪定をする時、木のはっぱが側にあるというだけで支えになるのです。具体的には何の支援もしてないように見えても、そこにその人がいるというだけで頼りになっています。僕はそんな相談員です。
人の人生を変えることはできないし、人の生き方を肯定も否定もできない。出会えたことに感謝して、相談に来る子と接しています。
以上
堂野さんの娘さんたちのお話や、質疑応答の部分は割愛させていただきました。(文責石井)
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